2014年9月12日

 本日は、いろんなニュースネタがありますよね。オバマさんがシリア空爆を決断したっていうのも、数年後、十数年後の世界の大混乱を確実に予想させるものでコメントしたいですが、やはり騒がれ方で選ぶと朝日新聞問題でしょう。

 昨日の記者会見で最後に話題になった慰安婦問題では、池上彰さんがコメントで言っているように、検証と訂正が遅すぎた上に、謝罪まで遅かった、だけど謝罪したことはいいことだというのが、まあ平均的な感想だと思います。だけど、なぜ間違った記事を記者が書き、それをデスクが容認したのか、そこの掘り下げは説得力がないです。

 吉田調書の問題では、秘密性の高いもので数人の記者しか見ていない(だから点検も甘くなった)ということですが、なぜその数人の記者は、調書を見て、そう判断したのかがまったく分かりません。本日新聞で載っている調書を見ても、学力も高く、たくさんの文書を読むのになれているはずの新聞記者が、なぜそのような読み方をできたのかが分かりません。

 おそらく、吉田調書についての記事を書いた記者は、国や東電をどうやったら批判できるのかという観点だけで、調書を見ていたのだと思います。全体の文脈とかを素直に読むのでなく、批判に役立つ部分はないかという視点で見るわけです。そうすると、個々の細かい文書のなかに、これは東電批判に使えるぞというものがあって、飛びつくんでしょうね。所長の指示を無視して大半の社員が逃げたとなったら、東電の信用はがた落ちになって、国民の批判が殺到するでしょうから、そういう記事を書けたらいいなと思って読んでしまうわけです。

 ここからは一般論。もちろん、批判精神をもつことは大事なことです。とりわけマスコミには、とくに権力批判の姿勢をもってほしいと思います。それが足らないのが、いまのマスコミでしょうから。

 だけど、取材をしてみて、そういう自分の立場と異なる事実に突き当たったとき、それをどう見るか、どう判断するかでしょうね。これでは国や東電の批判にならないと判断したら、それを隠したりしては、メディアとしての信頼性が崩壊するでしょう。ましてや、ゆがんで解釈するなど、あってはならないことです。国や東電の言うことであっても、評価すべきことがあるならちゃんと読者に伝えるという姿勢をもつべきです。

 でも、これって、朝日だけの問題ではないと思います。私だって、自分なりのイデオロギーがあって、その立場でものごとを見ます。イデオロギーがあるから、仕事に意欲をもって立ち向かえるわけです。だけど、現実がイデオロギーに合わないなら、イデオロギーの方が間違っているわけです。だから、そういう場合、現実を都合良く隠すのではなく、イデオロギーの方を見直さなくてはなりません。

 まあ、そうしようと思っていても、なかなか難しくて、日々格闘しています。だから、朝日に関する報道は、自戒の対象として読んでいます。

2014年9月11日

 来月5日(日)に開催することになりました。これまでの2回は土曜日でしたが、会場が確保できず日曜日になっています。お間違えのないようにしてください。お申し込みは、「会」のホームページからです。

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 今回のテーマは、添付したチラシにありますように、「防衛のプロが語る15事例のリアリティ」です。15事例って、言わずと知れた、集団的自衛権の与党協議で議論されていた15事例です。「米艦船に乗って避難する日本人を守る」とか、そういうものです。

 そのリアリティというか、リアリティのなさを、陸海空の自衛隊幹部OBと「会」の呼びかけ人が語り合います。海は、当初、元海将補の山本敏弘さんを予定していたのですが、急逝されたため調整中です。

 「会」のシンポは、第1回から今回までで、おおよそ自衛隊の国際貢献部分が終わることになります。その議論をふまえて、「会」としてこの問題をどう考えるかをまとめ、シンポでの貴重な発言とともに、来年2月頃、本にして発表する段取りです。

 その後、年末から年始にかけて、日本防衛を主題にしてシンポを開催。この部分をまとめた本は、集団的自衛権関連の法案審議がはじまる5月には出したいと思っています。あくまで希望ですけど。

 ということで、是非、お申し込みください。シンポを手伝いたいという方は、メールをください。もちろん参加費は無料になります。

2014年9月10日

 慰安婦問題で「強制性」が具体的に証拠として出されるなかでは、韓国以外の女性が多い。韓国の「強制」事例は、慰安婦の総数が膨大な割には、そう多くはない。

 これはある意味で当然の結果である。中国とかインドネシア(オランダ)などの事例は、日本が侵略して一部を占領した国であって、その国の主権はその国にある。だから、そこに住む女性を慰安婦にしようと思えば、日本軍の要望通りに動く地方行政当局が存在するわけではないので、おのずから強制が必要となるわけだ。

 一方、朝鮮半島は日本の植民地である。支配した当初こそ、いろいろな抵抗運動があったが、武力を背景に鎮圧していく。そして、抵抗運動が止んだわけではないが、日本の意向が浸透するような状況がつくられる。慰安婦の問題も、軍がそれを必要とするようになると、日本本土と同じように朝鮮半島でも業者が生まれ、日本で募集すると同様に朝鮮半島でも募集がはじまるわけだ。

 だから、韓国でも日本と同様、強制せずとも女性をスムーズに慰安婦にできた例が多かったかもしれない。だけどそれは、外形的には「自由意思」と言い張ることもできるだろうが、もっと大きな視野でみれば、韓国に対する強権支配が浸透したことの結果なのである。本質的には支配の貫徹であって、自由というものとは真逆なものである。

 しかも、植民地支配を合理化する人のなかには、韓国の人々を日本人と同じに扱ったと言う人もいる。だけど、少なくとも慰安婦についていえば、日本では21歳以上に限られていたが(日本が批准していた「婦人・児童の売買禁止に関する国際条約」が21歳未満の売春を禁じていたから)、植民地はそれが適用除外されていた。韓国で名のり出た慰安婦の大半が慰安婦になったのが10代だったのは、その結果である。条約が10歳代の売買を禁止していたのは、「自由意思」にもとづいて自分を売買が不可能だからであって、韓国で適用除外しておいて「自由意思」を強調することはできないと思う。

 それでも、当時は、とくに10代の若い女性は、生まれたときから日本人として育てられた。だから、韓国の女性が慰安婦になるのと、当時の日本人の女性が慰安婦になる気持ちと、そう大きな違いがなかったかもしれない。

 しかし、日本の敗戦にともない朝鮮半島が独立することになって、慰安婦とされた女性も自分は日本人ではないという自覚をもつことになる。そして、その後、60年代にかけて全世界で植民地の独立が進み、植民地というのはあってはならないのだという認識が地球規模で確立する。その過程で、慰安婦にされたことが「自分たちの意に反した」という気持ちは、どんどんふくらんでいったに違いない。人権問題での意識の向上とか、他方、90年代初頭の地域紛争における女性虐待とか、いろいろな要素も加わってくる。

 だから私は、慰安婦のことを論じるのに、「強制」の証拠集めはあまり必要ないのではないかという立場だ(学問的に大事な意味はある)。スムーズに慰安婦を集められたことが証明されればされるほど、日本が朝鮮半島を植民地にして、その支配を及ぼすことによって女性を慰安婦にできたのだということが証明されるという立場である。

 そして、次には、その植民地支配の問題である。(続)

2014年9月9日

 「強制」があったのかなかったのか。それが議論される際、「誰による強制」だったのかについて、つねに明確にされるわけではない。おそらく、そういう主語がついていなくても、「誰」というのは「日本軍」とか「日本政府」である、ということが自明の前提になっているのだろう。

 「誰」がやったのかは、責任の所在に直接結びつくからだろうが、非常に大事な問題であるとされてきた。そして、河野談話が強制を認めたことで、左側の人は「強制を認めたのだから国家責任で謝罪と補償を」と言ってきたし、右側の人は「政府や軍は強制なんかしていないのだから、談話を取り消せ」と求めてきた。

 たしかに河野談話は、慰安婦は「本人たちの意思に反して集められた」とか、その募集などは「総じて本人たちの意思に反して行われた」などとのべている。しかし、そうやって慰安婦を集めた「主体」については、慎重な言い回しである。慰安所が軍の要請でつくられたこと、その管理や慰安婦の移送は軍がやったことを認めている。だが、慰安婦の募集については、「軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たった」として、民間業者がやったことという考えを貫いている。「官憲等が直接これに加担したこともあった」という文面はあるが、その文脈でも明白なように、基本は業者であり、官憲の関与は個別的という位置づけである。

 このような構造になったのは、政府の検証結果からも明らかなように、日韓による交渉の結果である。韓国側としては、本人が望んで慰安婦になったととられる文書になることは絶対に避けたかった。日本側は、政府や軍が組織的に強制したととられる文書にはしたくなかったわけである。

 だけど、私は、この構図がいいのだと思う。河野談話のすぐれたところは、「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり」とか、「総じて本人たちの意思に反して行われた」と明確にしていることである。政府や軍は強制的に連れてこいという方針は持っていなかったにしても、連れてこられた本人は「自分の意思に反したものだ」という認識をもったということが大事だと思うのである。

 だって、慰安婦の多くは、非常に貧しい家庭の出身である。日本が戦争に突入して、ますます貧しくなった(日本本土もだけど)。親はたくさんの借金を抱えていて、それを返済しなければならない。そういう状況のなかで、日本軍の慰安婦になる道と、それよりは収入が少ないが別に収入を得る道の二つがあったとして、最終的に本人がOKして慰安婦を選んだとしても、それを自由意思による選択だといえるだろうか。慰安婦になると儲かるよといったのが民間の業者であれ、あるいは官憲であれ、もしくはもっと過酷なことに自分の親であったにしても、できれば選択したくないいくつかの選択肢のうちから、イヤイヤ選択せざるを得なかったのだ。本人の心に「自分の意思に反したものだ」という気持ちが生まれたのは当然のことだろう。

 この問題をめぐっては、右派から、「実際には娼婦だった」とか「金儲けの手段として選んだ」とか、いろいろ言われる。そうでないことを証明しようとして、いろいろな資料集めがされる。だけど、そんなことをしなくても、「本人たちの意に反した」ことで十分なのではないだろうか。そういう状況に女性を追いやるような慰安婦制度を軍が必要としたというだけで、批判するには十分ではなかろうか。

 しかも、もっと大事なのは、別に日本政府や日本軍が強制しなくても慰安婦を集められたことである。強制連行せよという方針を出さなくても、それが可能だったことにこそ、この問題の本質があると私は思う。当時の朝鮮半島がそういう位置に置かれていたことである。(続)

2014年9月8日

 日々議論されているので、私も、ずっと考え続けてきたことを書き留めておく。不定期にだけど。

 まず「強制」という問題だ。強制連行はあったのかなかったのか、吉田証言は虚偽だったけれど、強制性は引き続き本質的なものかどうか、そういう問題である。

 吉田証言の虚構は以前から明白だったとはいえ、慰安婦問題での市民運動は、強制連行を重視してきたと思う。そのため、個々の慰安婦の証言だとか、裁判資料を集め、公開してきた。

 強制連行って、それが事実なら、やはり人の気持ちに入り込んでくる。いやがる少女に銃剣を突きつけて連れ去る図というのは、そんなことをやったヤツは絶対に許せないという気持ちを起こさせる。

 実際、日本から韓国に行って慰安婦問題を学ぶツアーとかがあると、必ずそういう場面を描いた絵を見せられる(当然、写真ではない)。そして日本軍への怒りがかき立てられ、それを謝罪しない現在の日本政府を糾弾するということになるわけだ。

 こういうツアーに何回もかつがれた(○○さんと訪ねる慰安婦問題を学ぶ韓国ツアーということで)ある人が、朝日の検証記事を見てがっくりきているという。そういう話を、そのツアー会社の社長から聞いた。

 そうだろうなと思う。それに対して、吉田証言にかかわらず強制連行はあったのだから間違いはないとして、同じようなツアーを続けるのか。そこを根本的に考え直すのか。

 もう8年ほど前になるのだけど、慰安婦問題に熱心なある学者と議論をしたことがある。その方は、当時から吉田証言は信用しておらず、一方、強制連行にかかわるいろんな資料を発掘することに熱心であった。

 私は、研究者がいろんな資料を発掘するのは研究者としての当然の仕事であって、ずっと高く評価している。学問の世界では、そういうことは大事である。

 でも、その時に私が言ったのは、いくら事実をたくさん集めても、歴史学として大きな意味はあるが、それを市民運動の方針の証拠文書するようなことでは、強制はなかったとする右派の攻勢には勝てないのではないかということだった。大事なのは考え方の転換ではないのかということだった。どういうことか。

 右派が根拠としているのは、政府や軍が組織的に強制連行をやれと指示した文書はないというものだ。それに対して、個別の慰安婦の証言だとか兵士の証言、個々の派遣部隊の文書をいくら集めてみても、それは個別の事例があったよねということであって、政府や軍がそういう方針をもっていたことの証明にはならない。逆に、政府や軍の方針に反してそういうことがやられたという「証拠」になりかねない。

 いや、そういう証言が慰安婦のかなりの部分から出るなら、文書は残っていないが実態は強制連行だったということが説得力をもつかもしれない。だけど、慰安婦が数千人だったというなら数百人程度の証言で十分だっただろうが、運動のなかで慰安婦の総数はふくらみがちで、いまや市民運動や韓国側が慰安婦の総数として提示するのは20万人、30万人という大規模なものになっているので、強制連行が本質だったというにはせめて数千人の証言が必要だろうから、どんどん証明が難しくなっている(私は数の多寡は慰安婦問題の重大性に関係がないという立場であって、明々白々な証拠なしに数をふくらませるやり方には反対である。秦さんが言う2万人で十分だ)。

 それに、こういうやり方は、慰安婦問題を事実として認めてきた中間派にとっても、あまりいい影響をあたえなかったと思う。自分は日本軍が慰安婦制度をもっていたことを悲しいことだと思い、日本が河野談話等で謝罪して良かったと考えているのに、次から次へと証拠を出して謝罪せよということになると、自分が責めたてられているように感じるだろうからだ。このあたりの感情は、正しい理念をもって闘う市民運動派には理解できないかもしれない。

 では、私が必要だと思う考え方の転換とはどういうものか。(続)