2013年10月17日

 平和運動のなかでは、そういう主張が根強い。相手の武力に対して武力で対抗してはダメだ、あくまで平和的外交的な手段でという主張である。

 もちろん私とて、そうなればいいと思っている。尖閣問題をはじめ領土問題をどう外交的に解決するのかについては、本も書いたくらいだ(『これならわかる日本の領土紛争』大月書店)。外交的手段の可能性というのは、もっと深められるべきだろう。口だけ「憲法九条にもとづいて」とか「平和的に」と言っても、何の説得力もないしね。

 ただ、問題は、それだけでいいのかということである。いくつか性格の異なる問題がある。

 たとえば、よく、武力には武力で対抗するやり方が、戦前の日本をはじめ戦争につながったという言い方がされる。だけど、日本が戦争をしたのは、武力に武力で対抗したからではない。欧米諸国は武力ではなく経済制裁をしたのに、日本は武力で応じたのだし、アジア諸国について言えば、何もしていないのに日本の方から戦争をしかけた。事実関係が不正確だ。

 また、武力で対抗してはならないと主張する場合、その主張の矛先は主に日本政府である。ということは、武力を使うなという主張は、事実上、相手国政府に対しては向けられていない。「武力には武力で」と言う場合、相手国が先に武力を使うことが前提になっている。だから、本当は、日本政府よりも相手国政府を批判しなければならないのに、それをしないのでは、「武力を先に使う政府の味方なのか」と思われてしまう。、相手国の大使館と日本政府と両方に主張を届けるというなら別だけどね。

 それに、相手国政府が武力を使って、どこかの島を占領したとしよう。というか、いま多くの方が、そういう場合を想定してものを考えている。そのときに武力で対抗してはならないというのは、相手が島を占領してもこちらは武力で対抗してはならないという主張に等しい。そういう主張が本当に正しいのか。私は適切な主張ではないと考える。

 しかも、平和的手段で解決できるのだといろいろと模索し、提案していくことは大事だが、それだけですべて解決可能だという主張になると、結局、自衛隊はいらないという主張に映るだろう。「結局、外交的手段をいろいろ言っているのは、自衛隊を廃止するため、いろいろ考えているのだな」となりかねない。そうなると、自衛隊は必要だと考えている圧倒的多数の世論とは乖離してしまう。

 ということで、私は、やはり、外交手段の追求と、その外交手段と矛盾しない軍事的な手段と、その双方の提起が必要だと考える。あるいは、軍事的な手段は当然の前提だとしたうえで、そうなったら戦争になるので、その前の平和的手段を重視するという主張が大事だと思う。

 これから講演が多いので、いろいろ考えなくちゃ。

2013年10月16日

 総理の所信表明演説はできるだけ聞いているんだけど、昨日は特別に忙しく、余裕がなかった。ニュースで断片を見ると、やはり意気軒昂という感じだね。

 それで先ほど、新聞で全文を読んだのだけど、たしかに安倍さんの気分は高揚しているのかもしれない。だけど実態は、なんだか上滑りしているという感想だ。外交と安全保障の箇所は、とりわけそう思う。

 「積極的平和主義」。実は私は共感している。日本国憲法前文って、どこをどう読んでも、日本が先頭に立って、世界から隷属や専制、貧困、戦争をなくすという決意表明のようにしか見えないし。

 安倍さんは、その角度から、たとえば尖閣における海上保安官を褒め称える。当然のことでしょう。だけど、これだけ緊張しているのに戦争にならないのは、憲法九条の原則が働いて、なんでも自衛隊が出て行くというようになっていないからだ。本当に海上保安官はエライ。

 あるいはジブチに海賊対策で派遣されている海上自衛隊。自衛隊が海外に武器をもって派遣されていても、いわゆる戦争の任務にはつかない。海賊対策という治安活動にとどまる。それを安倍さんが誇れるのも憲法九条の「制約」があるからだ。

 もし、その縛りが解かれ、紛争があるから自衛隊が出かけていって鎮圧するんだということになったら、どうなるだろうか。安倍さんには、熟慮がないよな。

 たとえばアフガニスタン。日本は、武器を回収する武装解除の任務につき、世界的な評価を得た。九条がなかったら、逆に、タリバン制圧で血を流す任務についていたかもしれない。前者は私の、後者は安倍さんの、それぞれの「積極的平和主義」だろう。

 「地球儀を俯瞰する視点で」外交しているとして、110回もの首脳会談をしたと誇っているのもむなしい。もちろん、隣の国との首脳会談ができていないことだ。

 価値観が同じ国と仲良くするんだとも言っていたが、これまでその同じ仲間だったはずの韓国が離反しているわけだ。価値観外交はすでに崩壊している。

 そもそも、価値観が違う国とどうつきあい、どう国益を確保するかが外交でしょ。仲間内で褒め称え合っていても、何も生まれない。それは外交とはいわない。なんだか、全文を読みながら、とってもむなしくなってきた。

2013年10月15日

 連休は講演会があったので、四国に行ってきました。そこで議論したことを少し。

 湾岸戦争は国連がオーソライズした戦争で、対テロ・アフガン戦争は国連憲章第51条の個別的・集団的自衛権を根拠にした戦争です。このふたつが、現在、国際法というか国連憲章で認められている戦争ということになります。

 では、アメリカのイラク戦争はどこに分類されるのだ、という質問がありました。どちらにも分類されないわけです。国際法の認めない戦争だったということです。そこが大問題だったわけですよね。

 それで、じゃあ、対テロ・アフガン戦争は国連憲章第51条を根拠にしているから、国際法が認める戦争だったと言えるのか。しかも、9.11テロに際して、国連安保理決議が、前文で「個別的・集団的自衛権」に言及していますしね。そこが個別的・集団的自衛権の難しいところです。

 51条は、「加盟国に対して武力攻撃が発生した」ときに、このふたつの自衛権の発動を認めています。ところが、冷戦期の集団的自衛権の発動は、まったく武力攻撃が発生していないのに、大国が他の国に対する支配を継続するため軍事介入した事例ばかりです。要するに、国連憲章はダシに使われただけであって、実態は侵略であり、自衛の正反対だったわけです。これを集団的自衛権の戦争とは言えません。

 一方、対テロ・アフガン戦争の場合、「武力攻撃」は発生しています。貿易センタービルとかペンタゴンへの武力攻撃があり、何千人ものが死亡しているわけですから、明白です。

 しかし、自衛権って、外交努力を尽くした後にだけ発動できるとか、相手の武力攻撃に均衡する程度の反撃にとどめないといけないという、厳格な要件があります。それに照らせば、タリバンに対する経済制裁を通じてビン・ラディンの引き渡しを求める努力が開始されたばかりのときに発動されたという点でも(外交努力を尽くさずに)、武力攻撃の当事者であるアルカイダに反撃するのではなく、それを匿っているタリバンを相手にして、しかも政権を転覆させるまで反撃したという点でも、自衛権の要件を満たしていないわけです。

 だから、この戦争が、51条にもとづく自衛権と言えるかというと、国際法においては解釈が分かれることになります。まあ、国際法って、こんな大事な問題でも、どちらにでも解釈できるというところに、ひとつの特徴があります。どちらかを決着つけるのは、現実の国際政治の進展が基準になるという感じかな。

 で、そういう話をしていたら、結局、集団的自衛権というのは正しいものか悪いものか、はっきりさせてくれという質問もでました。これまで悪いものがという前提でやってきたのに、それはどうなんだと。

 これは大事なことだと思います。これまで、集団的自衛権は悪いものだということには、証明が必要ありませんでした。だって、護憲運動が反対しているだけでなく、日本政府が違憲だと断定してきたわけですから。そして、護憲運動の多くは、政府の違憲論をベースに反対してきたと思います。

 いま、それが通用しない時代になろうとしているわけです。政府が合憲論に立ち、国民に対して論戦をふっかけてくる時代です。彼らは、世界中の国が集団的自衛権を認められているのに日本だけが制約があるのはおかしいとか、困っている人を助けるのは当然だとか、耳障りのいいことを言って攻めてくる。

 そういう時代には、これまでの論理を根底から見直さなければなりません。そのための努力はさらに私も続けたいと思います。

2013年10月11日

 この問題では、いったんは提案を拒否した韓国政府が、最終的に受け容れる方向で決断したということが、報道の通りであれば、ひとつのポイントだろう。もうひとつのポイントは、朝日の記事にあった斎藤前官房副長官のインタビューによると、「日韓の支援団体とも会ったが、かけ離れた主張はしていなかった」というものだ。

 アジア女性基金の場合も、韓国政府がいったんは受け容れようとしたが、日韓の支援団体のはげしい反発で撤回することになった。外交のベースでは、いくら気にくわないといっても、国家が正式に結んだ日韓基本条約を大きく逸脱する合意は結びにくく、法的な責任と謝罪というのは簡単ではないというのは、韓国政府もよくよく承知しているのである。

 私は、この案では不満が残る(法的責任を認めていないという点で)支援団体はあるだろうが、それでも一致してこの実現を迫るべきだと思う。残る不満は、これが実現した後、それではダメだという団体が独自に主張しつづけるというようにすべきだと思う。

 だって、前にも書いたように、慰安婦の高齢化は極限にまで達している。韓国政府も支援団体も一致して実現したというものを、亡くなる前に見せてあげるべきではないのか。税金で支出するということで、実体的には法的責任の問題がクリアーされているのに、そんなことよりも、法的責任という文面が大事なのか。

 安倍さんにも言いたい。この線で合意をまとめあげるべきだ。

 きっと心情的にはイヤだろう。だけど、ここで慰安婦の方々が合意し、感謝するものができあがれば、「日本は何もやっていない」という批判がこれから寄せられることはなくなるのだ(「もっとやれ」という批判は残るだろうが)。言い方は悪いが、安倍さんを支持する右翼の連中に対しても、「俺が決断してうるさい連中を黙らせた」と誇ることだってできるだろう。そういう言い方で、過激な世論を抑えることができるだろう。

 国際的にみても、この問題が安倍さんの重大な弱点のひとつであって(あくまでひとつだが)、しかもそれは人権とかにかかわるものなので、いくら経済で名をなしても、これを克服しないとリーダーとは認められない性格のものだ。ウィメノミクスなんて言葉では、誰もだまされない。しかし、慰安婦問題を克服すれば、評価は180度違ってくる。

 だから、支援団体にも安倍さんにも、双方に決断してほしい。慰安婦のためにも、日本のためにも、それが必要だと思うが、どうだろうか。

2013年10月10日

 朝日新聞の8日付に、民主党野田政権のもとで、慰安婦問題の政治決着が寸前のところまでいっていたことが報道された。以下のような3つの内容で合意に向かったということだ。

(1)政府代表としての駐韓日本大使による元慰安婦へのおわび
(2)野田首相が李明博大統領と会談し、人道的措置を説明
(3)償い金などの人道的措置への100%政府資金による支出

 この問題をよく知る方には説明は不要だろうが、これは微妙な内容だ。二つの側面がある。

 一方で、元慰安婦に人道的なお詫びの言葉を政府(総理大臣)から伝えるのは、この問題で運動する市民団体が批判してきた過去の水準と同じである。法的責任をとらずに人道的責任で済ませようとしているという批判である。だから、これでは受け容れられないだろう。

 他方、100%政府資金による支出というのは、新しい感じがする。アジア女性基金は、運営費は税金だったが、慰安婦にわたった償い金は民間からのカンパだったということで、強く批判された。慰安婦問題に対する政府の責任を認めるなら、税金で支払うべきであり、そうでないのは責任を回避するやり方だという主張が強かった。

 そのことを考えると、政府が100%支出するというのは、大きな前進のように見える。人道的措置という名前はついているが、中身は賠償に等しいと言えるものだ。

 でも、法的責任を認めないという形式は崩せないのだから、「これでは絶対にダメ」という方々も少なくないかもしれない。しかも、政府出資って、アジア女性基金のときも想定されていた水準のものだ。

 そのことは、この問題で重要な役割を果たした大沼保昭さんが中公新書で書いている。慰安婦に渡す額は決まっていたから、カンパがその額に足らない場合はどうするかという問題があって、それを橋本龍太郎首相に聞いたら、「まかせておけ」と言われたそうだ。

 きっと、外務省のなかでは、人道的措置であっても税金の支出は可能だという考え方は、当時からあったのだろう。それを野田政権のもとで具体化したということだろうか。

 いずれにせよ、安倍さんがどう動くかは別にして、この水準ならば、現在の政府のもとでも実現可能な条件があるということは、はっきりした。この段階で、この水準を実現するために闘うのか、いや「法的責任」に言及しない合意はイカサマだというこれまでの立場を貫くのか、市民団体は問われていると思う。(続)