2015年6月6日

 昨日から東京。学校図書館向けのイスラム本、読む子どものことを考えても、より準備して来年回しにすることになり、それをめぐって調整があった。 

 そして、明日、いよいよである。小林さんがすでにブログに書かれたので、私も少し書いておく。

 『慰安婦問題をこれで終わらせる。』を刊行したのは、その本に書いているように、本当に終わらせたいからである。そのためには活発な議論が行われることが不可欠だ。しかし、この本をめぐる議論は、拍子抜けするほど少ない。

 右派からの異論・反論を期待したが、ほとんどない。すでに終わった問題だと考えているからか、何に反論すればいいか戸惑っているのか、理由は不明だが。

 左派の一部から「なぜ小学館のようなところから出したのか、不謹慎だ」とか、「正しい方針からずれている」との批判があると耳にすることがある。なので、それを伝えてくれた人に「じゃあ、公開討論会をしよう」と持ちかけているが、なしのつぶてだ。

 一部の、それもかなり有名な人から、高い評価をメールなどでいただく。「朝日新聞こそがこういう視点で総括すべきだった」など。だけど、オモテに出るような形で論評してくださる方は、あまりいない。私といっしょくたにバッシングされると思っているのかなあ。

 そういうなかで、小林さんと対談することになったわけだ。小林さんは、言わずと知れているが、慰安婦問題をめぐる現在の世論の構図ができあがるきっかけをつくったような方である。その小林さんと議論し、問題解決の道筋を見いだせるようでないと、この問題は終わらないと考えているので、対談には覚悟して臨みたい。

 数年前から、ブログ読者のメールなどを通じて、「小林さんのことをどう考えているのか」とか、「対話すべき相手だと思うがどうか」などのご意見、ご質問をいただくようになった。私のまわりの左翼にも、そういう方が増えてきたわけである。それで私も真剣に読むようになった。

 きっと、意見が異なることはたくさんある。だけど、真剣にこの日本をどうするかを考えているなら、通じ合うところは出てくると思う。

 対談場所は、「週刊東洋経済」の事務所。掲載は、その雑誌の6月末か7月はじめ。買ってくださいね。

2015年6月4日

 いちおうは安全保障や外交問題が専門ということになっていて、本もいくつか書いているのに、20世紀の「戦争と平和」にとって最大の問題であったアウシュビッツを訪れていないことは、ずっと気になっていた。だから、丸一日をかけて見学し、その後、ドイツがそれをどう総括しているかを見てきたことは、意味があったと思う。何か認識がまるで変わるということはないけれど、やはり現場を見てきたということは大事で、今後、折にふれて、私にも何らかの影響を与えることになると思う。

 そこで感じたことの最大のものは、各種の犯罪の性格というものをちゃんとつかんで議論しないと、すれ違いに終わることがあるだろうということだ。それも、この問題に対する国際社会の認識の発展というものをよく捉えていないと、間違いを生みだすことにもつながりかねない。

 たとえば、ドイツが犯した罪の最大のものは、「C級犯罪」である。いわゆる「人道に対する罪」だ。ユダヤ人の抹殺をもくろんで、それを実行に移し、実際に600万人を殺害した罪として問題になっている。

 一方、日本で問題になってきたのは、いわゆる「A級犯罪」である。「平和に対する罪」として、指導者が戦争を計画し、指導したことが問題とされてきたわけである。

 両方とも、第二次大戦の終了に際して、新しくつくられた犯罪概念であるが、二つの犯罪の性格はまったく異なる。ドイツは反省し、日本は反省していないとよく言われるけれども、犯した罪の性格が異なるのに、反省の水準を横並びにして比較するのは、そもそも簡単なことではないだろう。

 「C級犯罪」というのは、実際に大量の人を処刑したということで、何と言えばいいか分からないが、罪が実感しやすし、事実が明確なので反論の余地がない。一方、「A級犯罪」というのは抽象的である。侵略の過程で民間人の殺害行為もあるわけだが、この犯罪で問題になっているのは、あくまで侵略を企てたり、遂行するのに責任を負っているということである。

 国家がそこに住むある集団を組織的に殺害することは、それまで犯罪とされてこなかった分野であるとはいえ、何と言っても人の集団を抹殺するわけだから、その時点でも犯罪として認識しやすい。しかし、戦争を計画し、遂行することを犯罪とするのは、いまでもイラク戦争を計画し、遂行したブッシュさんが犯罪に問われないように、ましてや70年前、どうそれを問うのかは難しい問題であった。

 だから、反省とか責任というのは、それぞれの罪に即したものでなければならない。そうでないと、ドイツと同じように責任を認めろといっても、心に響いてこないような気がする。それがどんなものか、まだ見えてこないけれど。(続)

2015年6月3日

 過激派組織「イスラム国」(IS)は当初、ISIL(「イラクとレバントのイスラム国」)という呼称を使っていた。その「レバント」って何かということが話題になった時期があった。

 ウィキ的に言うと、「トルコからシリア、エジプト、パレスチナやヨルダン、レバノン」を含む広い地域を指すということになる。しかし、意図的にかどうか、ウィキが欠落させている国がある。「イスラエル」だ。イスラエルのある場所を含む概念なのである。

 中東専門家の酒井啓子さんが、それをすごく心配しておられた。ISがイスラエルを標的に活動しはじめると、中東は大変なことになるからだ。 

 そういう意味で、本日の毎日新聞1面記事は衝撃的だった。いつも目の付け所が鋭い大治朋子記者の手によるもので、見出しは「IS 「イスラエル壊滅」扇動」とある。

 中身は見てもらえばいいのだが、要するに、酒井さんが心配していることが始まっているということだ。まだ萌芽的なものではあるようだけれども。

 ISが主要に活動している国のひとつであるシリアは、イスラエルと陸続きである。シリアで影響力を拡大すれば、イスラエルは目の前の土地になるのである。

 そして、そのイスラエルは、ガザ攻撃をくり返してイスラム教徒を殺戮している。それに対して無力なハマスに愛想を尽かしているという面があるので、ISが魅力的に映る土壌が存在する。

 非常に危機的である。ISがパレスチナで勢力を拡大するのは目に見えていて、その上、シリア側に拠点を確保してイスラエルを攻撃する可能性がある。そうすると、イスラエルによる攻撃も、パレスチナにとどまらないで広がっていく。イスラム世界とイスラエルの軍事対決になると、「ISはテロ集団だから国際社会が対決しなければならない」という構図なんて、簡単に吹き飛んでしまいそうだ。

 世界がこんな状態にあるのに、わが日本では、それをどう捉え、どう打開するのか、何も議論されていない。国会では安全保障が毎日議論されているのに、その体たらくだ。同じ中東のことを議論しながら、話題になるのは、ホルムズ海峡の機雷掃海である。

 こんな国会の委員会なら、早く廃止した方がいいのではないか。切実にそう感じる。

2015年6月2日

 昨日、滋賀県弁護士会の市民講座で講演した後、弁護士会のみなさんと懇親会でいろいろ議論してきた。話題はどうしても目の前の国会審議のことになる。

 安倍さんの答弁を批判することでは共通しているわけだが、なぜあんな答弁をしているのかでは、いろいろ評価が分かれる。あんな答弁とは、質問とはかみ合わない答弁だったり、自衛隊の活動を限定するのかしないのか理解不能なような答弁のことである。

 もともとかみあうような議論ができない人なのだ、という見方もある。そういう要素もあるかもしれない。

 だけど、私には、そういうものとは異なる感じの答弁であり、対応であるように見える。憲法のタガが外れるとここまで来るのか、という感想を持つのだ。

 安倍さんの答弁は、理屈が通っていない。たとえば、集団的自衛権の行使はホルムズ海峡の機雷掃海だけだと言う。これって、たいしたことはしないのだ、だから安心してくれというメッセージだ。

 一方で、その集団的自衛権の行使は、経済的な影響で日本の存立が脅かされても行うのだとする。相手国に日本を攻撃する意思がなくても、日本は武力を行使するというのだ。これって、そんなことで武力の行使をしていたら、どんな場合でも武力行使することになるでしょという答弁である。たいしたことはしないのだというのとは、対極に位置する。

 いろいろな分野の答弁において、そういう矛盾した要素が、次から次へとでてきている。だから質問者は戸惑って、かみ合っていないという感想を述べる。

 だけど、安倍さんにとっては、かみ合わなくていいのである。一つには、国会での数の力があって、何があっても法案は通るという確信がある。

 同時にふたつめに、これが大事だと思うのだが、もう集団的自衛権を行使するという決定をしてしまっているからだ。憲法解釈はすでに変わったのである。

 だから、戦闘地域に近くに行って後方支援するので戦闘に巻き込まれ、自衛隊員の安全が脅かされ、自衛隊が武器を使うことになると責め立てても平気なのだ。もちろん、安全を大事にするというイメージは大事だから、たいしたことはないよというメッセージも出す。しかし、答弁が行き詰まって、自衛隊が武器を使うことになるということを認めることになったとしても、安倍さんは困らない。

 だって、日本は集団的自衛権が行使できると、すでに閣議決定したからだ。これまで海外において自衛隊が武器を使用することは、集団的自衛権の行使につながる危険があるとして、いろいろな制約が課されてきた。だけど、もう憲法上の制約はないのだから、答弁で行き詰まっても、「いや、憲法上はもう問題ないんですよ」と言えるのだ。

 政府はこれまで、いろいろ解釈をこねくり回してきた。それってひどいものもあったけれど、そうはいっても「憲法の枠内」をどう維持するかという思考と無縁ではなかった。そのタガが外れた状態が現在なのだ。そこをどう攻めていくのか、考えどころである。

2015年6月1日

 もともと戦後70年企画のツアーでしたし、日本ではリアルタイムでその問題が国会で議論されていたし、いろいろ考えることが多かったです。有意義でした。

 ドイツは反省したのに日本は反省していない。これってよく言われることですし、そういう要素があるのは事実ですが、そう簡単な話ではありません。

 こういう違いが生まれた一番大きな要素は、ドイツでは戦争に責任のあるヒトラー、ナチスが打ち倒されたのに、日本はそうならなかったということでしょう。ドイツで戦後政治を担ったのは、ナチスに市長の座を追われたアデナウアーとか、地下活動に入り、後に亡命して闘ったブラントだったりしたわけですが、日本の戦後政治は戦前と連続していたわけです。

 あの戦争が「侵略」だと言い切った初めての首相が、自民党が下野したのちにできた非自民政権の細川さんだったことは、その象徴だと言えるでしょう。自民党政治のもとでは、そういうことはできませんでした。そして、自民党が政権に復帰しても、当初は社会党の村山さんが首相であって、自民党は自由にはできなかった。その間、村山談話とか慰安婦問題の女性基金とかが進んでいくわけです。

 そういう時期のことが、実は自民党には許せなかったんでしょう。安倍さんなどを中心にして反撃が開始され、その反撃が絶頂を迎えて現在に至っているというのが現状です。

 この状況は、ただ自民党がつくったものではないというところに、大きな特徴があると思います。国民的な基盤があるということです。

 つまり、日本では、侵略の過去のある政権を、戦後、国民が支持してきたということです。ほとんどの期間、そうだったということです。

 ドイツでは、ナチスが打倒されたため、あの大虐殺とか戦争はナチスがやったことだと、国民が思うことができました。キリスト教民主同盟も社会民主党も、その他の勢力も、悪いことをやった連中はいなくなったので、ナチスの犯罪をどんなに追及しても、自分に跳ね返ってくるようなことはなかった。

 だけど日本では、戦前の責任を追及するということは、目の前の政権を追及するということでした。それは同時に、その政権を支持し、継続させている自分の責任を問うということでもあったと思います。それは簡単なことではありませんでした。

 だから、ドイツの指導者や国民が優れていて、日本のそれは低劣だということではないのだと思います。戦後、それぞれの国民が置かれた政治状況の違いというものを考慮し、それを考え抜いた戦争責任論というものを構築しないと、国民多数が納得する見方は出てこないかもしれません。(続)