2013年12月5日

 前回、「殺傷」や「破壊」は、必ずしもテロの不可欠の要件ではないと書いた。でもじゃあ逆に、秘密保護法の政府解釈のように、「殺傷」や「破壊」があれば必ずテロと言えるのか、という問題もある。もちろん、個人的な怨恨にもとづくものではなく、政治目的をもった「殺傷」や「破壊」のことだけれども。

 これが違うのだ。1回目で人質行為防止条約のことを書いた。正式には、「人質をとる行為に関する国際条約」という。その目的は、「国際的なテロリズムとして行われるすべての人質をとる行為を防止し、訴追し及び処罰するための効果的な措置」を講じることにある。

 この条約は、第12条において適用除外をしている。特定の「武力紛争」、たとえば「人民の自決の権利の行使として人民が植民地支配、外国による占領及び人種差別体制に対して戦うもの」などには適用しないのだ。

 そう。世界にはいまだに10いくつかの植民地がある。パレスチナのように外国に占領されている国もある。人種差別がおこなわれている国もある。そういう国々では、人民が「武力紛争」を起こしても、この条約は適用されないのだ。

 もちろん、適用されないといっても、テロは許されると書いているわけではない。しかし一方で、なぜ条約がこういう書き方をしているかというと、許される「武力紛争」もあるからなのだ。ベトナム戦争などのときに問題になったが、いわゆるゲリラのようなものであっても、アメリカ軍を相手にして堂々と交戦団体として戦う場合、それはテロではなく、公式な戦争ということになるのである。

 いや、これも当然のことだが、公式な戦争の場合も、民間人を目標にして「殺傷」したり、軍事的に無意味なモノを「破壊」してはならない。だけど、その公式な戦争であっても、アメリカがいまアフガニスタンでやっているように、民間人を巻き添えにして「殺傷」することがある。だけど、それを「テロ」だとは言わない。

 日本の秘密保護法案は、そこをどう考えるのだろうか。適用除外の地域で米軍と戦う人びとが「殺傷」「破壊」するとき、それをテロだとみなして、秘密保護法を適用するのか。米軍による「破壊」「殺傷」とどう区別するのか。やはり、この法案をつくった人は、テロについて何も知らず、何も考えていないと言わざるを得ない。(続)

2013年12月4日

 秘密保護法案も緊迫しているので、異例だけど、1日で2回目の記事を。

 テロの語源は、フランス革命時の「恐怖政治(テルール)」だといわれている。ここには、テロの特質がそれなりに出ている。ギロチンとかで処刑するさまを人びとに見せることによって、同じような目に遭うかもしれないという恐怖感を国民の中で醸成し、ある種の政治目的を達成しようとするわけだ。

 石破発言問題であわてた政府は、テロとは、秘密保護法案で明記しているように「殺傷」とか「破壊」を意味するのだと弁解している。有名になったため必要ないかもしれないが、念のため法案にあるテロの定義を引用すると、次のようになっている。

 「政治上その他の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要し、または社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動」

 誰が見ても、この文章からは、政治上の主義を国家に強要する行為をテロだと定義していると思えるのだが、まあ、政府のいうようにテロとは「破壊」や「殺傷」に限定されているとすれば、それは国際的な議論から見て正しいのか。これが難しいのだ。

 たとえば、戦後のテロで初期に問題になったのは、いわゆるハイジャックである。飛行機を乗っ取り、乗客を人質にして、ある種の政治的な要求を公にし、それを実現しようとするものだ。昨日、テロ関連条約が13本あると書いたけれど、最初の時期はこの種のものばかりだった(「航空機内で行われた犯罪その他ある種の行為に関する条約」63年、「航空機の不法な奪取の防止に関する条約」70年、「民間航空の安全に対する不法な行為の防止に関する条約」71年など)。

 ハイジャックは「殺傷」や「破壊」そのものではない。「オレの言うことを聞かないと、殺傷するぞ、破壊するぞ」という「威嚇」ではあるけれど。

 ここにもテロの特質があらわれている。何かといえば、テロというのは、あくまで何か達成したい政治目的があるわけだ。政治犯を釈放しろとか、アメリカ軍は撤退しろとかその他その他。そして、テロをおこなう人にとっては、その政治目的の達成が重要なのであって、「殺傷」や「破壊」自体は目的ではない。ただの手段だ。それなのに、実際に「殺傷」や「破壊」をおこなってしまえば、目的達成の手段まで失ってしまう。世論も反発し、支持を得られなくなる。

 だから、そういう点では、「殺傷」や「破壊」をしないことがテロ成功の条件みたいな面もある。秘密保護法案が、「殺傷」や「破壊」だけをテロだと定義しているのだとすれば、完全な間違いである。テロのことをよく知らない人が書いたものだろう。こんな人が書いた法律によって逮捕されたりするのだから、たまったものではない。(続)

2013年12月4日

 普通の時期はこんなタイトルの記事を書いても、あまり注目されない。だけど、いまだったらと思って、まとまらないかもしれないけれど書いておく。大事なことだと思うから。

 暴力を使わない平和的なデモをテロと定義するのは、あまりにも非常識で、石破さんの誤りは明白である。だけど、じゃあテロとは何かを定義するとなると、そう簡単ではないのも事実である。

 たとえば国連においては、戦後一貫して、テロを包括的に禁止する条約の議論がされていて、これまでテロ関連で13本の条約ができたが、部分的なものにとどまっている。めざされている包括的テロ禁止条約はできていない。なぜかといえば、最大の理由は、テロの定義で合意できないからである。

 どこで合意できないのか。問題は具体的である。パレスチナ人民による実力行使を含む闘争をテロと定義するのかしないのかということだ。

 みなさんはどう考えておられるだろうか。あれはテロだろうか(裁かれるべきものか)? あるいは正当な闘いだろうか(裁くなんてあり得ないか)?

 ある人は、イスラエルによる占領こそが裁かれるべきであって、パレスチナの闘争は正当だと考えるだろう。だけど、じゃあ、古い話になるけれども、テルアビブ空港での乱射事件(72年)などのように、無実の人びとを殺傷しても許されるのかと問われれば、肯定する人は多くないと思う。

 他方、ある人は、暴力行為なら当然それはテロだろうと考えるだろう。だけど、たとえば、テロ関連13条約のひとつである人質行為防止条約(79年)は、民族解放団体がすすめる武力紛争の過程で生じた人質の奪取については、条約の適用外であることを明記している。パレスチナ人民による人質の奪取には、この条約が適用されないということだ。それを許すという規定ではないけれども、わざわざ適用外としている事実は重い。

 国際社会も揺れているのである。定義できないのだ。

 特定秘密保護法は、国際社会も定義できないものを堂々と定義し、それにかかわる情報を探るものを処罰するわけである。定義できないわけだから、政府による恣意的な解釈がまかり通ることは明らかだ。石破発言は、そのことを浮き彫りにしたのである。(続)

2013年12月3日

 昨日は東京へ。青山で辻井さんの弔問の会があるということで、この間、何回もお世話になった秘書の方から連絡があり、かけつけた。そこで辻井さんの遺影を見ながら、また思い出していた。

 前回の記事で、私が本を依頼するきっかけとなった言葉を紹介した。「理論的には正しくても、相手の心に届かなかったり、相手を傷つける言葉がある」「必要なのは敵を味方にする言葉だ」というものだ。

 私がこの言葉を最初に見たのは、おそらく「民医連新聞」だったと思う。民医連の総会か何かに呼ばれ、九条の話をされて、そのなかにこの言葉があったのだ。

 だから私は、本の作成過程で真意を確かめるまで、この言葉は左翼に向けられたものだとばかり思っていた。もちろん、それは間違いではなかったのだが、辻井さんによれば、これは日本の知識人全体に向けた言葉なのだといいうことだった。『心をつなぐ左翼の言葉』のなかに、以下のような記述がある。

 「世の中には『知の所有者』たちがいる。いわゆる知識人ですね。彼らのなかには、共産主義の人もいるし、いわゆる社会民主主義の人もいる。保守主義者もいる。つまり、いろんなイデオロギーや世界観を持っていることでしょう。ところが、ぼくには、彼らの『知』というものが、自分の場合も含めて『大衆の言葉』になっていないんじゃないかという疑問がある」 

 なぜ「大衆の言葉」にならないのか。辻井さんは、その点にも言及している。

 「その原因のおおもとには、『知の所有者』と呼ばれる者たちの言葉が、彼ら自身の感性と一体になっていないことがあると思う。感性を通過した、自立した言葉じゃないからだろう」

 そう。われわれの言葉が社会科学的な意味で正しくても、それだけでは通用しない、届かないという指摘である。人びとが日常の暮らしで感じること、思うことにピタッとくるようなところを通過したものでないと、正しくても心に響いてこないということだ。

 これって、本当に大切なことだと思う。日々、痛感するのだ。最近では、このブログでも書いたけど、浅田次郎の『終わらざる夏』を読んだときだった。

 千島(北方領土)の問題をめぐっては、社会科学的には千島全面返還が正しい。だけど、人びとの心のなかに分け入ると、北千島と南千島には大きな隔たりがある。南にはたくさんの日本人が住んでいて、そこを追いだされたわけだから、郷愁というものがある。南だけでも帰してほしいという言葉は、そのままでも感性を通過した言葉になるのだ。

 しかし、北千島は異なる。社会科学的には返還すべきだという認識があっても、感性と一体になった言葉を誰も発してこなかったので、次第に届かない言葉になってしまったのである。そこを浅田次郎があざやかな言葉で描きだした。美しい花が咲き乱れる島、日本人が命をかけて開拓した島、ロシア人の心にとっても許されない占領などの視点で、この問題を捉えさせたのだ。

 浅田次郎の本を読みながら、辻井さんの言葉を思い出していた。知性と感性が統一した言葉を発することができるかどうかは、日本人全体にとって大きな問題だろうけど、私としては、左翼がそれを深めなければならないと思う。出版社として、それに貢献することができればうれしいなと思いながら、弔問の会場をあとにした。

 辻井さん、まだまだあなたの言葉の水準に達することはできないけれど、その言葉を忘れずに精進します。安からにおやすみください。本当にありがとうございました。

2013年12月2日

 石破さんの「デモ=テロ}発言が、ずっと問題になっている。石破さんを嫌う人が多いのは知っているが、少なくともこれまでの彼の発言は、それなりに勉強したことのある人の発言であって、私自身は、わりと正確な発言をする人だと感じていた(評価は別にして)。

 だけど、今回の発言は、それとは大きく異なる。だから、その違いを生みだしたものに興味がある。

 テロって、現代の人間にはすぐに9.11が想起されるので、あれほどの重大な行為だと感じがちだが、もっと幅広い内容がある。何回か書いたことがあるけれど、二つの要素から成り立つ。

 一つは、行為の理由にかかわるものであって、政治的とか、民族的とか、宗教的とか、そういう理由でおこなわれる行為である。個人的な怨恨とかにもとづくものではない。もう一つは、行為の手段にかかわるものであって、無差別な殺傷行為などにより、人びとを恐怖に陥れることにより、目的を達成しようとするものだ。

 石破さん、勉強家だし、その定義はよく知っている。そして、その石破さんは、おそらく、デモの理由が政治的なところにある点で、まずテロの定義にあてはまると感じた。さらに、殺傷行為が必ずあることはテロの不可欠の要素ではなく、人びとが恐怖に陥る手段だったらいいのであるから(これは間違いない)、「ああ、自分の知っているテロの定義があてはまる」と直感したのだと思う。そしてブログにあわてて書いた。

 たしかに、デモって、「示威行動」と訳されるように、「威力」を示すわけである。「威嚇」という要素がある。それを「恐怖」と感じる人が出てくるかもしれない。

 だけど、デモって、民衆による意思表示である。民主主義の一環なのだ。

 そして、その意思表示の向かう先は、権力者である。あえて「恐怖」という言葉を使うとすれば、民衆が権力者に「恐怖」を感じさせることによって、政治的な目的を達成するのがデモだといえる。

 これは、テロとは全くことなる。テロというのは、あくまで、民衆に恐怖を与えることによって政治目的を達成するものだからだ。

 で、結局何が言いたいかというと、石破さんが「恐怖」を感じたということは、デモはかなり成功しているということだ。権力者がそれを「テロ」だと発言するほどとりみだすまでになっているのだから。

 ということで、秘密保護法をめぐる闘いは、かつてない規模と質で発展していることだと思う。確信をもって前に進みたい。