2013年9月5日

 昨日、東京に出張と言ったんですが、大変だった。だって、大雨で、新幹線が動かないんですよ。結局、4時間遅れでした。

 その結果、出張の目的だった仕事が、大幅に影響を受けました(新幹線で本を2冊読めたのは収穫でしたが)。で、本日は、時間刻みのスケジュールですよ。

 まず、10時半から、出張のほんらいの目的なんですが、弊社の東京事務所の会議。ブラックとか福島とか、焦点になるテーマがたくさんあるなかで、情報交換とか調整とか、そんなことをやらなければなりません。

 13時からは、私用。東京に残してきた子どもたちと会って、どんな感じで暮らしているか、聞かないとね。食事でもしながら。

 14時。あるふつうの企業に行きます。「憲法9条下での自衛隊活用を考える会」をメジャーなものにするためには、うちのような政治的に「偏向」しているところじゃなくて、誰がみても「中立」という感じの企業にもがんばってもらわなくてはいけないのでね。どうなるかな。心配。

 15時。旅行社。はい、来年の福島企画です。それなりに有名なバンドとか研究者とか呼ぶわけで、かなりお金がかかるんですが、被災者相手に参加費はとれないし、弊社は一円も出さないので(私が仕事時間中に福島企画で働いているので、正確には負担しているわけですが)、旅行をやって、その旅行社にある程度の負担をしてもらうしかないのですね。だけど、誰がみても、「参加したいな」と思えるような企画になりそうなので、旅行社だって、ウハウハでしょ。たぶん。

 17時。三多摩の方へ移動して、桑田真澄さんが寄稿してくれた「先生、殴らないで!」の編者とお会いします。今年中か来年のはじめ、「学校におけるスポーツと体罰」を考えるシンポジウムのようなものを開きたいんです。で、著者は東京中心なので、当然、東京開催ですが、本社のある京都でしか本格的な結びつきがない弊社としては、開いたけど参加者は数名、なんてことになりかねないので、いろいろご相談です。

 18時。その近くで、学校図書館向けの本の編集で有名な会社があって、そこに行きます。仕事の話もたくさんあるんです。いまの情勢のなかで、子どもたちに朝鮮半島と日本の関係をどう教えるかという問題とか、とても重要なので、なんとか形にしたいし。少し前に出した領土問題の本なんかも、学校図書館ではなく、ふつうの書店で売れるようにするにはどうするか、っていう問題もあるし。

 夜は、そのまま懇親会かな。ということで、すごいスケジュール。がんばります。

 ああ、朝は、あまちゃん見ましたよ。「地元に帰ろう」っていう歌、この日のためにあったんですね。クドカンはすごい。

2013年9月4日

 昨晩、あまちゃんの2日朝の放映分を見ました。そう、3.11の日のことを描いたものです。いろいろ評判になっているよね。

 私が心を打たれたのは、東京に向かうはずだったゆいちゃんが鉄道のなかで被災し、東京のあきちゃんとようやくつながった電話で、話す言葉。「あきちゃんが来てよ!」

 そう。震災以来、できるだけ現地を訪れ、本になったことも、本とは関係のないこともあったけれど、現地の人の気持ちをつかみたいと思ってきました。いまでも分かったとは言えないけれど、分かろうと努力してきたとは思えます。

 ということで、明日から東京出張ですが、週末は福島に行きます。来年の3.11企画のご相談です。報告するのは来週になりますが、福島で暮らす子育て中の家族が元気になるようなものにしたいなと思っています。

 で、本日は、今月発売予定の私の本の表紙をご紹介しておきます。池田香代子さんが推薦の帯文を書いてくださいました。

 「冷戦後、時代は変わった。世界は、失敗をくりかえしながらも議論を深めた。集団的自衛権も同盟も、新たな様相を呈しているいま、安倍政権の時代遅れの発想は、とりかえしのつかない事態をまねくかもしれない。」

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 いいですねえ。ありがとうございます。発売予定日は17日です。

2013年9月3日

 仏教大学で行われたものがテキストになっていて、読む機会があった。講義の日付は2006年1月14日だ。2年間、神仏習合について講義してきて、その最終の講義である。

 そのタイトルがステキ。「マルキシズム」なのだ。

 神仏習合だから、外来の文化が日本にどう入ってきて、どう変容し、取り入れられていったのかが、2年間の講義の流れだったのだろう。そして、明治以降に入ってきたものとして、プロテスタンティズムとマルクス主義があるが、そのうち影響の大きかったマルクス主義を取り上げるということであった。

 もちろん、加藤さんが講義した2006年の時点では、すでにマルクス主義ははやっていない。だが、加藤さんは、流行っていないことが原則として好きだとして、しかも危険性を伴わない思想というものはないのだと前置きでのべて、以下、マルクス主義を論じているのである。

 以下でのべられた中身が面白い。マルクスの理論の核心はどこにあるのか、日本でなぜマルクス主義があれほど受容されたのか、その受容のされ方のなかに影響を失う要素がなかったのか、等々。とっても今日的である。

 だが、その中身は、ここでは書かない。だって、本にしたいので。これ以外に、いくつかの大学の最終講義、その他の最終講義をまとめたい。

 今年の12月は、加藤さんの没後5周年だ。私がこの会社に入ったのは加藤さんの晩年で、ほとんどお話しする機会がなかった。本をつくらせてもらう機会もなかった。だからこの本、どうしても自分でつくりたいと考えている。楽しみにしていてください。

 

2013年9月2日

 この問題は、軍事攻撃が正当化されるかどうか、という角度で議論されることが多い。化学兵器が使用されたからといって、他国が武力を行使することを認める国際法は存在していないとか、人道上の重大な危機に際しては例外が認められるのだとか、国連安保理が決議した場合は許されることになるとか、いやいやどんな場合も武力行使は認めないとか、そんな議論である。

 現在、欧米で反対世論が強いのも、そういう角度で見て、国民が反対しているからだと思われる。とりわけイラク戦争で間違った選択をしたことが欧米では常識になっているので、そういう意識が強まるのは当然だろう。

 同時に、この問題は、化学兵器の使用をどうやったら止めさせられるのか、という角度での議論が不可欠である。アメリカがあくまで軍事攻撃にこだわるのは、実際に化学兵器が使われたという現実があるからだ(誰が使ったかは明確ではないが)。もし、化学兵器が連続的に使われ、死傷者が増大していくようなことになると、武力行使を容認する世論が強まることがある。その場合のことも考えておく必要があると思うのだ。

 政権の側が化学兵器を使うという問題であるなら、それを止めさせるには、いくつかの方法がある。(反政府勢力が使う、とりわけタリバンやアルカイダとつながる勢力が使うというケースは、今回の記事の主題ではない。)

 ひとつは、軍事攻撃で化学兵器を破壊し、無力化させること。アメリカの攻撃は限定的なものになると言われており、化学兵器製造工場や関連部隊を攻撃するという予測報道もある。しかし、これらの施設や部隊が爆撃されれば、化学兵器が空中に拡散し、甚大な被害をもたらす可能性がある。化学兵器の使用を口実に攻撃して、化学兵器による死者を生みだしたら、冗談では済まない事態である。

 ということで、アメリカの限定攻撃というのは、化学兵器関連というのではなく、いくつかの別の重要軍事施設に向けられるという観測がある。この場合、化学兵器が再び使われれば、アサド政権を支える軍部が打撃を受けるよという牽制効果をねらったものだと言えるだろう。

 けれども、限定的な攻撃が政権を弱らせるということは、実際にはあり得ない。たとえば86年、リビアが関与した西ドイツのディスコ爆破事件があり(アメリカの海兵隊員が多数死亡した)、アメリカはリビアの軍事施設に限って攻撃を加えた。しかし、カダフィ政権は、アメリカの攻撃にさらされたことを盾にして反米の英雄となり、生きながらえた。国際的にも、国連総会がアメリカの空爆を批判する決議を採択し、独裁政権を支える国際網のようなものにつながってしまったのだ。

 この点で、いまのシリアをみると、反体制勢力のあいだに亀裂がある。新聞報道の限りだが、アメリカの軍事攻撃を支持する勢力もあるが、反対する勢力もある。そんなときに攻撃を加えたら、反体制勢力の亀裂を拡大することにしかならない。

 結局、政権による化学兵器の使用とか、国民に対する弾圧をやめさせるには、それを包囲する国民の団結をどうつくるのかということが大事だ。それをつくるのに、国際社会は何をすべきかということだ。

 実際に化学兵器により何が起こったのかという惨状がシリア国内にも国際社会にも明らかにされること。それが誰の手によるものであったのかが解明されること。それが政府の手によるものだということが明確になるのなら、国連の代表権を剥奪するとか、経済制裁を強化するとか、ひとつずつ段階を踏んでいくことが大事である。

 そうやって道理のあることを求めているのに、化学兵器に固執するようなことがあれば、政権にこのまま居座らせてはならないという国民の意思が強まってくる。シリアの反政府勢力の団結が強化される。時間がかかっても、政権の交代につながるこういうやり方が、痛みが少なく、確実なものだと考える。