2013年7月24日

選挙が終わって、安倍首相、やりたいことに手をつけはじめましたね。来月にも「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を開催し、秋には集団的自衛権の行使が合憲だとする「新報告書」を提出させるそうです。ということで、それにあわせて『集団的自衛権の深層』(仮)という本を出します。先日、その本の「おわりに」を書きましたので、以下、ご紹介しておきます。

この「おわりに」を執筆している時点で、安倍首相の「懇談会」による「新報告書」が最終的にどういうものになるか、確定してはいない。以前の「報告書」作成時とメンバーが同じで、「出来レース」と呼ばれているほどのものなので、ほとんど同内容のものになると思われるが、報道によれば、一点だけ質的に新しい問題が議論になるようだ。それは、サイバー攻撃に対して集団的自衛権を発動するかどうかというものである。

ネット上の操作を通じて相手国に大きな打撃をあたえるサイバー攻撃の問題は、マスコミでも大きな話題になっている。アメリカは、2011年5月に発表した「サーバー空間のための国際戦略」のなかで、サイバー攻撃に対する「自衛権」を確認した。そして、サイバー空間における安全は単一の国家によっては達成できないとして、集団的自衛の手段を進展させることまで明言したのである。

しかし、本書を読んでいただいた読者にとっては、これが集団的自衛権の行使対象としてふさわしいかどうかは、容易に判断していただけるだろう。自衛権の三要件から考えればいいのである。

サイバー攻撃を「侵略」や「武力攻撃」とみなせるかどうかは難しい。それによって生じる被害の規模は、コンピューターシステムに外形的な攻撃がくわえられる場合よりも、もっと甚大なものとなる可能性はある。けれども、それが相手国の先制的な攻撃かどうかは、判断することが不可能だろう。エドワード・スノーデン容疑者の暴露にみられるように、アメリカ政府も中国に対するハッキングを日常茶飯事にやっているのであり、中国が「アメリカの攻撃に対する自衛措置だ」と言い張れば、世界の世論の判定は「五十歩百歩」というものでしかないと思われる。

一番問題になるのは第三要件、均衡性の原則である。集団的自衛権の行使を検討するというからには、想定されているのは武力の行使である。おそらく、サイバー攻撃の拠点とみられる相手国の施設などを爆撃するなどの措置が検討されているのだろうが、その場所の特定は難しいと思われる。特定できたとしても、相手国は武力を行使していないのに、日本は武力を行使するというのでは、あきらかに均衡を欠くものとなり、自衛権とはいいがたいものとなろう。また、本当に特定できるほどの能力があるのなら、その能力を駆使して防御することも可能となり、そもそも武力行使など不要になるに違いない。

日本とアジア、世界の平和と安全にとって、いま考えるべきことは山積みしている。中国との関係にしても、尖閣諸島をめぐる問題をどう解決するかが、いまもっとも大事なことである。それなのに、自民党政権がやっていることは、中国への外交的アプローチを放り投げ、ただただ中国と戦争になった場合にアメリカをどう助けるかの検討だけなのだ。集団的自衛権の行使が可能となれば、それは検討にとどまらず、現実のものとなっていく。本書が、その愚かしさへの理解をひろげる一助となれば、筆者としては幸いである。

前著である『憲法九条の軍事戦略』は日本が侵略される事態を想定し、自民党の路線に対する別の選択肢を提示したものだが、本書は国際貢献の分野における自民党路線への対案としての意味をもつ。戦後日本の骨格ともいうべき憲法が変わるかどうかの岐路にあるいま、このふたつの分野における議論がさらに豊かなものになることを願う。

2013年7月23日

昨日の続きである。保守との共同で政権をめざすことは、社会発展の方向性のなかでどう位置づけられるのか。

いわゆる「革新」日本をめざすという方向性があって、保守との共同というのは、そういう方向性とは逆行するもの、あるいは関係のないものだろうか。あるいは、そもそも保守との共同は運動上の問題であって、政権がどうのこうのという性格のものではないのだろうか。

そうではないと思う。いくつかの点から。

ひとつは、めざすべき政策の方向性で一致しているからだ。農業にせよ医療にせよ、いま保守の人びとが自民党政府にたてついているのは、直接には自分たちの「既得権益」が犯されようとしているからである。だがそういう状態は、いまの日本が、国境を越えた資本活動の自由化をめざすことによって、生じているものである。ということは、保守の異議申し立ては、資本のコントロールが必要だという革新の主張の基本点が、労働分野にとどまらず広がっていることの証(あかし)なのだ。だから政策的な一致点が存在するようになってきた。

そしておそらく、日本社会の将来像をめぐっても、保守と革新は一致する。いま、日本がすすもうとしているのは、国際競争を勝ち抜く強い企業、強い個人をつくるような社会であって、そうでない多数の人びとには価値がないというようなものだ。

一方、日本の保守は、それとは異なる価値観をもってきた。村落共同体に代表されていたように、人びとが支え合い、助け合っていくという社会のありようは、日本の保守の良き伝統である。それがいま、一人勝ちという言葉に象徴される資本の横暴によって、ズタズタにされている。

だから、共同体的な社会を大切に思い、復活させようとすれば、保守勢力も、客観的には資本主義を乗り越えなければならないわけだ。そして、革新の側も共同社会(コミューン)を方向性としてめざしている。資本主義の枠内での改革であっても、そこでめざしているのは、一人勝ち社会ではなく、みんなのためにという共同性の方向を向いている。

もちろん、どうすればそういう社会になるのかについて、生産手段がどうのこうのなどという複雑な議論ではすぐに合意はできないだろう。しかし、社会のありようという点では、保守と革新は一致できる。一人勝ち社会から支え合う共同社会へ、ということだ。

ということで、リベラル保守からリアリスト左翼までを対象に、どういう社会をめざして、どんな政策で一致していくのか、どんな政権構想がありうるのか、議論できるようにしたいなあ。そこを探求する本をつくっていきたい。

2013年7月22日

ということが、いま焦眉の課題であると思うのだ。参議院選挙の結果をみて、ほんとうにそう思う。

3年半前に自民党政権が倒れたのは、政権を変たいという国民の意思のあらわれであった。その結果、何十年も続いた政権であっても、本当に変えられることが分かった。だからこそ、昨年末、何の頼りにもならない民主党政権は、いとも簡単に見限られた。いま国民は、自分の力で政権交代ができると実感していて、そういう角度で政党を見ている。

今回、自民党が大勝したのは、ひとつにはアベノミクスへの期待があったからだ。これだけ長引く不況の中で、ずっと先行きが見通せない状態が続いてきたから、少し目先が変わって見えるアベノミクスには、すがるような気持ちがあっただろうと思う。

同時に、自民党にはTPPや改憲その他で不安はあるにしても、じゃあ政権をまかせる対抗軸として野党を見渡したとき、「この政党になら」というのも見えていなかった。比例代表の結果をみると、400万票台の「みんな」、500万票台の「共産」、600万票台の「維新」、700万票台の「民主」と分散しているのは、その結果だろう。

ここからどの党が抜けだして、3年後のダブル選挙(憲法国民投票とのトリプル?)で自民党の対抗軸になっていくのか。それを決めるのは、この間の経過からいっても、「政権」を担う意思と力があるかどうかだろう。橋下さんが政界再編をいうのも、政権にからまないと有権者から相手にされなくなるということは分かっているからだ。

だけど、「みんな」や「維新」は政策的な対抗軸を示せない。だから、政界再編話にしかならないのだけど、そろそろそれも賞味期限が来ているように思う。

政策的な対抗軸を示しているのは「共産」だけである(以上の4党に限っていえば)。問題は、3年後の「政権」への本気度として認知されるものになるかだ。何といっても、衆参ともに「一人区」で勝利しなければならないのだから。

しかも、たとえば護憲という課題をとってみても、「社民」とか「生活」などと一緒になるというレベルでは問題にならないことは、ますますはっきりしている。圧倒的な保守層とどう連携していくのかが、この問題でのキーポイントである。

護憲ということでいえば、それを明確に打ちだしている元自民党の国会議員がいる。TPPの問題では、農協の幹部がたくさんいる。民主党なんかは、政権をとるにあたって、医師会の代表などを擁立した。あるいは、私の世代を見渡すと、ちゃんと物事をまじめに考えている大企業の管理職とか、中央官庁の官僚も少なくない。防衛官僚だってそうだ。

実際、そういう方々のなかに、定年間際に退職して、政治の世界に飛び込んだかたもいる。自分の信念を裏切って大企業や官庁で最後まで仕事するのもつらいからね。

そういう方々を左翼が協力し合って擁立し、保守的な方々と気持ちがいっしょだということを示すことになれば、自民党と対抗できる大きな力になると感じる。どうだろうか。

もちろん、その場合、保守的な方々と政権をともにするのだから、政策のどこで一致するのかという問題が生まれてくる。たとえば、安保をただちに廃棄するということにはならないが、じゃあ、普天間をはじめ安保にかかわる課題に何を実現するのかということも考えねばならない。

やるべきことは多いなあ。出版には何が求められていくのだろうか。

2013年7月19日

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この本、ようやく私の手を離れます。月曜日に印刷所に入稿です。出来上がってくるのは8月5日で、お盆前に本屋に並べることができるでしょうか。

著者は3人。池田香代子さん、齋藤紀さん、清水修二さんです。池田さんは、3.11直後から母子支援ネットワーク「hanako」に参加、さまざまな角度から福島市線に関わってこられました。齋藤さんは、一貫して広島で被爆者医療に携わり、現在は福島市内の病院で被災者の医療に尽力しておられます。清水さんは、地方財政論が専門の福島大学教授で、双葉町の復興まちづくり委員会にも加わっておられます。福島再生を語る上でベストメンバーだと思います。

30点を超える写真が入ります。福島の現状を伝えるものがメインです。これを生かすために、オールカラーの本にしました。

どんな写真かっていうと、この「編集長の冒険」を見ていただいている方なら覚えているかもしれませんが、3月に福島県相馬市で「福島再生の可能性はどこにあるか?」というシンポジウムをやったでしょ。その際に東京、京都、札幌からツアーを組んだんですが、それに京都から参加していた20歳代、30歳代の若者が撮ってくれた写真なんです。京都で聞いていた福島とは違った現実の福島に接して、その新鮮な気持ちが写真にあらわれているように思います。

そう、そのシンポジウムでお話ししたのが、今回の本の著者である3人でした。池田さんには翌月、京都でも講演していただきました。それらのお話がもとになってはいますが、ほとんど書き下ろしといってもいい内容です。

参議院選挙前に出せれば良かったですけどね。だけど、福島再生の課題は、衆参で多数を占める(であろう)自民党と正面から対決して実現すべきものであって、本格的に構えて闘わなければなりません。そのための大きな力になることは間違いありません。8月5日以降は、ここから注文できます。

2013年7月18日

昨日午後は、高槻市内にある大田茶臼山古墳を経て、今城塚古墳(と併設する歴史館)へ。冬につくる学校図書館向けの税金の本をつくるのだが、その準備だ。

この本の第1巻目では税金の歴史のことも扱う。国家ができる前に税金はあったのかとか、国家ができてどうなったかとか、主権者という概念が生まれて税の性質は変わったのかとか、その他その他。そういう問題にイメージをもつため、担当の編集者とデザイナーといっしょに行ったというわけ。

その後は、4コママンガの検討会である。『超訳マルクス』の本はどんどんすすんでいるのだが、そのなかでは、現代に引き寄せて考えられるよう、イラストやマンガをたくさんいれようとしている。4コママンガもその一環。

全体として、『超訳マルクス』の内容にあわせて、ブラック企業と闘うというイメージで、マンガもつくりたい。6種類。

3種類は、ブラック企業の告発だ。もちろん、ワタミとユニクロかな。これは、それぞれの代表者の顔を、どれだけうまくかけるかが大事。それと、いま政府で検討されている労働法制の規制緩和の暴露もしなくちゃ。

残り3種類は、闘うことの意味を考えるもの。これが大事だけど、むずかしさもひとしおである。

ひとつは、若者が立ち上がって成果を獲得したという、そんな感じのものだよね。やっぱり、牛丼「すき家」のことだろうか。アルバイトの残業代が支払われず、青年ユニオンに入って闘おうとしたら、会社側から「そんなの組合じゃねえ」とか言われて団交拒否にあったというヤツだ。だけど、裁判に訴えて、最後は勝ったんだよね。

ふたつめは、労働者の闘いが労働時間を短縮させてきたという、その関係がわかるもの。だって、1日8時間労働週48時間労働条約ができたのは、マルクス以来の国際労働者協会(インターナショナル)の成果だということは、かつて日本の文部大臣だって言ったことがあるしね。バカンスとか週40時間労働制とかは、フランスの反ファッショ統一戦線の成果でもある。

最後は、グローバリズムにどう立ち向かうかだろう。これは、グローバリズムというものが、どの国の勤労者をも抑圧する結果になっていて(アメリカの勤労者だって同じである)、国際連帯の基盤がつくられていることが大事かなあ。そして、国境を越えて労働者、農民が肩を組んで、『嗚呼、インターナショナル、我らがもの』と歌っているとか。

どうでしょ。編集長って、こういうストーリーを考えて、「1コマ目のマンガはこんな感じ」とか、「これは、ファッション業界の華やかさが出るように」とか、そんな指示もするんですよ。いまは、参議院選挙後にどんな本が求められるか、いろいろ考えることがあって、とても楽しいです。