2016年1月7日

 北朝鮮の核実験で大騒ぎですね。これまで核・ミサイル実験の度に、識者といわれる人が、「アメリカを交渉の場に引きずりだそうとしている」とか「世界に存在感を示そうとするものだ」とか、いろいろな見解を示してきました。当初はそういう見方も通じたと思いますが、少なくてもいまでは違うと思いますよ。北朝鮮が何回核・ミサイル実験をしてもアメリカが交渉に応じることもないし、存在感どころか孤立するだけでした。どんどん経済制裁も強まってきた。いくら北朝鮮だって、それだけの体験を通じて学習はしていると思います。本当にもう国内向けだけになっているんでしょうね。「オレは偉いんだから指導者として君臨するぞ、認めろよな」みたいな。という点では、いくら制裁しても変わることはないということです。体制の崩壊が大事に至らないように準備するしかないのかも知れません。ということで、昨日の続きです。全文はここにあります。

二、憲法九条を将来にわたって堅持する時代の矛盾

●憲法九条に対する態度の大きな転換
 「中立・自衛」政策は、一九九四年になって大転換する。「中立・自衛」というのは、以上見てきたように、憲法改正を含意した概念だったわけだが、この年、憲法九条を将来にわたって堅持する方針を打ち出したのだ。
 「憲法九条は、みずからのいっさいの軍備を禁止することで、戦争の放棄という理想を、極限にまでおしすすめたという点で、平和理念の具体化として、国際的にも先駆的な意義をもっている」(第二〇回大会決議、九四年)
 かつて「恒久平和をつらぬくうえでの制約」としていた九条の評価を大転換させたのだ。そのもとでは、「侵略されたらどうする」という問題への回答も変わらざるを得ない。かつての社会党と同様、「警察力」で対処するのが基本だということになっていく。
 「急迫不正の主権侵害にたいしては、警察力や自主的自警組織など憲法九条と矛盾しない自衛措置をとることが基本である」(同前)
 劇的な転換だった。とりわけ自衛戦力が必要だとしてきたかつての立場との関係をどう説明するかは難問だった。憲法の問題を担当していた共産党の幹部が、次のようなことを書いた。
 「今日では、なんらかの軍事力に恒常的に依存するといったことなしに日本の独立と安全をまもることが必要かつ可能であり、日本がそうすることが世界の平和にとっても積極的な貢献となること、この点で日本国憲法の規定は国際的にも先駆的な意義をもっていることが、いよいよ明白になってきている。将来における自衛措置の問題についての日本共産党のかつての提起も、もともとどんなことがあっても、かならずや憲法を変えて自衛の戦力を保持するのだというのではなく、情勢と国民の総意によるというものであったが、今日では第九条の将来にわたる積極的な意義と役割をより明確にしておくことが重要である」(「赤旗評論特集版」九四年七月二〇日)

●転換を生んだ時代背景
 これはこれでスッキリとはしている。しかし、かつて批判してきた社会党と同じ立場をとるわけである。この決定があった年、私は共産党の政策委員会に勤めることになり、しかも安全保障問題の担当者となったので、どんな批判が寄せられるかと心配していた。ところが、共産党員からの反発はあまりなかった。
 なぜ共産党員に戸惑いがなかったのだろうか。これまで説明してきたように、「中立・自衛」政策というのはあくまで将来のことと位置づけられていた。当面の焦点は「憲法改悪阻止」であったので、共産党員は「九条を守れ」という立場で活動していた。何十年にもわたって日常的には九条の意義を語っていたわけである。将来の「中立・自衛」政策のことなど議論する場もなかった。その結果、共産党が憲法改正を展望していることなど自覚されず、そのことを知らない党員が多数を占めていったのであろうと思う。
 時代の変化もあった。戦争がなくならないという現実に変化はなかったが、その戦争に対する国際世論には変化があった。たとえば国連総会は長い間、アメリカやソ連が戦争をしても見過ごしてきたが、七九年、ソ連のアフガニスタン介入に際して反対決議をあげた。八三年にはアメリカのグレナダ介入に対する反対決議も可決した。そうした変化は、戦争がなくなるとまでは断言できる変化ではないが、少しずつそういう方向に世界が動くだろうということは予感させるものだった。ソ連が崩壊して、冷戦も終わりを告げた。
 共産党の大転換は、そのような時代状況の産物だったのだ。

●自衛隊活用論への転換
 しかし、さすがに侵略に対して「警察力」で対応するという政策は、共産党員の間ではともかく、国民の間では通用しない。私がいた部署は、選挙で国民に支持されるための政策をつくる部署だったので、国民と接触する機会が多く、「ミサイルが落とされたらどうするのか」という質問などが常に寄せられるのだ。それに対して当時、「警察力で撃ち落とします」などといえるわけもなく、「落とされないように外交努力をするのです」と答えながら、心のなかでは「通用しないよな」と思う日々が続くことになる。
 そこに変化が生まれたのが六年後である。この年、共産党は、自衛隊と九条の「矛盾を解消することは、一足飛びにはできない」として、自衛隊の解消が現実のものとなる過渡期には自衛隊を活用するという方針を全国大会で打ち出す。
 「(自衛隊と九条との)この矛盾を解消することは、一足飛びにはできない。憲法九条の完全実施への接近を、国民の合意を尊重しながら、段階的にすすめることが必要である」
 「そうした過渡的な時期に、急迫不正の主権侵害、大規模災害など、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を国民の安全のために活用する。国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守るために、可能なあらゆる手段を用いることは、政治の当然の責務である」(第二二回大会決議、二〇〇〇年)

●安全保障政策としては合理的なものに
 この新しい方針は、自衛隊の即時解消を求める平和運動家、党員には評判が悪かった。戦後すぐの混迷の時期は別として、共産党の全国大会は全会一致で方針が可決されてきたが、唯一、この第二二回大会だけは異論が出た大会であった。
 この時期、私は担当者だったので、共産党員が集まるいろいろな場所に説明のために出かけたが、そこでも非難囂々の連続であった。「憲法に違反するものを使うなんてとんでもない」「自衛隊があるとクーデターで政権がつぶされる」「外交に自信がないのか」等々、批判の渦のなかに行くようなものだった。
 けれども、安全保障政策としては、非常に合理的になったと思うので、私は堂々と説明していた。かつての「中立・自衛」政策のもとでは、すでに紹介したように、いったん自衛隊を廃止し、その後に新たにつくりなおすという、どう見ても不合理な道筋が想定されていたわけである。新しい方針によって、自衛隊を将来に廃止するにしても、それは国民が合意する範囲で、少しずつ進めればいいことになったのだ。政策として合理性がある。自衛隊をなくしてしまえば侵略されたときに困るという不安が広範囲に残る限り自衛隊はなくさないのだから、「侵略されたらどうする」と聞かれれば、「あなたを含む国民多数がそう思っている間は自衛隊はなくさない」と答えればいいので、大きな批判は起こりようがないのである。
 確かに自衛隊の即時解消を求める人たちの批判はなくならないだろう。それでも、最終的には解消するわけだから、目標の方向性では一致しているのだ。
 こうして、残るのは、自衛隊の活用の仕方だけとなる。安全保障政策を具体化すれば良くなったのである。そうなるはずだったのだ。

●自衛隊活用は将来の話だった
 私は、この大会決定が決まって以降、「侵略されたら自衛隊が反撃するのだ」という立場でものを考え、執筆もしてきた。ところが、それに対して予想外の批判が寄せられることになる。
 どういう批判かというと、自衛隊を活用するという大会の決定は、日米安保条約を廃棄する政府ができて以降の話だというものである。それ以前の段階では自衛隊を活用すると明示しておらず、したがって「侵略されたら自衛隊が反撃するのだ」と一般化する私の立場は間違いだということだった。当初の案の段階のものは、私のような受け止めがされるものだったが、大会の最中に修正をくわえることにより、自衛隊の活用は安保条約廃棄以降の問題だという位置づけを与えたというのである。
 私にはそのように思えなかった。しかも、たとえ大会決定がそう解釈されるようなものであっても、それ以前の段階で侵略されたらどうするのかといえば、当然自衛隊で反撃することになるだろう。大会決定が明示的にそれを否定していない以上、「侵略されたら自衛隊が反撃するといえる」と私は主張した。しかし、大会決定を決めた人たちがそう解釈しているのだから、それを覆すことはできなかった。
 安全保障に責任を負っていた私が、その安全保障の中心問題で意見が異なることになったのだ。人生で最大の悩みを抱え、苦悶したすえ、退職を決意することになる。

●当面も自衛隊活用という方針への転換
 それから一〇年が経過し、昨年の夏、新安保法制で日本国中が沸き立った。この法制が可決された直後、共産党は「国民連合政府」構想を発表する。これは、新安保法制を廃止し、集団的自衛権行使を認めた閣議決定を撤回するという限定的な仕事をする政府とされているが、政権を担う以上、いろいろな問題にどう対応するかが問われる。共産党の志位委員長は、国民連合政府は安全保障をどう考えるのだという質問に答え、次のように述べた(外国特派員協会、一五年一〇月一五日)
 「つぎに「国民連合政府」が安全保障の問題にどう対応するかというご質問についてです。私たちは、日米安保条約にかかわる問題は、先ほど述べたように、連合政府の対応としては「凍結」という対応をとるべきだと考えています。すなわち戦争法廃止を前提として、これまでの条約と法律の枠内で対応する、現状からの改悪はやらない、政権として廃棄をめざす措置はとらないということです。
 戦争法を廃止した場合、今回の改悪前の自衛隊法となります。日本に対する急迫・不正の主権侵害など、必要にせまられた場合には、この法律にもとづいて自衛隊を活用することは当然のことです」
 日米安保条約が存続する政府のもとでも、侵略されたら自衛隊を活用するということだ。大会決定の解釈が覆ったのである。(続)

2016年1月6日

 またもや「産経新聞デジタル」に寄稿しました。共産党に共感できる理由を、デジタルとはいえ産経が取り上げてくれるなんて、すごいですよね。結論は安倍さんの批判になっているわけだし。ついつい担当者の方に「産経ってリベラルなんですね」とメールしてしまいました。とはいえ、産経のサイトなんか見たくないという方もおられるでしょうから、ここにもアップしておきますね。合計で1万字もありますから(本にするときは2万字程度になります)、3回連載で。
 
 日本共産党(以下、共産党)の安全保障政策は矛盾に満ちている。それを説明しても、ふつうの人にとっては理解を超えているだろうし、右派に属する人から見ればお笑いの対象になるかもしれない。しかし、その矛盾のなかで苦闘してきた私には、共感できるところがあるのだ。その点を書いてみたい。

一、「中立・自衛」政策のもとでの矛盾と葛藤

●社会党の「非武装・中立」政策は一貫していた
 マスコミのなかには不勉強な人がいて、護憲派というのは昔もいまも「非武装・中立」政策をとっていると考える人がいる。しかし、少なくとも九〇年代半ばまでの共産党は違った。共産党はみずからの安全保障政策を「中立・自衛」政策と呼んでいたのである。この二つはまったく異なる。というより、社会党が掲げていた「非武装・中立」への徹底的な批判のなかで生まれたのが、「中立・自衛」政策だったのだ。
 なお、この二つの政策は、「中立」という点では一致している。ここでいう「中立」とは日米安保条約の廃棄と同義語であった。安保条約があるから日本の安全が脅かされるのであって、それを廃棄して「中立」の日本を建設することが日本の平和にとって大事だという考え方は、いわゆる「革新派」にとって昔もいまも変わらない。「安全保障政策」といった場合、この日米安保をめぐる問題が共産党の主張の基本におかれているが、本稿で論じるのはそこではなくて、「それでもなお侵略されたときはどうするのか」という意味での安全保障政策であることをあらかじめ断っておく。
 社会党の政策は、ある意味、何の矛盾もなかった。憲法九条が戦力を認めていないわけだから、その九条を守って自衛隊をなくすというものだ。政策的にも「非武装・中立」が日本の平和にとって大切だという考えである。攻められたらどうするのだということへの回答は、「近隣の国々との間に友好的な関係を確立して、その中で国の安全を図る」ということであった。それでも日本に侵入されるような場合は、「デモ、ハンストから、種々のボイコット、非協力、ゼネスト」などで抵抗するという。その程度では侵入した軍隊に勝てないという批判に対する答は、「降伏した方がよい場合だってある」ということであった(石橋政嗣『非武装中立論』社会新報新書、一九八〇年)。憲法への態度と安全保障への態度は一貫していたわけである。すごく単純だったともいえるわけだが。
 これに対して、共産党は、憲法を守ることも大事だが、国民の命を守ることも大事だと考えた。そして、その両者は簡単には合致することではないので、政策的にもいろいろな矛盾を抱え込むことになったのである。詳しく見てみよう。

●共産党は「中立・自衛」政策
 共産党は、日本が対処すべき危険は二つあるとした。一つは、社会党と同様、安保条約があるから生まれる危険であるが、それだけではなかった。「もう一つは、これはいま現実にある危険ではないが、世界になんらかの不心得者があらわれて日本の主権をおかす危険、この両方にたいして明確な対処をしないと安全保障の責任ある政策はだせません」(不破哲三書記局長(当時)の日本記者クラブでの講演、八〇年)という立場をとったのである。
 それでは、日本の主権が侵された場合にどうするのか。まず、国家というのは自衛権を持っており、日本国憲法のもとでも侵略された際に自衛権を行使するのは当然だという立場を、半世紀も前に明らかにした。
 「(自衛権は)自国および自国民にたいする不当な侵略や権利の侵害をとりのぞくため行使する正当防衛の権利で、国際法上もひろく認められ、すべての民族と国家がもっている当然の権利である」(「日本共産党の安全保障政策」、六八年)
 よく知られているように、憲法制定議会において、新憲法では自衛権が否定されたとする吉田首相に対し、共産党は自衛権の重要性を主張した上で憲法に反対した唯一の政党である。国家が自衛権を保有しているという立場は、誰よりも明確だったといえるだろう。
 では、侵略されたらどうするのか。まず、抽象的にいえば、「可能なあらゆる手段を動員してたたかう」ということである。
 「憲法第九条をふくむ現行憲法全体の大前提である国家の主権と独立、国民の生活と生存があやうくされたとき、可能なあらゆる手段を動員してたたかうことは、主権国家として当然のことであります」(民主連合政府綱領提案、一九七三年)
 このように、共産党の安全保障政策の基礎となる考え方の一つは、何としてでも「国民の命を守る」ということであった。社会党のように、「デモ、ハンストから、種々のボイコット、非協力、ゼネスト」で抵抗するとか、「降伏した方がよい場合だってある」などというものではなかったのである。「非武装・中立」に対する「中立・自衛」には、そのような意味が込められていたわけだ。

●憲法九条の改正も展望して
 「国民の命を守る」ということに加え、共産党が安全保障政策を立案する上で基礎となるもう一つの考え方があった。それは「立憲主義を守る」ということだ。憲法に合致した手段で戦うということである。そして、この二つの考え方の両方を貫こうとするため、「可能なあらゆる手段」ということの内容に、いろいろな制約が課されてきたのだ。
 まず、侵略された場合、実力組織なしに対抗できないというのが共産党の考え方なわけだから、戦力の保持を否定した憲法九条のままではダメだということになる。いまではそんなことを覚えている共産党員は皆無だろうが、当時、共産党にとって、憲法九条というのは平和主義に反するものだという認識であった。
 「将来日本が名実ともに独立、中立の主権国家となったときに、第九条は、日本の独立と中立を守る自衛権の行使にあらかじめ大きな制約をくわえたものであり、憲法の恒久平和の原則をつらぬくうえでの制約にもなりうる」(「民主主義を発展させる日本共産党の立場」、七五年)
 九条では恒久平和を貫けないというわけだ。その結果、当然のこととして、憲法九条を改定することが展望されていた。
 「(日本が)軍事的な意味でも、一定の自衛措置をとることを余儀なくされるような状況も生まれうる」(したがって)「必要な自衛措置をとる問題についても、国民の総意にもとづいて、新しい内外情勢に即した憲法上のあつかいを決めることになるであろう」(「日本共産党の安全保障政策」、六八年)
 こうして、名称は決められていなかったが、戦力としての自衛戦力をつくるとされていた。徴兵制ではなく志願制とすることなども打ち出されたことがあった(『共産党政権下の安全保障』、七九年)。

●当面の方針は「憲法改悪阻止」
 こうして九条を改正するというなら、それはそれで矛盾はないことになる。社会党の「非武装・中立」とは反対の意味で、すっきり単純なことだった。しかし共産党は、九条の改正は将来のことだと位置づけ、当面は変えないという態度をとる。
 その理由の全体は複雑であり、読者を付き合わせると混乱してしまうだろう。よって紹介するのは二つだけに止める。
 一つは、自民党が九条を変えようとしていて、改憲問題が焦点となっていたわけだが、自民党の改憲の目的は、現在では誰の目にも明らかなように、集団的自衛権の行使にあったからである。つまり、九条の改憲が政治の舞台で問題になる場合、当時の焦点はそこに存在していたのであって、当面は「憲法改悪阻止」という立場が重要だという判断が存在したのだ。
 二つ目。当時、共産党が連合政府の相手として想定していたのは、いうまでもなく社会党であった。その社会党は九条を変えるつもりはなかった。そういう事情もあったので、当面めざす連合政府は、憲法の全体を尊重する政府になるという判断をしたのである。社会党との連合政府のもとでは憲法改正には手をつけず、自衛隊は縮小し、やがては廃止することになるということであった。

●律儀に解釈した結果、矛盾が広がる
 この結果、自衛隊についていうと、次のようになる。当面の社会党との連合政府では、自衛隊は縮小し、最終的には廃止される。そして将来の政府においては、憲法を改正することによって、新しい自衛戦力をつくるということだ。
 侵略された場合、「可能なあらゆる手段」で反撃するというが、その手段はどうなるのか。自衛隊の縮小過程においては、「可能なあらゆる手段」の中心は自衛隊だが、廃止してしまった後は、それこそ警察力しかなくなるということだ。そして、憲法を改正することによって、新しい自衛戦力が「可能なあらゆる手段」に加わってくるということである。
 これは大きな矛盾を抱えていた。これらの過程を「国民の総意」で進めるというわけだが、その国民の総意が、自衛隊の縮小から廃止へ、そしてその後に再び自衛戦力の結成へというように、相矛盾する方向に動くものなのかということだ。
 当時、共産党も、自衛隊の縮小はともかく、国民がその廃止に納得するとは思っていなかった。一九八〇年に出された政策において、「(社会党との連合政府のもとで)独立国として自衛措置のあり方について国民的な検討と討論を開始する」としたのである。
 これも一般の人には意味不明だろう。社会党との連合政府は憲法の全体を尊重する政府であるから、憲法改正をしないわけだが、それにとどまらず憲法改正問題の「検討と討論」もしないとされてきた。この政策によって、その態度を変更したというわけだ。
 ここには立憲主義をどう理解するかという問題がかかわってくる。いうまでもなく憲法第九九条は、大臣、国会議員その他公務員の憲法尊重義務を課している。その憲法のもとで、しかも憲法を尊重すると宣言している政府が、憲法の改正を提起できるのかということだ。
 共産党はそこを律儀に解釈して、連合政府では憲法問題の議論もしないとしてきたのだが、それでは自衛戦力が存在しない期間が長期化する怖れがあった。この政策が出された記者会見で宮本顕治委員長(当時)が説明したのは、まだ自衛隊が縮小しつつも存在している間に議論を開始し、自衛戦力の必要性について「国民の総意」を形成することによって、将来の政府ではすぐにその結成に(憲法改正にということでもある)着手できるようにしたのである。自衛戦力の存在しない期間をそれによって最短化することを示し、国民の理解を得ようとしたわけであった。(続)

2016年1月5日

 新年になりましたね(いまさら遅い!)。お正月はいかがお過ごしでしたか。

 私は一日も欠かさず出版予定の本を書いていました。昨年のブログにも書きましたが、今年も2冊の本を出す予定でして、一つは『対米従属の謎──70年以上経ってもなぜ変わらないのか』。こちらは出版社は決まっています。お正月に書いていたのは、もう一つの方で、『自虐も栄光も超えて──安倍晋三氏への手紙』です。こちらは、チャレンジング過ぎて、まだ出版社は決まっていません。

 安倍さんが年頭会見で「挑戦」を10回以上使ったことが話題になっていますが、本当に安倍さんはチャレンジしていると思います。昨年の70年談話、年末の慰安婦合意と、歴史認識問題でもウィングを左に伸ばそうとしています。そのめざすところは、やはり参議院で改憲発議可能な3分の2ということでしょう。

 その安倍さんのチャレンジに対して、こちらが同じ論理、考え方で対抗していては、打ち負かすことはできない。そういう思いが、この本を執筆している動機です。

 これまでと違う考え方のものなので、それに慣れた目で見ると、きっとあまりにチャレンジング過ぎると思います。2年半前に出版した『憲法九条の軍事戦略』のときと同様、賛否両論が入り乱れることでしょう。

 この本を書くために必要となって、2日にアマゾンに注文した7344円の本が、翌日に届きました。すごい早さ。

 この本を使って、『自虐も栄光も超えて』のなかで、ある仮説を打ち立てます。国連憲章51条は日本がつくったようなものだという仮説です。

 「武力攻撃が発生したとき」でないと「自衛権」が発動できないという51条は、当時の国際法では考えられない高い水準だったんです。侵略されたら自衛権が発動できるとされてきましたが、その「侵略」ってもっと緩い概念だったんですよ。日本だって、アメリカの経済封鎖で追い込まれて「自衛」権を発動したわけですが、侵略には経済的な圧迫も含まれるという考え方もあったのです。

 だけど、51条でそう規定されたことによって、戦後、何か戦争が起きる度に、「51条に照らしてどうなんだ」と議論されることになります。その積み重ねを通じて、次第に51条が基準となっていきます。

 国連憲章草案をつくった当時のアメリカの国務長官は、あの「ハル・ノート」のハルです。憲章の武力不行使原則(2条4項)について、「絶対的に武力行使を禁止しなければ」と強い気持ちでつくったことが分かっています。おそらく、ハルの頭にあったのは、日本のことだったと思います。51条は後に突如として挿入されたもので、経過は別なんですが、日独伊の軍事同盟型のような軍事行動をどう抑えるかという、強い問題意識があったのですね。

 「侵略」という用語が、現在使われているような意味で国際条約にあらわれるのは、1919年のベルサイユ条約です。第一次大戦で負けたドイツから賠償を取り立てるため、ドイツが「侵略」したから責任をとれということで使われたのです。

 51条の誕生にも同じような経過、思考があったと思います。6日間の休みでほぼ半分(5万字)を書き終えました。あとは休みが続かないので、完成は2月末かな。

 そんな本で良ければ、どこかの出版社の編集部のみなさん、チャレンジしてみませんか。お待ちしています。