2015年8月21日

 本日から東京。『歴史認識をめぐる40章』を短時日に仕上げるためには、印刷所のある東京にいることが欠かせません。宅急便でやりとりしていると、合計で2日はロスになるからね。それと本の執筆者とお会いしたり、その他その他。

 明日は、変わったイベントに参加します。出版記念トーク『父島が西荻にやってくる』といって、北尾トロさん、瀬戸山玄さんと私の座談会。午後2時から、場所は東京・杉並の信愛書店というところです(西荻窪の駅を南に3分ほど)。1ドリンク付きで1500円とか。

 北尾さんは、なんと猟師。これを仕事にしている人って、まだ一度もあったことがありません。ていうか、仕事として成り立つんですか。最近、『猟師になりたい』(信濃毎日新聞社)という本を出されました。

 瀬戸山さんは、ドキュメンタリスト。最近、『狙撃手、前へ!』(岩波書店)を出したばかり。小笠原で生まれ、「戦争で本当に人を殺した者にしか、命の有り難みは分からない」と語る横山丈夫を通して、矛盾に満ちた戦争の姿を語るという趣旨が、アマゾンにあります。

 そこになぜ、私が入るのか、分かりませんよね。信愛書店さんの説明によると、3人は「銃」で共通しているんですって。「自衛隊を活かす会」ということで。

 でも、「銃」って、テレビで見たことがあるという程度で、実物は触ったことも見たこともないんですよね。どんな座談会になるのか、さっぱり分かりません。

 それでも興味のある方は、まだ席が空いているそうなので、どうぞ。書店のホームページに申込み方法が書いてます。

 このイベント、夜までつづくんですが、何とかして京都まで帰ります。だって、日曜日は、朝の9時50分から労働組合の幹部相手に講演しなければなりません。テーマは、まだ決め切れていないのだけど、「政治を変える力をどうやってつくるか」にしようかな。

2015年8月20日

 さっき、『安倍談話の裏表』を印刷所に入れた。趣旨が伝わりやすいから、ずっとこのタイトルということにしていたけれど、少し前、いろいろ考えて、サブタイトルとメインタイトルを入れ替えた。だから、正式には、『歴史認識をめぐる40章──「安倍談話」の裏表』となる(表紙画像)。

さよなら安倍/安倍談話・表紙(帯あり)

 先月、『歴史認識とは何か』(新潮選書)、『「歴史認識」とは何か』(中公新書)と、偶然にもほぼ同じタイトルの本が出ている。前者は著者が細谷雄一さんでもう6刷り、後者は著者が大沼保昭さん(聞き手は江川紹子さん)で、発売と同時に増刷が決まったという。私の本のタイトル変更理由を、そのタイトルに則していうと、表(建前)は、中身に即したタイトルにするということで、裏(本音)は、売れている「歴史認識」本に割って入りたいということかな。

 昨日、職場を休んで、最後の仕上げをしたのだが(自社の本を書くのに休暇というのも変な感じ)、映画「日本のいちばん長い日」も観に行った。仕上げに際して、何か刺激になるようなものがあるかなあと、少し期待して。

 それにしても多数の人が観に来ていた。昼間、高槻の映画館にいったら、「もう満席です」といわれたので、ネットで予約した上で、夕方、茨木の映画館へ。そこも満席にはなっていなかったけど、たくさん入っていた。みんな、「歴史認識」を考えているんだろうなあ。勉強したいと思わせたのだったら、安倍談話にも効果があったということか。

 映画は、ドラマとして面白かった。主役の役所広司がなかなかで、そうだよな、ああいう終戦を迎える上では、陸軍大臣の役割が大事であって、求められるものを演じきったという感想。昭和天皇の玉音放送を阻止しようとした反乱将校役の松阪桃李もいい役者だなと思わせてくれたが、映画を成り立たたせるため実際の反乱より大きく描いているので、そこのリアリティが気になった。

 それよりも、冒頭に、終戦の「聖断」を決断するに到る過程が描かれるのだが、東京をはじめ各地への空襲、ソ連の参戦、原爆投下とつづくけれど、「沖縄戦」はどこにも出てこない。「本土決戦だ」「本土決戦だ」と、出てくるのは「本土」ばかり。

 これは原作者の半藤さんの責任ではなくて、実際、半藤さんが関係者にいろいろ取材しても、その関係者の口から、「沖縄」のことは出てこなかったのだろうな。沖縄県民がどんなに命を失っても、そのことが日本の戦前の指導層に何の影響も与えなかったことは悲しい。

 そういう感覚を、いまの指導層も受け継いでいるんだよね。そのことが映画の最初に気になったため、最後まで気持ちを投入できなかった。残念。

2015年8月18日

 現実の運動が政治のありようを規定する。どんな運動が広がるかは、どんな政治を国民が求めているかを示している。

 60年の安保闘争。空前の大闘争だった。私はまだ保育園児で、炭鉱につとめていた父が参加するデモを、母に手を引かれて見に行った記憶がある。

 この闘争を主導したのは「安保改定阻止国民会議」だったが、その中心は総評であり、政党としては社会党と共産党だった。ただし、共産党は幹事団体に入れず、オブザーバー扱いにとどまる。

 この闘争を通じて、その当時の時点においてだが、政治を変える共闘はどういうものかが明らかになる。社会党と共産党を軸にして、労働組合をはじめいろいろな団体が共闘するかたちが必要だということになった。

 そして実際に、地方政治のレベルではそういう共闘が実現し、政治の担い手となっていく。革新自治体とよばれた自治体は、東京都、大阪府、京都府をはじめ人口で半数を擁するような広がりを見せた。

 これを国政レベルにということが70年代に焦点となる。革新共闘、革新統一戦線という言葉も生まれる。だけど、なかなか複雑な経過があって、それは実現しなかった。

 今回の新安保法制の闘争。現実に闘われている運動は、60年安保闘争とはまったく異なっている。

 突然あらわれたSEALsをはじめ、市民運動が主役である。多くの運動参加者は、「革新」といわれるのを拒否するだろう。そうした運動が主催する集会に、いろいろな政党が参加し、挨拶させてもらうという関係だ。

 おそらく、新安保法制が通るならそれを廃止するために、通らないなら引き続き阻止するため、この運動がさらに広がっていく。法案の行方にかかわらず、この運動が、政治のベースになっていく。

 この運動が求める政権共闘はどんなものか。そこを見極めることが、今後の政治と運動を切り開くことになるのではないか。現時点で、まだ「これだ」とは言えないけど。

 だけど、山形市長選挙は、少し面白そうだ。民主、社民、生活、共産の推す梅津候補が、自民、公明の候補と一騎打ち。維新は自主投票だが、幹事長が梅津候補の事務所に応援に行ったりしている。

 この候補、元防衛省職員だ。そして、大学(慶應義塾)では、小林節さんの愛弟子だという。なんとなく、現在の運動と親和性があると思いませんか?

2015年8月17日

 第Ⅳ部は植民地支配にかかわる問題です。現在、日韓関係は史上最悪の状態に陥っていますから、安倍談話でこの問題がどうあつかわれるかに注目した人は少なくないでしょう。ところが、村山談話の三倍近い長さの談話でしたが、韓国に対する植民地支配に言及した部分は、ほとんどありませんでした。内容的にも、なかなか評価の簡単でない問題があります。

 まず冒頭に、列強による植民地支配への言及がありますが、それは日本が独立を守り抜いたことを誇る文脈で出てきます。日露戦争も、日本が朝鮮半島を植民地支配する契機となったことはふれられず、逆に、支配されていた「アジアやアフリカの人々を勇気づけ」た側面だけが強調されています(なお、この最後の引用部分は、間違いとまではいいませんが、せいぜい「勇気づけた場合もあった」程度のことでしょう)。その後、第一次大戦後の民族自決の動きが広がり、植民地化へのブレーキがかかったことが指摘されるので、あたかも日本が植民地支配を抑えるための役割をはたしたといっているようにも聞こえます。

 次に出てくるのは、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」という文章ではじまる箇所です。ここで、「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」とされるのです。日本は武力を背景に朝鮮半島を植民地支配したわけですから、この部分は、そういうことを二度とやってはならないと読むことも可能ですが、朝鮮半島のことが明示されていないことは気になります。

 より大きな問題を抱えていると思われるのは、それにつづく箇所です。談話は、「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」として、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」と述べています。こういう言い方をしていることにより、過去の内閣の反省とお詫びを受け継ぐというだけで、自分の言葉では述べていないという批判があります。

 私は、自分の言葉で述べていないといっても、それを「揺るぎなく」受け継ぐというなら、とりたてて問題にするつもりはありません。私が問題だと思うのは、この「反省とお詫び」が「先の大戦における行い」だけを対象にしていることです。村山談話で反省とお詫びの対象になったのは「植民地支配と侵略」でした。しかし、「先の大戦」ということになると、一般に第二次世界大戦とは、一九三九年のドイツによるポーランド侵攻ではじまり、日本の真珠湾攻撃で文字通り世界規模になったというのが定説ですから、反省とお詫びが一九一〇年にはじまる朝鮮半島植民地支配に向けられていると解釈するのは、相当な無理があるでしょう。韓国がこの談話を大問題にしていませんが、「先の大戦」の開始を一九一〇年だとみなしているのでしょうか。

 植民地支配をどう評価するかは難しい問題です。侵略が違法な行為であることについては、安倍談話が、戦争に踏みだした日本を「新しい国際秩序」への「挑戦者」だったと表現したように、戦前においても、程度の差はあれ共通の認識がありました(侵略の定義の問題はあるとしても)。けれども、一九一〇年当時の世界において植民地支配が合法であったことについては、現在も、欧米諸国の共通の認識になったままです。

 そういう現状のなかで、安倍首相は、日本だけが植民地支配を謝罪するという道を進みたくないのでしょう。それだけに、日本の植民地支配の何が、なぜ問題なのかということは、正確に分析されなければならないと思います。

2015年8月15日

 終戦七〇周年を目前にした二〇一五年八月一四日、安倍晋三首相は、いわゆる「戦後七〇年談話」(資料○○○㌻)を発表しました。戦後五〇年に際して出された村山富市内閣総理大臣談話(資料○○○㌻)と同様、閣議決定を経て出されたもので、同じ主題をあつかっていることから、両者はよく比較して論じられます。

 村山談話は、日本の朝鮮半島支配から一九四五年の敗戦に至る経過について、「植民地支配と侵略」だと言い切り、「痛切な反省」と「お詫び」を表明したものでした。これに対して、日本との戦争を戦ったアメリカ、イギリス、中国、支配された韓国、さらに日本の侵略の過去を批判してきた日本国民からは、好意的な評価が寄せられました。一方の安倍氏は、首相になる以前(二〇〇九年)、村山談話について「あまりに一面的」「村山さんの個人的な歴史観に、日本がいつまでも縛られることはない」と断じていました(『正論』)。首相になってからも、「安倍内閣として、村山談話をそのまま継承しているわけではない」として(二〇一三年四月二二日)、村山談話への敵意を隠さないできました。日本国民のなかには、日本の戦争は自衛のためのやむを得ない戦いであったし、アジア解放の戦いだったと考える人々がおり、安倍内閣はそういう世論に支えられて誕生したものです。

 他方、日本が植民地支配と侵略をおこなったことは、ほぼ常識として定着しています。それを否定するとなると、日本の国家としての立ち位置が、世界中から疑惑の目で見られます。侵略を認めない首相が進める新安保法制への批判もさらに高まります。個人としての信念を貫くのか、日本国家の代表者としての立場に配慮するのか、談話をめぐって安倍首相にはそのことが問われました。信念を本音(裏)、国家の立場を建前(表)とすると、裏と表をどう位置づけるのかが、安倍談話の最大の焦点だったということです。

 実際の談話をどう評価すべきか。これは簡単ではありません。「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」というキーワードを盛り込んだことで、村山談話を受け継ぐという最低限度の水準はクリアーしたという見方があります。私も、その点は大事なことだと考えますし、新安保法制に危惧を感じている世論が安倍首相にそういう選択をさせたという面があることは、運動の成果として誇れることだとも思います。また、侵略も植民地支配も認めない右翼的な世論が跋扈しているなかで、安倍首相さえここまでは認めたということをテコにして、侵略と植民地支配への責任という面である程度の世論の一致ができることを期待します。

 しかし、この談話が、本当にそういう責任を認めたものなのかという点で、重大な疑問が残ることも事実です。よく指摘されているように、侵略や植民地支配への責任をとる主語を明確にして語っていないということではありません。侵略したという国家としての建前(表)は表現するけれども、それを個人の本音(裏)を侵害しない範囲におさめるため、一般的な言い方にとどめるということも、選択肢としてはあり得ると思うからです。村山談話の水準には達しないけれども、もしそこで国民多数の合意が得られるなら、それはそれで意味のあることだといえます。

 私が疑問を感じたのは、談話発表直後の記者会見におけるやりとりのときでした。安倍首相は、記者の質問に答えて、以下のように述べたのです。

 「先の大戦における日本の行いが「侵略」ということばの定義に当てはめればダメだが、当てはまらなければ許されるというものではありません」

 これは、一見すると、どういう見方があっても日本の行為は許されないものだったのだ、といったものだと捉えられないこともありません。しかし、うがった見方をすれば、日本が許されない行為をしたことは否定しないが、それは必ずしも侵略の定義に当てはまるものではないのだと、開き直ったもののように思えます。この言葉につづいて、安倍首相は、「具体的にどのような行為が「侵略」に当たるか否かについては、歴史家の議論に委ねるべきである」としているので、いっそうそういう感想がふくらんできます。

 そのことを考えると、談話において「侵略」という用語を使っていても、その定義は決まっていないのだから実際には侵略とはいえないというのが、談話の立場だということになります。ということになると、談話は建前(表)の枠内にあるのではなく、安倍首相の本音(裏)と一体のものであると捉えることも可能です。とはいえ、これは記者会見のやりとりであって、閣議決定された談話それ自体ではないので、評価は簡単ではありません。

 そもそも、日本の近現代史をどう評価するかということが、なかなか難しい問題なのです。そこには、植民地支配と侵略という負の側面もあれば、欧米の圧迫から独立を守り抜いたという正の側面もあります。政治の世界では、そのどちらかだけを強調する歴史観に出会うことが少なくありませんが、実際に歴史は、そのふたつの側面が分かちがたく結びついています。その複雑さが、安倍談話をめぐる議論に投影しているわけです。

 本書は、安倍談話を材料にしつつ、そういう日本の近現代史をどう評価するかについて、いろいろな角度から論じたものです。読者がこの問題を考える糧として少しでも本書が役立てば、八月一五日をはさんだ暑い時期を執筆に費やした筆者としては、苦労が報われる気がします。