2013年6月21日

2日連続でそういう方とお会いした。偶然ではないかもしれない。

一昨日は趣味でやっている方で、暴落の前に売って、100万円儲けたそうだ。なのに割り勘だった。

昨日は仕事でやっている方で、どの程度儲けているかは知らない。だけど、相当な額であろうことは想像がつく。来月は、この方に、株の儲け方を学問的に深める話をまとめてお聞きすることになった。

いや、それで思ったのだ。左翼が政権をめざすなら、株で儲けられるだけの力量って必要だよねと。

レーニンが政権を獲得し、労働者が企業の経営をしようとした。だけど、計算能力にだって欠けているのに、とてもとても経営なんでできない。たちまち企業もロシア経済も危機に陥る。

結局、レーニンは、高額の報酬を払って旧資本家を呼び戻す。労働者の能力が高まっていないと、そうなってしまうのだという自戒の言葉を残している。

その後、経済における金融の役割が増大し、株式市場が圧倒的に広がっているもとで、労働者の能力もそれに見合ったものが求められる。金融や株式のことがあまり分からないということでは、政権の運営はできないだろう。

いや、政権をとったら株式市場を法律や権力でコントロールするんだ、だから大丈夫という立場もあるかもしれない。だけど、株式市場において、何をすればどう動くかが分かっていないのに、コントロールもできないだろう。
ということは、現在の株式市場でちゃんと儲けられるだけの能力がないと、政権運営もできないということだ。来月の学習会は、真剣に聞いておかないとダメだなあ。

そういう本もつくれるかなあ。どうでしょ。

2013年6月20日

本日午前は、この本のデザイナー、そして営業と打ち合わせ。この秋、左翼の再生を問う3部作を刊行する予定だが、そのうちの1冊である。

マルクスのいっていることは、彼の生きていた100年以上前の話ではなく、現代に生きるものだということは、よく議論される。それを証明するいろいろな著作もある。

ただしかし、そうはいっても、じゃあマルクスを若者が読んでみたとして、それが伝わってくるかというと、そう簡単ではない。たとえば、聞いたことのない名前の新聞なんかが冒頭にでてきたりするわけだが、当時のドイツ人にとってみると、当たり前の名前なんだろうが、知らないで目にすると、違和感がだけがつのる。そもそもドイツの話だってしらないで読んでいる人も多いし。

それだけじゃない。言葉遣いだって違う。資本主義が勃興する当時の労働者の気分というものがあって、マルクスはそういう労働者に向かって言葉を伝えているわけだが、いま日本にいる労働者とか若者とかの気分って、だいぶ違うと思う。「労働者諸君!」と訳しても、「誰のこと?」という感じの受け止めだろう。

もちろん、「これを伝えれば分かる」という中身もまったく違うような気がする。たとえば、人が生きるのに必要な栄養摂取量って、いまの日本ではカロリーとかタンパク質とかビタミンとかであらわされる。だけど、当時のドイツでは、炭素とか窒素が基準になっていたらしく、それを目にしてもやはり違和感がある。

だから、いまの若者が、「これは自分のことを書いている」と思えるようなものが、どうしても必要なのである。もちろん、マルクスの訳にはいろいろあっていいのだけれどね。

帯は「言葉が伝わらなければ革命はできない」かな。「マルクスがぼくたちの言葉で語ってくれている」かな。

2013年6月19日

 7月6日の土曜日です。午後1時半開場、2時開会です。一般の方にも開放されるそうなので、私からもお知らせしておきます。

 正式なタイトルは「憲法九条の軍事戦略」。サブタイトルが「沖縄問題を通じて考える」です。主催は、沖縄平和ネットワーク関西の会。学校の先生が中心になっておられるところですよね。

場所がすごい。同志社中学校(岩倉キャンパス)の、なんとチャペルなんです。すごい音響設備で有名なところですよね。私の声が本物よりよく聞こえたりして。そんなわけないか。でも、楽しみ。

資料代が1000円。こう書かれると、ちゃんと資料を用意しなければなりませんね。お問い合わせは、事務局の本条豊先生(立命館宇治中学・高校)だそうです。メールは、honjoアットマークjca.apc.org。

なお、16日の神戸新聞に「憲法九条の軍事戦略」の書評が載りました。ついでに紹介しておきます。

戦争放棄と防衛の両立 「護憲」拡大への挑戦

 刺激的なタイトルだ。「戦争放棄」「戦力不保持」をうたった憲法九条と、防衛の両立を目指すという。それは、まだ誰も試みたことのない作業であり、挑戦である、と著者は書く。 

九条維持を訴える「護憲」とは、戦力を一切認めない考え、との固定観念がつきまとう。だが、すべての軍事力をなくしていいものか。尖閣諸島をめぐる日中間の対立が先鋭化する中、「万が一の事態が起こったら……」との不安が生じるのは当然だろう。

そんな〝葛藤〟に本書は答える。「軍事力に頼るという気持ちは、平和を願うという気持ちと矛盾しない」と。自衛隊の存在は今や、国民の多くが認めている。日米安保体制への依存から脱し、文字通り「専守防衛」という九条の軍事戦略を描くべきときだ、と。

高校卒業まで神戸で過ごした著者は、「かもがわ出版」(京都市)の編集長。共産党で安保・外交の論客として政策作りに携わった経験を持つ。6年前、言論界に転身してからは、防衛省元幹部らによる『我、自衛隊を愛す 故に、憲法九条を守る』などの出版を手がけ、立場を超えた護憲運動の可能性を探り続けてきた。

 異論、反論は承知。閉塞感が漂う「護憲」に風穴をあけるか。

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以上

2013年6月18日

 これに民主党の細野さんまで加わって議論になっている。いろんな論点がある。

 最初は、田中均元外務審議官が、日本政治の右傾化が進んでいると思われていると発言した。それに対して首相が、田中さんが一時帰国した拉致被害者を北朝鮮にいったん戻すべきだと主張していたことを取り上げ、「外交を語る資格はない」と一蹴したのだ。

 これに細野さんが、最高権力者の権力を考えたとき、民間人の発言に対しては自制すべきだと横やりをいれた。首相の批判は、こんどは細野さんに向かうことになり、自民党は戦争をしたがっているという過去の発言がやり玉にあがる。細野さんは、自分が懸念しているのは言論の自由なのに、的外れだとやり返している。

 もともとの当事者だった田中さんは、本日の毎日新聞によると、「信念を持って語っている」そうだ。そして、これからも民間人の立場で発言したいと表明しているとのこと。

 まず気づくのは、安倍さんの批判がずれていることだ。田中さんが言ったのは、日本政治の右傾化のことである。それには何も答えないままで、官僚の過去の言動をあげつらう。細野さんの発言も、民間人の発言に対する総理大臣の批判のありようという問題なのに、そこは回避したまま、細野さん個人の言動への批判をおこなっている。議論の土俵をずらしているわけである。

 これは、自分に投げかけられている言葉を理解する能力がないのか、理解したとしてもそれに反論することはしないのか(右傾化は肯定すべき事実で反論の対象ではないと考えているとか、民間人に対する総理の発言としては行きすぎだと自覚しているとか)、反論することはできるけれども別の問題を持ちだした方が議論では勝ちになると思っているのか。そのうちのどれなんだろう。

 まあ、短い言葉のやりとりだからね。フェイスブックの議論を通じて、何か共通の理解に達しようというのは、そもそも無理なのかもしれない。というか、安倍さんの議論のやり方は、意見の相違は認め合いつつ、どうしたら共通の理解を得るのかという姿勢に欠けるものではある。だけど、TPPデモに対するレッテル張りの問題もあったけど、首相の頭脳の程度が伝わってくるというのも、リアルというか悲しいというか。

 ただ、日朝交渉を取り仕切った田中さんが、その過程をもっと語らないとダメだとは、ずっと思っている。それで、これまで2回ほど電話してお願いしたことはあるんだけど、これまでは断られ続けてきた。だけど、この問題を通じて、田中さんがやはり残しておかねばならないという気持ちになるなら、安倍さんの挑発も意味のあるものだったということになるかもしれない。また、近く、お電話しなくっちゃ。

2013年6月17日

 この問題が議論されることは大事である。これまで否定的に見てきた人のなかにも、橋下発言が契機になって、「実は恥ずかしいことではないのか」と顧みる人も出てきていているようだし、勉強する人が増えてくるのは歓迎である。

 そして、だからこそ、この問題で何を求めるのか、整理しておく必要を感じる。要求に論理的な整合性がなくなると、付いてこられな人がでてくるから。整理すべき問題はたくさんあるが、とりあえず、要求の内容と根拠が大切だと思う。

 そもそも、慰安婦のことが大きな問題となった90年代初め以降、要求の中心は国家による謝罪と賠償であった。しかし、何を根拠にしてそれを求めるのかでは、いろいろ難しい問題が横たわっていた。

 日本政府は、この問題は65年の日韓基本条約と請求権協定で解決済みという立場をとっていて、それをどう打開するかということが求められていた。そして、この時期に根拠とされたのは、人道問題は国家間の条約では解決済にされないという、新しい国際法の流れであった。65年の条約、協定で解決済みとされているが、国家がそう決めたからといって、人道犯罪の被害者はそれには拘束されないということでもあった。とりわけ、この協定は経済問題を扱ったものであって、人道問題は議題にもなっていないことが強調された。

 その後、いろいろな経過ははしょるけれども、日韓条約交渉の過程での議事録が公開され、個人の請求権の問題もこの条約と協定で解決済みにされたという「証拠」が出されたりして、韓国側も悩む。そして最近になって、韓国政府は、請求権協定の第3条で、条約の解釈について両国間に相違がある場合は外交交渉で解決するとなっていることを取り上げ、慰安婦問題の交渉を求めるようになる。日本の運動の側でも、この韓国の要求をもとに、政府に解決を求める意見が生まれた。

 しかし、ここには論理的な矛盾がある。請求権協定自体が、謝罪と賠償を求める韓国側と、それを拒否する日本側の交渉の結果、他の国と結んだ「賠償協定」という形式をとらないためにつくられたものである。賠償を支払うのではなく、先ほど書いたように、植民地支配時代の経済的な損失について韓国側が請求し、日本が経済協力という考え方もあわせてお金を支払うというものなのだ。だから、韓国では一時期、この条約と協定の破棄を求める数十人の国会議員が、国会に決議案を提出したりもした。

 90年代、慰安婦問題というのは、経済的な損失の問題ではなく、国家が犯した人道的な犯罪問題だというのが捉え方だった。だから、謝罪と賠償を求めたはずである。ところが、請求権協定の枠内で解決するとなると、要求の性格が経済的な損失の問題になってくるわけだ。

 それはそれで大事な考え方だろうと思う。謝罪と賠償にはならないけれど、女性基金と異なり、国からお金が出るなら前進であって、それで解決していいというのも、ひとつの解決方法だ。

 ただいずれにせよ、十分な議論と整理が必要な問題ではあると思う。ひとつの本にするくらい、大事な問題だと考える。つくるとするか。