2013年6月10日

 先週土曜は神戸市へ。兵庫県の九条の会をはじめ、党派を超えた護憲団体が、改憲派として有名な小林節さんをお呼びして講演会を開催するというので、聞きに行きました。「改憲派が斬る憲法96条改悪」というテーマです。

 本屋ですから、小林さんの本も仕入れ、本の販売もしてきました。改憲派である小林さんの本と私の「憲法九条の軍事戦略」だけが並ぶという、ちょっと他では見られない光景でしたね。

 講演内容は、立憲主義とは何かを語る、きわめて豊かな内容でした。その内容は、これからいろんなところで語られていくでしょう。

 私が再確認したのは、憲法9条改正論者って、平和と安全という問題で、意外に護憲派と親和性があるのではないかということです。アメリカと一緒になって海外で戦争できるようにするために改憲すると考えている人は、ほとんどいないでしょう。

 どこに親和性があるかというと、改憲派のなかには、憲法9条改正を望む動機として、現在のアメリカべったりの軍事戦略への批判の気持ちをもつ方が少なくないからです。外国に守ってもらうのはおかしいという方や、なぜアメリカの侵略戦争に協力しなければならないのだという方ですね。小林さんも、イラク戦争の例をひきながら、アメリカのポチになってはならないと強調しておられました。

 日本がそんな現状に甘んじないようにするため、自立した軍隊にしようじゃないか、そのために改憲しようということです。思考の論理としてまっとうなんです。

 そういう点では、アメリカにものもいえない現状について、「仕方がない」とあきらめているような人々よりは、ずっと話が通じます。少なくとも、私にとっては、お話ししやすい。

 ということで、もちろん小林さんには、『憲法九条の軍事戦略』をプレゼントしてきました。左翼出版社から本を出していただくことにも関心をもっていただき、「是非、企画書を送ってください」ということでしたので、いま考え中です。

 みなさん、どんな本がいいでしょうか? 「改憲派から護憲派へのエール 護憲派はもっと勉強して、もっと頭を柔らかくして、がんばりなさい」という感じかな?

 

2013年6月7日

 先日、東京のある会議に出ていて、このテーマの本が出ないかなあという話になった。あまりに後ろ向きすぎて、本にしても売れないだろうけれど、大事なことではあるよね。人ごとじゃないし。どこか、他の出版社が出さないかなあ。

 よく原因として言われるのは、おもに左翼陣営からの指摘だが、自衛隊と安保を容認したのが決定打だったということだ。これは、ある意味で言い当てているが、別の意味ではまったく説得力に欠ける。

 後者から言うと、じゃあ、自衛隊と安保にきびしく反対する政党は伸びるかというと、まったく逆である。だって、国民の8割以上が自衛隊と安保を認めていて、自衛隊の縮小(廃止ではなく)を求める人が数パーセントしかいない状況において、尖閣で何が起ころうがが、北朝鮮のミサイルがどこに向かおうが、どんな場合も絶対に自衛隊を使ってはなりませんという立場を表明していたら、どんどん支持を減らすのは目に見えている。選挙で数パーセントを超えることはできない。単線的な見方しかできないと、社会党の凋落から学ぶことができない。

 じゃあ、どこが言い当てているのか。それは、社会党が、非武装・中立という理念に賛同する人々だけで党を構成し、支持者もそこだけにどんどん狭まってきた時点で、自衛隊と安保を何の考えもないまま容認したことにあるだろう。どういうことかと言うと……

 社会党の非武装・中立は、ずっと以前からの立場だった。しかし、国民の社会党への支持がそういうところから生みだされていたかというと、それは疑問だ。だって、昔だって非武装・中立を支持する国民は10%を超えることはなかった。侵略されたらどうするんだと詰め寄られて、降参して占領を認めるんですということしか回答がないのに、そんな政策を支持する国民は、やはり超少数派だったわけだ。

 そういう具体的な政策ではなく、社会党は、日米安保のもとで軍備拡張をすすめてきた自民党への対抗軸として、やはり存在感はあったと思う。強大な敵に立ち向かうには、対抗勢力もそれなりに強そうにみえないとダメなわけで、その期待が社会党に集まっていたのだと感じる。だからこそ一方で、実際に日本が非武装・中立になっては困るということで、政権をまかせるほどの支持までは寄せられることがなかったわけだ。

 社会党が、本気で政権をねらうために、安全保障問題でも本気の政策を具体化するなら、少しは変化があったかもしれない。だけど結局、社会党は、最後の最後まで、安全保障政策というものを出せなかった。非武装・中立という以外、出せなかった。それが続けば、党員も支持者も、そういう人だけになっていくのは当然だろう。

 そして、何も考えていなかったところに、突然、政権の座が転がり込む。しかも総理大臣である。

 他の閣僚ポストなら、社会党の基本政策を変えないでもよかった。自分や自分の党は自衛隊について違う考え方をもっているけれど、閣僚として内閣の方針、首相の方針に従うということで済んだわけだ。内閣とはそういうものだ。
 
 だけど、総理大臣になってしまったら、そういう言い訳は通じない。かくて社会党そのものが自衛隊・安保容認ということになる。

 しかも、ただ容認しただけではない。もし、多少なりともそこで自前の安全保障政策を立案しようと思えば、専守防衛の立場からどうするか思考し、総理大臣として影響力を発揮できたはずだ。

 ところが社会党は、日米安保にもとづく抑止戦略という、自民党政権の最大の問題点に何も手をふれることができなかった。それに対抗する政策構想を提示できなかったのである。そのため、非武装・中立という考えの外にいる多数の人々の支持を得ることもできなかった。理念だけが空回りし、政策というレベルでものを考えてこなかったツケが、一挙におしよせてきたわけだ。

 そして、その時点で、党員も支持者も、非武装・中立の理念に存在意義を感じる人ばかりになっていた。そういう理念を支持する人って、いまや数パーセントしかいないけど、そういう人たちだけの政党になってしまっていたわけである。

 そんな段階で、非武装・中立どころか、安保抑止戦略の立場に立ったら、少なくなった支持者からも見捨てられるのは当然であろう。そこから何を学ぶかが大事なことである。

2013年6月6日

 ずっと慰安婦問題をみてきたものとして、この点は大事なのではないかと感じる。結論を出せるほど考え抜いてはいないのだが、少しだけ感じるところを。

 安倍さんと橋下さんの言っていることは、ほとんど同じなのだ。強制連行を否定したり(安倍さんの場合は狭義の強制ということだが)、河野談話を問題にしたり。

 だけど、安倍さんの発言は、アメリカからはきびしい批判があったが、日本国内においては、左翼層からの批判がいつものようにあるだけで、中間層へのひろがりがなかった。それをよしとする世論もあって、自民党や安倍さんが選挙で勝利することにもなる。

 ところが一方で、橋下さんの発言に対しては、アメリカはもちろん、日本国内での批判がつよい。普通の日本人が嫌悪感をもっている。

 橋下さんにあって安倍さんになかったのは、「慰安婦は必要」という発言だろうと思う。沖縄での米軍への勧めも、男にとってそういうものが必要だという見地から来るものだ。

 男というものはそういうものだ、女というものもそういうものだ、そういう考え方が如実にあらわれたところに、批判が強まる背景にあるのではないだろうか。要するに、人間に対する見方の貧困である。

 安倍さんのときには、「日本人がそんなひどいことをするわけがない」「日本はそんな国ではない」として、支える世論を形成した。ところが、橋本発言に対しては、「日本人がみんなそう考えていると思われたくない」「日本人として恥ずかしい」という感じの受け止めになっているように思える。

 つまり、同じ日本人としての誇りという感情が、この二つのケースでは、まったく逆に作用している。ここを考えなければならない。

 何が言いたいかといえば、今後の安倍さんをどういう角度で批判していくのかだ。安倍さんは、強制性の有無を問題にしているわけだが、そこに議論を集中すると、細かいところに入り込んでいって、世論と乖離するかもしれない。

 そうではなく、安倍さんも橋下さんと同様、慰安婦は必要だと考えているのかということが、突きどころかもしれない。当時の軍は慰安婦を必要としていたのかという角度でもいい。

 強制の有無は別にして、慰安所は軍が設置し、管理したものだから、軍が慰安婦を必要としていたことは否定できないはずだ。そうすると、安倍さんも橋下さんと同じ人間観に立つことになる。それが日本人として恥ずかしいではないかという角度の追及につながっていく。

 さあ、どうかなあ。もう少し考えます。

2013年6月5日

 橋下徹大阪市長の発言が大きな問題となっている。この問題で、かもがわ出版は多くの本を出している。
 もっとも最近のものは、4月発売の『「村山・河野談話」見直しの錯誤 歴史認識と「慰安婦」問題をめぐって』(シリーズ安倍新政権の論点Ⅲ)。これ以外に、現在発売中のものは、以下の通りである。
 『司法が認定した日本軍「慰安婦」』『「慰安婦」と心はひとつ 女子大生はたたかう』
 すでに品切れになっているものもある。
 『ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度』・『「慰安婦」問題と女性の人権』

 慰安婦問題というのは、90年代初頭、韓国人慰安婦が日本で裁判を起こすことによって、大きな問題となった。女性が自分の意に反して慰安婦とされ、戦地に送り込まれたわけであって、人道的に許されないことは明らかだった。だから、いくつもの本をつくってきたわけだ。

 慰安婦に関する本というのは、率直に言って、あまり売れない。安倍さんや橋下さんのように、日本国家として悪いことはしていないという立場の人が買わないだけではない。慰安婦問題への国家責任を認める人にとっても、自分の生まれた国が、これだけの残虐なことをしてきたという事実を次々に突きつけられることは、とてもつらい作業なのだと思う。

 ただ、慰安婦問題とは、そういう生々しいだけのことではない。国際政治とか国際法とか、あるいは日本の歴史とか、日本の国のありようを考えさせてくれる問題でもあり、そういう角度でも読んでいただければと思う。

 たとえば、日本政府は、この問題は決着済みだというのが基本的な態度である。1965年に結ばれた日韓基本条約と関連協定によって、日本が植民地支配をしていた時期の問題は、すべて解決したというものだ。もし、慰安婦に対して何らかの支払いが必要であるとしても、それは条約にもとづいて日本が韓国に支払ったもののなかから、韓国政府が支出すべきものだというのが、日本政府の基本的な見地だ。

 実際、それが国際政治、国際法の常識である。それに対して、どういう論理で謝罪と賠償を求めるのかということが、この問題を理解するうえで欠かせない。個人に対する重大な人権侵害というのは、国家間の条約で決着というわけにはいかないという、新しい考え方が生まれている。まだ主流ではないが、そういう流れを促進する立場に立つのか、いまは主流だとはいえ、過去の立場にしがみつくのか問われる。慰安婦問題を学ぶことは、そういう問題を学ぶことでもある。

 あるいは、人道的な責任と法的な責任の区別、関連という問題も重要だ。たとえば河野談話は、「数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省」を表明する(93年)とのべ、本当に心からのお詫びの気落ちが伝わってくるものだ。また、この談話の思想で村山内閣時代につくられた「女性基金」は、総理大臣の名前で謝罪の手紙を個々の慰安婦に渡し、若干の支払いもおこなった。当時、韓国だけでなく、インドネシアとかフィリピンでも慰安婦問題は焦点になっていただ、それによってこれらの国では大きな問題にならなくなった。

 ところが韓国ではまったく解決しなかった。そこには、「河野談話」と「女性基金」の謝罪が人道的なものにどとまっていて、法的な責任を認めたうえでのものではないとする考え方があるとされる。なぜ韓国と他の国は、そこで分かれることになったのか。法的責任と人道的責任って、どこがどう違うのか。法的な責任がはっきりさせたら、慰安婦問題は解決するのか。慰安婦問題を通じて、そういう複雑なことにも思いをはせることが可能になる。

 関連して植民地支配の問題。私には、韓国でだけ問題が解決しない最大の要因は、慰安婦それ自体の数の多さということもあるだろうが、韓国だけが日本の植民地とされ、言葉や名前を奪われたという経験があると思われる。そして、そのことを、現在に至るまで、当時の国際法に合致していたと日本政府が言い張っていることにあると思われる。当時、世界の列強が植民地支配をしており、日本もその仲間入りをしただけだ、他の国が合法でいまも法的責任を追及されていないのに、なぜ日本だけが問題になるのかという思想がここにはある。 けれども、日本の植民地支配は、欧米によるものとはかなり異質である。日本は、何千年もの間、ぎくしゃくもあったけれども共存してきた国を植民地にしたのだ。ヨーロッパにたとえると、ドイツがフランスを植民地にして、フランス語を禁止し、名前もドイツ風に変えさせたようなものだ。いくら欧米列強といえども、そんなことを合法だとはいえなかったし、やらなかった。

 そういういろいろな問題を、慰安婦の本を読むと考えることになる。是非、手にとって読んでいただけれと思う。

2013年6月4日

アフリカ開発会議はもう10年も前からやっていて、今年の開催も、別に安倍さんが決めたわけではない。だから、会議自体に政治的意図があるわけでないのは確かだ。

だけど、安倍さんの発言を聞いていると、どうもうさんくささがつきまという。何というか、中国に負けるなとか、中国を包囲しろとか、そんな思惑でやっているみたい。

だって、本来の目的は、あくまでアフリカ支援でしょ。アフリカ支援のためには何が大事で、どんなやり方がいいのかってことを、何よりも基準にしなくちゃならない。

そういう角度でみると、中国が支援することについて、あまり否定的に見てはいけないと思うのだ。他の国から援助を受けている国が別の国には援助してどうよ、という見方も存在するが、それもアフリカの立場に立って考えるとそう単純ではない。

だって、たとえば、空港などのインフラをつくる事業を日本と中国のどちからが請け負うとする。そのために両国が技術者を派遣しなければならないとする。その技術者の給与の額を考えてほしい。日本の方が圧倒的に高い。技術者の給与だけでなく、あらゆるものにそれは当てはまる。

ということで、同じ空港をつくるのに、中国からの援助を受けた方が、圧倒的に安くつくれるわけだ。あるいは、同じ額の支援なら、中国から受けた方がお得だということだ。アフリカが中国を選択するのは自然の流れである。

結局、大事なことは、日本が何をやったらアフリカ支援に効果的なのかということだろう。それを抜きに中国と競争しても仕方ないでしょ。

これ、先進国が開発途上国に援助するのではなく、開発途上国のうちの上位にある国が下位の開発途上国を援助するということで、よくやられている。この世界では、「南南援助」というヤツだ。

これからはアフリカの成長の時代だから支援するという安倍さんのものの言い方も、どうも気にかかる。結局、支援の最大の基準は日本経済のことかよと(それも大事だけど)、ついつい思ってしまうのだ。

でも、アフリカは、まだまだ紛争の地でもある。スーダンのことは、自衛隊も行っていて少しは報道されるが、他にもたとえばコンゴ民主共和国(昔のザイール)のこともある。

90年代末からの紛争で500万人以上、いまでも毎月4万5千人が亡くなっているという報道もある。毎年40万人がレイプされているという話もある。そういう事態に目をつむって、経済成長が見込まれるから日本企業が進出するという発言もどうかと思う。

このコンゴ、実は、紛争が開始された1999年、国連安保理が決議を採択し、集団的自衛権の発動をオーソライズしたことがある。安保理が集団的自衛権を認めるって、覚えているかなあ、その2年後の9.11の際の安保理決議のさきがけとなったものだ。

安倍さん、アフリカに本当に関心があるなら、まずコンゴで発動された集団的自衛権はどんなものだったか、それを視察に行ったらどうだろうか。集団的自衛権にもかかわらず何百万人もが亡くなったのはなぜかを究明することが、この秋以降の解釈改憲論議にとっても欠かせないだろう。どうでしょ。