2013年9月20日

 歴史教育者協議会という、読んで字のごとくの団体があります。そこが年報を出していて、月末までに1万字の原稿を出さないといけません。

 そこの担当者が私の『憲法九条の軍事戦略』を読んだらしく、私の学生時代の友人の会員(高校の社会科の先生)を通じて、依頼があったので引き受けたのです。で、テーマが、九条の外交力とはどういうものか、ということでした。

 いや、『…軍事戦略』というタイトルの本を読んで、外交戦略について書かせようと思いつくわけですね。でも、この本のタイトルは、「九条」と「軍事」という、いわば正反対のものを合体させるという「刺激性」に妙があるわけですが、中身は、軍事力をこう使うのだと言いつつ、使わないためにはどうするのかというところに結論があるわけです。

 だから、ちゃんと読んでくれた方は、「本当のタイトルは「憲法九条の平和戦略」だね」と言ってくれたりします。だから、今回の原稿依頼もあったわけですね。

 でも、そうは読んでくれない人もいます。ネット時代は、そういう反応がすぐに出回るのが面白いですよね。アマゾンの最近のレビューによると、私のことを「改憲派が護憲派に送り込んだスパイだ」という人もいます。いやあ、改憲派って、すごい陰謀を企んでいるんですね(笑)。スパイになるために、何年も苦労して本を書きませんよ。

 ま、そんなことは気にしていられない。まだ原稿は一字も書いてませんしね。

 だけど、構想はあるんです。三つにわけて、九条には戦争を阻止する力があることを書きます。

 一つは、これはよく言われることですが、紛争の根源に立ち向かえる力ということですね。貧困とか不正とか、それが直接の原因ではないにしても、それを背景に戦争が起きることがあるわけです。日本は戦後、軍事力でなくて経済力で世界に貢献してきたわけですが、それが紛争の現場ではいちばん求められているという問題です。

 実は、第一次アーミテージレポートの執筆者として名前を連ねている人のなかにも、日本の経済的な成功は九条のおかげだと言っている人もいます。九条を変えるというのは、日本経済の沈滞をのぞむ、それこそアメリカの陰謀かもしれませんね。

 二つ目は、紛争で人の命を奪う各種の武器を規制する力になるということです。これは、本で書いたことをより詳しくということです。

 三つ目は、紛争そのものを抑える力になるということです。これは、本で書いたことも書かなかったことも、いろいろと。

 いま、九条をめぐっては、「中国が軍事力で日本の主権を侵しているのに、日本は憲法九条があって軍隊を持ってはいけないことになっているので対抗できない」「だから九条を変えて「国防軍」をつくろう」と叫ばれるわけです。それに打ち勝つためには、増強し、昂ぶる軍事力を抑え、弱めるには九条が大事だということを、現実の経験で示していくことが求められます。

 ということで、ブログなど書かずに、原稿に取りかからなくっちゃ。では……

2013年9月19日

 先日、在日米軍の責任者が沖縄の仲井真知事と会談し、オスプレイが尖閣まで飛べることを強調したという記事が出ていました。なんのこっちゃ。

 いや、そりゃあ、それだけの航続距離はあるでしょうよ。分かりきったことです。だけど、オスプレイが尖閣まで行って、何をするんですか?

 領海侵犯する中国艦船を排除したりする装備はない。領空侵犯する中国機に対しても同様。だって、装備と人員を運ぶのが役目だからね。

 それとも、攻撃にさらされている尖閣に、弾薬を運んだり、米軍人を降ろしたりするんでしょうか。それって、軍事的にあり得ないでしょ。尖閣が大規模に包囲されたとして、あんな小さな島には反撃するための部隊は置けないんですよ。そこに部隊が閉じこもっていては、ただただ攻撃にさらされるだけですよ。

 自衛隊関係者にお伺いすると、尖閣が攻撃されるようなことがあったら、いったん引き下がるのが大事だということです。第二次大戦における太平洋上の島の攻防戦で分かるように、島を守るって、難しいんだと。

 で、その後どうするかで、二つに分かれます。一つは上陸作戦の敢行。最近、日米共同演習もやられましたよね。だから上陸作戦を任務とする海兵隊的な機能が必要だといわれています。だけど、これも犠牲が多いので、反対する方も多い。

 多くの方は、部隊を周辺に集結させて、艦砲射撃をして奪い返すのが合理的だとおっしゃいます。その前に、まず侵略の非を世界中に宣伝するわけですね。その段階で撤退するなら、それでいいわけだし。

 理論的にはそういうことも考え、準備をしておくことはありです。ただ、こういう想定って、どうも現実味がない。中国にとって尖閣とは自分の領土だから何とかしようという気持ちはあるでしょう。だけど、じゃあ尖閣を奪うことにより、中国にとって何か利益があるかというと、そうではない。

 いまどき、軍事力で領土を奪うなんて、どんな国にとってもタブーです。世界中を敵に回すことです。

 それだけのことをやっても意味があるなら、やるかもしれない。だけど、そうやってホットスポットにしてしまったら、海底資源開発なんてできません。争いがあったら実益にならない。

 それに、中国の軍事的なねらいにとっても無価値です。中国は、第一列島線から第二列島線へと活動の場をひろげたいわけですよ。そうやって、この海域全体でアメリカと対抗できるようにしたい。そのためには、別に尖閣があろうがなかろうが、関係ありません。尖閣でもめてしまって、そこの防備に力を入れなければならないとなると、太平洋への進出がおろそかになります。

 だから、日本も、そういう中国の軍事戦略の全体を考え、何をどうするか決めないとダメだと思います。尖閣を防衛するって狭い視野でこの問題を考えていると、本質的なところが見えてこなくなるんですよ。

2013年9月18日

 シリア問題はアメリカの軍事攻撃が遠のいたということで安心する人も多い。しかし安心などもってのほかだ。

 だって、当面、軍事攻撃されないということで、安心しているのはアサド政権だろう。このままでは、化学兵器を使わない限り、国内の弾圧が見逃されるという構図になりかねない。

 国際的にみても、シリアで化学兵器が使われたが、とくに誰も罪に問われなかったということになれば、化学兵器使用のハードルが下がってしまう。化学兵器の保有が疑われる北朝鮮を前にして、日本国民の心配も増大するだろうと思う。

 この問題では、化学兵器禁止条約があるが、その条約に違反したからといって、とくに罪に問われるような規定が存在しないことが欠陥だといわれる。条約に加盟しなければ、そもそも拘束もされないしね。

 しかし、別に化学兵器禁止条約でなくてもいい。有効なのは、化学兵器を使用した罪で国際刑事裁判所に訴追することだと考える。

 国際刑事裁判所はすでに機能しているが、そこでは四つの罪を裁くことになっている。その一つが「人道に対する犯罪」である。裁判所規程は、この罪を以下のように定めている。

 「人道に対する犯罪」とは、文民たる住民に対する攻撃であって広範又は組織的なものの一部として、そのような攻撃であると認識しつつ行う次のいずれかの行為をいう。
(a)殺人(以下、略)

 そう、化学兵器の使用というのは、明白な「人道に対する犯罪」である。それを使用すれば広範で組織的な攻撃になることが、使用者にとっても認識できることが明白な行為なのだから。

 もちろん、もしアサド大統領が使用に責任があるとしても、起訴することはできるが、現職の大統領を強制的にハーグの裁判所まで連れて行くことは、実際にはできない。しかし、自分たちの大統領が国際的にみても裁判にかけられるほどの犯罪者なのだという認識がシリア国内で広がることは、政権打倒をめざす運動にとっても励みになるだろう。それに、訴追を免除する代わりに、大統領職を辞して亡命するという取引に使うことも可能になる。

 いずれにせよ、実際に化学兵器が使われるという重大な犯罪があったわけで、それに対して軍事攻撃ではなく「法による裁きを」という世論と運動が不可欠だ。そういう世論が形成されることは、それなら核兵器の使用も裁判にかけられるべきだという世論の形成にもつながっていくしね。

2013年9月17日

 今月のはじめ、福島に行ってきたんです。直接には、来年3月に福島市で開催する企画の相談ですが、その機会にいろいろな方とお会いしてきました。

 そもそもどういう企画にするのかという点で、これが難しい。だって、福島で暮らす人びとの気持ちに合致していて、「これなら参加したい」となってもらわなければなりませんから。

 行く直前、汚染水問題が表面化していました。今年と昨年は、相馬市で企画を実施したのですが、相馬は漁港があり、関連の製造、流通の仕事をしていた方も多いところでした。まだ漁業の仕事はできないけれど、希望くらいはもちたいという気持ちになっていたときの汚染水問題ですから、関係者の落胆は容易に想像できます。「絶望」という言葉を使う方もいます。汚染水問題は騒がれていますが、われわれの批判というものが、そういう人びとのリアルな気持ちに合致したものになっているでしょうか。

 一方、来年は福島市ですから、ここで暮らしている子育て中の家族というテーマを避けて通ることはできません。そこを避けたら、開催する意味がありませんものね。

 ところが、実際にお話をしてみて、自分の認識の甘さや弱さを自覚させられました。なんだか、外から応援するとか元気づけるとか、そんな気持ちになっていたかもしれない。福島の人びとには、自分で考えて、自分で決定し、自分で立ち上がる力があるんですよね。そこを忘れてはならないと自戒しました。

 そういうことが分かるのも、原発事故以来、うちの会社がたくさんの関連書籍を出してきたことです。そこで福島の人びとともつながっていることです。

 たとえば最近も、『あの日からもずっと、福島・渡利で子育てしています』という本を出しました。佐藤秀樹さん、佐藤晃子さんというご夫婦が書かれた本です。

 このお二人は、原発事故直後に出した『福島は訴える』という本でも登場されています。まだ事故から半年という局面で、福島で子育てする問題をこれだけ本質的に捉えることのできる人はいないと思って、そのうち単著をと願っていたのですが、それが適いました。

 本を出したあと、「やっと自分たちの気持ちのことを書いた本が出た」と評判になっています。そうなんですよ。外からじゃなくて、自分たちで訴え、自分たちで変えていかなければなりません。今回も、このお二人から、そういうことをいろいろと教えていただきました。

 ということで、福島の企画も、そういう観点で準備していきます。協力してくださる方はたくさんいますので。それに、この企画、まだ公になっていないのだけど、ネット上のつながりで、「自分も出演したい(音楽が半分以上を占めるんです)」との声が広がっていますし。

 それにしても、福島でいろんな方とお話しして感じたのは、将来の総理大臣はみんな福島から出るのではないかということでした。だって、事故を経験したことによって、考えることの広さと深さが尋常ではないんです。これまで医療の専門家だった方も、放射線の影響はこうですよという話だけを患者にしても仕方なくなっていて、この地域をどう復興させるのかという展望も患者に語る必要が出ていて、すごい勉強をしています。要するに、総理大臣になったつもりで考えておられるようなものです。そういう人びととお会いすると、こちらが勉強になるので、これからも月一回、福島に行く予定です。

2013年9月13日

 今週はこのテーマばっかりだったですね。まあ許してください。来週の17日(火)、安倍さん肝いりの「安保法制懇」(集団的自衛権の行使を提言する有識者懇談会)が再開され、短時日のうちに提言を出す予定になっているので。

 そして、その17日が『集団的自衛権の深層』の発売日。「安保法制懇が再開 集団的自衛権行使を答申へ」というニュースが流れ、本屋に行ってみたら、私の本が並んでいるという算段なんですけど、どうなるでしょうか。それで『憲法九条の軍事戦略』までふたたび注目されるという、なんとかの皮算用。生まれて初めてですが、私の本のワゴンセールをやるという本屋も大阪にあるそうで、見に行かなくっちゃ。

 さて、冷戦終了後の集団的自衛権発動事例を検討してみて、いちばん感じるのは、やはり冷戦時代との違いです。連載初期に書いたように、冷戦期の集団的自衛権というのは、米英仏ソという超軍事大国が海外で軍事行動を展開するための根拠だったわけです。どの国も行使するのが集団的自衛権だなんて安倍さんは言うけれど、実態は違っていました。しかも、その軍事行動は、ほとんどすべて「自衛」とは関係のない侵略行動のようなものでした。

 冷戦が終了して、様変わりしました。特定の国が勝手に軍事行動するのに集団的自衛権を使う時代が終わり、国連がオーソライズするようになった。でも、湾岸戦争に見られるように、集団的自衛権を国連がオーソライズするということは、「侵略があった」ということを安保理が一致して認定したということです。

 そして、安保理が一致するということは、もう各国が勝手に発動する集団的自衛権は不要だということです。「侵略があった」という認識で一致するわけだから、行動も一致してやれるのです。湾岸戦争はそういう戦争でした。

 そして実際、湾岸戦争後、いろいろ失敗も多かったけど、その方向で努力が進んできたのです。ところが、そういう流れを断ち切って、いっしょにやろうとしていたのに、報復感情で突っ走ったのが9.11をめぐる対テロ・アフガン戦争だったのです。

 こうして、冷戦時代も冷戦後も、集団的自衛権の実態というのは、どう見ても否定的にならざるを得ないものです。ところが、そういう現実にふたをして、世界が集団的自衛権を求める方向に変化していて、日本もそれに対応しなければならないと虚構の論理で突き進んでいるのが、安倍さんとその取り巻きというわけです。

 学者のなかにも集団的自衛権を認める人はいます。しかし、そういう学者であっても、集団的自衛権が濫用されやすい権利である程度のことは、最低でも言っています。ところが、安保法制懇の報告書にはそういうことが一言も出てこないし、そういうものしか読まない安倍さんは、疑ってもいないんでしょうね。
 
 ということで、あとは、発売される本をどうぞご覧ください。よろしくお願いします。