2015年5月13日

 昨日の続き。9条に3項を新設する憲法改正案が出てきたら、どうするのだという話である。 

 昨日示したような改正案に反対したら、「暫定的に自衛隊を置く」こともダメだととられるわけだが、そうならない方法が一つだけあると考える。どういうものか。

 そもそも、なぜ、「暫定的に自衛隊を置く」こともダメだととられるのかというと、護憲派とはそういうものだという、国民の側の思いこみがあるからだ。思いこみというより、これまでは事実に近かった。

 私が『憲法九条の軍事戦略』を書いたときも、ふつうの人からは、「護憲派だからといっても、自衛隊を否定しないんでいいですね」と言われたものである。「それなら自分も護憲派かもしれません」と。

 多くの国民が護憲派を見る目は、そういうものだ。これは、自衛隊を堅持する「専守防衛」か、自衛隊を廃止する「非武装中立」かが戦後の対決点となってきたので、当然のことなのである。

 だから、護憲派が何を言っても、自衛隊の廃止をめざすのが護憲派だと捉えられてしまう。憲法に「暫定的に自衛隊を置く」と書くことに反対しているだけで、当面は置くことに反対しないのだと説明しても、その言葉は心を捉えることはできず、身体のなかを通り過ぎるだけであろう。

 ということは、そこを変えればいいのだ。護憲派といっても自衛隊を否定する護憲派は少数であって、肯定する護憲派の方が圧倒的に多いのだということを、国民投票が行われる以前に、できるだけ早い段階で、多くの国民の認識にすればいいのである。

 護憲派も改憲派も自衛隊を認めている。何が違うかというと、護憲派の自衛隊論というのは海外派兵や集団的自衛権に反対で、改憲派の自衛隊論は海外で戦争するのに自衛隊を使うものだということなのだということを、国民の常識にまですることだ。

 そうならないまま、「暫定的に自衛隊を置く」という条文を入れるか、入れないかの議論になると、圧倒的に護憲派の不利になる。そう思いませんか?

 自衛隊を完全否定して即時廃止だという護憲派のみなさんにも、できればそういう事情を理解してもらいたい。そして、自分たちは少数であって(未来においては多数になるけれども)、護憲派の多数は自衛隊のことを当然認めているのだということを発信してもらえればうれしい。

 護憲派による自衛隊の活かし方の提言は、5月18日のシンポジウムで、「自衛隊を活かす会」が発表します。議員会館ではじめて開催するということもあって、野党はもちろん自民党の方も参加します。乞うご期待。

2015年5月12日

 昨日、いろいろ議論をしてきました。国民投票を前にして、いろんな人が、いろんなことを考えるんですね。

 話のなかには、護憲派が九条の改憲案を提起すべきではないか、というのもありました。それって、普通の護憲派は目をひそめるでしょうけど、よく考えなければならない問題でもあります。

 たとえば、ある有名な文学者は、九条に「外国軍事基地は置かない」という規定を入れるべきだという確固とした考え方をもっています。だけど、いまの護憲運動のなかでは、「おまえは改憲派だ」ということになって、その人の気持ちは踏みにじられるわけですね。改憲を提起するからといって戦争を望んでいるわけではないのですから、九条に手をつけるからといって敵にまわす手法はとるべきではないと思います。

 昨日話題になったのは、私がこのブログでいつか書いたことがあると思いますが、こういう改憲案です。反対するのがそう簡単ではない案なのです。

 九条の1項も2項もそのまま残すんです。そして第3項に、「1項2項の理想が実現するまでの間、暫定的に自衛隊を置く」という規定を入れるというものです。

 この案、みなさんなら、どういう理由をつけて反対しますか。続けて記事を読む前に、少し考えてみてください。

 自衛隊即時廃止論者だったら、簡単ですよね。暫定的にでも認めない、という理由になるでしょう。

 でも、九条は守りたいが、自衛隊を即時廃止するのは困ると思っている人は、どういう理由で反対するんでしょうか。どうですか?

 まあ、いろいろあるかもしれません。でも、どんな反対理由であっても、「暫定的に自衛隊を置く」ことに反対するのですから、ふつうの国民からみれば、「ああ、即時廃止論者なんだな」と思われてしまう。

 その結果、結局、国民の98%ほどを占める自衛隊必要論VSわずかな自衛隊廃止論の対決みたいな構図になる。そして国民投票では負ける。

 昨日話し合った方は、それを心配しているわけです。そして、2項をなくして国防軍を設置するという自民党改憲案が通るくらいなら、1項も2項も残るし、将来は自衛隊を廃止するという案を提起した方がいいということを考えたわけですね。

 これって、10年ほど前、加憲の立場にある公明党が言いだしたものに似通っています。その頃から、そういう改憲案が出てきたら難しいなと思ってきたものです。

 この改憲案に反対するって、いろいろ言っても、小難しい理屈になるんですよね。「自衛隊を暫定的にも認めない人だ」と攻撃されたら、ひとたまりもない。

 それでも少しでも通用するとしたら、国民多数が反対している集団的自衛権に依拠するしかないと思います。なぜ憲法九条のもとで集団的自衛権は認められないとされてきたかというと、九条が自衛隊を明記してこなかったからです。九条は自衛隊(自衛権)を明示的に認めていないけど、自分の国の防衛を認めないなんて常識的に考えられないから、個別的自衛権だけは認められるとされてきたのです。国際法上は、自衛権といえば個別的と集団的との両方を意味するわけであって、自衛隊(自衛権)を明示的に認めてしまうと、集団的自衛権まで認められるんです。

 だけど、それでも分かりにくいですよね。国民投票の時代は、本当に考え抜かないとダメだと思います。

2015年5月11日

 昨日から東京。明日まで。最大の仕事は、今月刊行する「未来への歴史」シリーズ2冊の仕上げ関係。

 ついでに何人かの方とお会いする。難しいのは、来年の参議院選挙に向けて相談に乗ってほしいというもの。

 当然のことではあるけれど、参議院選挙で改憲派が3分の2を超えたら、衆参ともに改憲を発議できるようになる。この選挙後に発議して国民投票に向かうというのが安倍政権の描くスケジュールである。

 それに対して、護憲派がせめて3分の1をとれるようにしたいとして、動きが活発化している。その相談に乗ってほしいということで、ある方とお会いする。まあ、私も率直に意見を述べるつもり。

 護憲の統一候補といっても、そう簡単ではない。何重にも乗り越えるべき壁がある。

 まず、護憲ということだけで統一できるのか、という壁がある。いくら憲法が大きな焦点になるといっても、これだけ暮らしの先行きが見えないときに、経済では一致しませんというのでは、とっても勝てないだろう。

 じゃあ、「脱原発」を打ちだすのか。それを打ちだすにしても、何が脱原発かということになる。世論調査でも即時廃炉だけでは国民多数になっていない。だけど、20年後までに廃炉という人を入れて多数になったと見えても、今度は、再稼働問題などで内部分裂を始めるだろう。

 護憲それ自体は、憲法改正には賛成しなければいいのだから、難しい問題は生じない。しかし、統一がなされるとしたら、それは自衛隊に関する考え方が根本的に異なる人の統一だ。ガラス細工の統一である。国民投票で勝つために立場の違いを超えて一緒に運動しようというレベルなら問題ないが、国政選挙での統一となると、その違いははげしく攻撃されることになる。

 憲法九条のもとで自衛隊をどう位置づけるのか、日米安保はどうするのかという、いわば政策上の問題は、5月18日に「自衛隊を活かす会」が出す提言によって、ある程度はクリアーできるだろう。「こういう政策でやっていく」と堂々と言えるはずだ。

 問題は、自衛隊が合憲か違憲かの違いだ。護憲の統一候補といっても、この問題では立場がばらばらだろう。

 3分の1なら政権をとるわけではないので、選挙後、閣内不一致を攻撃されることはないだろう。しかし、選挙中、「政権はとらないので、自衛隊が合憲か違憲かの統一解釈は出さない」という態度をとったら、ちょっともたない気がする。

 それよりも何よりも、そういう機運が出てくるのかということだ。沖縄の結果があったから、日米安保に対する態度の違いは障害にならない可能性は生まれたのだが、本土で本当にそういうことが可能なのか。

 まあ、虚心坦懐に話し合ってきます。では。

2015年5月7日

 この住民投票って、部外者(私は大阪府民だけど今回の対象には入らないので)の目から見ると、すごく分かりにくさがある。投票する人も、困っているのではないだろうか。

 いわゆる二重行政解消という橋下さんなりの旗印があるわけだが、都道府県と市区町村がある限り、かならず二重行政の問題はつきまとう。そこをどう区分けするのが最善かということって、絶対的な基準があるわけではないだろう。大阪に限らず、いまの区分けが正しくって、それを変えるのは絶対にダメだということは、おそらくない。

 しかし、行政がうまくいかないという現実があったとして、その理由を行政の制度のせいにしようとする橋下さんの態度って、私は潔くないと思う。うまくいかないなら、まず、自分の政策が間違っているとか、力量が不足しているとか、そこを考えるのが筋であるべきだ。

 そして、たとえ大阪都構想の方が、いまより少しマシだったとしても、そのためにこれだけの力とお金をかけるのも、どうなのかなあと思う。その力とお金を別のところに使った方が、住民にとっていいと感じるからだ。

 だが、一方で、この問題は、集団的自衛権のことのように原理的な賛成、反対になじまない。どっちの方がムダがないのかということだから(いや、もっと原理的な問題だという考え方もあるだろうけど)、賛成と反対をぶつけ合うという手法に適さないような気がしてならない。だから、少なくない住民が、「まあ、橋下さんのでも悪くないなら、一度やってみたら」というふうになるのだと感じる。そこを原理問題みたいに攻めていっても、違和感が残るのではなかろうか。

 だけど、大阪都構想を離れて、再び部外者の立場で言わせてもらうと、是非、反対多数で葬り去ってほしいと思う。なぜなら、全国的な意味があるからだ。

 最近、労働問題に熱心な弁護士にお会いし、残業代ゼロ法案の行方について尋ねた。あるいは、自衛隊を活かす会の関係で、新安保法制の今後について関係者の意見を聞く機会が多い。

 そこで多くの方がおっしゃるのは、維新の党の行方は、この住民投票の結果にかかっているということだ。もし、残業代ゼロ法案が頓挫したり、新安保法制が躓くことがあるとすれば、それは維新の党が反対に回る場合しかないと、みなさんおっしゃる。そして、最近、これらの問題で、維新の党の幹部が反安倍さん的なことを言う機会が多くなっているけれど、もし大阪の住民投票が橋下さんが勝つなら、維新の党の全体が再び橋下さんの言いなりになっていくであろうというのが、大方の見方である。

 ということで、大阪のみなさんには、是非、がんばってほしい。

2015年5月2日

 前回の記事で、北海道新聞の報道を根拠にして、慰安婦問題での挺対協の方針転換について書いた。そして、それを歓迎しつつ、「もしかしたら、この転換を批判する声も出てくる可能性もある。というか、実際に出ている。その声が強くなって、挺対協の方針転換が押し戻される可能性だって、まったくないとは言えない」との懸念も表明していた。

 残念なことだけど、その懸念が当たっていたのかな。北海道新聞によると、「日本政府に法的責任を求めない」と表明したはずの挺対協代表らが、北海道新聞に抗議と訂正要求をしたそうだ。それを受けて、当該記事はこのように訂正されたという。

 見出し:「慰安婦問題 『法的責任』は求めず 韓国・挺対協 従来方針を転換」→「慰安婦問題 『法的責任』内容を説明 韓国・挺対協 解決の方向性を提示」

 本文1:「挺対協が、日本政府に対して立法措置による賠償など『法的責任』に基づいた対応を求めてきた従来方針を転換したことが分かった。代わりに『政府と軍の関与の認定』や『政府による賠償』などを盛り込み、要求を緩めた」→「挺対協が、日本政府に対し慰安婦問題の解決に関しとるべき方向を提示した」

 本文2:「挺対協はこれまで、日本政府の『法的責任』を追及し、《1》慰安婦制度を犯罪事実として認定《2》国会決議による謝罪《3》法的賠償《4》責任者の処罰―などの対応を求めてきたが、犯罪としての扱いは求めず、立法措置も除外した」→「犯罪としての扱いは求めず」の部分は削除。

 本文3:「尹代表は『(法的責任を直接追及しなくても)提案内容で、実質的に日本の法的責任を明確にできる』とした」→「尹代表は『法的責任の内容というものは提言の中に込められている』とした」

 要するに、挺対協の方針が「法的責任を追及しない」と変わったという部分は、すべて削除されたということだ。私の懸念が当たったということなので、「すごい洞察力でしょ」と誇りたいところだが、悲しいよね。これで、慰安婦問題の解決は、さらに遠のくことになる。

 ただ、これも前回の記事で書いたことだけど、こうなるには理由があった。「法的責任を追及しない」と言いつつ、そういう言葉は要求書のなかに入れていないけれど、実際にはそれと矛盾する内容が入ったりしていて、いわゆる玉虫色だったわけだ。

 率直にいって、この20数年にわたってつづいた対立を、あいまいにして解決しようとするのは無理である。そんなことをすれば、20数年間の方針を正しいと信じ込んできた多くの人々が反乱を起こし、収拾がつかなくなるのだ。今回の北海道新聞をめぐる顛末も、その結果だろう。

 だから、何よりも大事なのは、なあなあで収拾しようとするのではなく、堂々と議論することだ。法的責任なんか、慰安婦の方々の尊厳を回復する上では、無視していいほどの小さい問題だということを、徹底して議論することなのだ。挺対協がそういうことができるよう、暖かく見守っていきたい。

 私の『慰安婦問題をこれで終わらせる。』は、そのために書いたようなものである。慰安婦の方々に読んでもらうため、誰かハングルに訳してくれないかなあ。