2013年6月3日

全部書き終わって、出版社に送りました。この秋、安倍首相の懇談会が、解釈改憲で集団的自衛権を認めるようにしようという報告書を出す予定ですが、それと同時期に出版される予定です。

それにしても、書きながら、いろいろなことを思いました。たとえば、何があっても、安倍さんが総理の座にあるあいだだけは、集団的自衛権の行使を認めてはいけないことです。

だって、安倍さんは、何が侵略か分からないという人なのです。何が侵略か分からないというのは、その逆である「自衛」のことだって分からないということです。

集団的自衛権というのは、国連憲章の建前では、侵略(武力攻撃)が発生したとき、それへの反撃として発動される権利です。一応は、侵略というものの、対概念なのです。

その区別がつかないということは、自衛だといって軍事行動するけれども、実際は侵略するのかもしれないということです。侵略といっても国によって見方が違うとか、客観的な侵略の基準がないとかいっている人が、戦争するかしないかの判断をすると、そうならざるをえない。

実際、集団的自衛権をめぐっては、そういうことが起きてきたわけです。ソ連のアフガン介入だって、ソ連は、アフガニスタンに対して武力攻撃が発生しているといって、アフガンを攻めていったんです。アメリカの艦船に対して武力攻撃が発生しているといって、安倍さんが自衛隊に出動命令を出すことを考えると、同じようなことにならない保障がないでしょ。だって、何が侵略で、何が自衛なのか、かれには判断できないのだから。

しかもアメリカは、この連載ですでに書きましたが、自国の艦船が武力攻撃されたという状況をでっち上げ、ベトナムへの北爆を開始した国です(64年)。米艦船が本当に武力攻撃されたのかどうか、アメリカをはじめちゃんとした調査をして態度を決める国ならともかく、アメリカのいうことなら何でも信じるという日本政府、とくに安倍さんには、そんな判断を任せることはできません。

だけど、もっと難しいのは、さっき書いたように、集団的自衛権というのは、じつは侵略への対概念だということです。形式的には「正義」の概念なのです。だって、侵略された国を助けようということですから。

ということで、集団的自衛権を全否定してしまうと、論理がおかしくなるのです。ところが、日本の平和運動では、集団的自衛権って、ただただ忌み嫌うべきものになっている。そこをどう解きほぐして、安倍さんの野望を阻止する力にするか、その辺が一番力を入れたところです。