2016年8月24日

 本日は福島です。「生業を返せ! 地域を返せ! 福島原発訴訟」の2か月に1度の裁判がある日です。それにあわせて、傍聴にあぶれた原告の方のために実施している企画の日です。

 これまではずっと講演会だったんですが、今回は趣向を変えてピアノの弾き語り。寺尾紗穂さんというシンガーソングライターですが、一昨年、『原発労働者』(講談社新書)という本も書いた異色の音楽家なんです。

 10月は、沖縄4区選出の仲里衆議院議員をお迎えし、福島と沖縄の連帯を演出します。ただ演出するだけでなく、実際に何を今後やっていけるのか、それを通じて考えるようにします。9月、11月と沖縄に別の仕事で行くので、いろいろ画策してきます。

 生業訴訟、おそらく来春には結審です。講演会をするのも、あと2回か3回。裁判の意義にふさわしく、最後はこれまでよりもっと大物をお迎えし、アピールしたいと考えます。首相経験者もオルグ予定。お楽しみに。

 それにしても、これほど福島に関わるとは、思いもしませんでした。1年目の3.11の日、浜通りで伊勢崎賢治ジャスヒケシ+蓮池透講演会をやったわけで、他の問題とは向き合い方が違っていたのは確かですが、それをその後も続けたり、裁判と関わって2か月ごとに福島に行くとは思わなかったです。

 1年目の企画のときは、仕事と関係ないので、会社から交通費ももらいませんでした。2年目以降は、仕事と関係しそうな雰囲気になってきたので、交通費は請求したけれど、大失敗して私財を投入したこともありました。まあ、でも、そういうことも含め、福島の問題を語る上で欠かせない出版社という地位は確立したんではないかと思います。

 でも、福島の問題は、「終わる」という性格の問題ではないんですよね。復興にしても脱原発の課題にしても、そうです。

 だから、今後も、つねに福島に出向き、いろいろ感じながら、新しい挑戦をしていきたいと思います。では、新幹線に乗るので、これで。

2016年8月23日

 内閣法制局が、天皇の生前退位について、憲法改正が必要だとしているとの報道が昨日あったらしい。日テレNEWS24。以下、冒頭部分の引用。

 「天皇陛下の生前退位をめぐり、内閣法制局などが、将来にわたって生前退位を可能にするためには、「憲法改正が必要」と指摘していることが新たに分かった。
 天皇陛下のお言葉について安倍首相は「重く受け止める」と表明したが、政府は憲法との整合性をいかに保つか、難題に直面している。政府関係者によると、憲法と法律との整合性をチェックする内閣法制局などは、生前退位を将来にわたって可能にするためには「憲法改正が必要」と指摘しているという。
 これは憲法第1条で天皇の地位は日本国民の総意に基づくと定めていて、天皇の意思で退位することはこれに抵触するという理由。
 一方、生前退位を今の天皇陛下にだけに限定するのであれば、特例法の制定で対応が可能だと説明しているという。政府は来月にも有識者会議を設置し、特例法の立法を軸に議論を進める考え。……」

 生前退位問題が議論され始めてから、いろいろな見解が出されている。しかし、これまで、学者も政府も、憲法上の問題はないとする節が主流だったはずだ。過去の政府答弁だって(つまり過去の内閣法制局見解だって)、そういうものだった。

 そこを、現在の内閣法制局が変えてしまうのか。誰もが思い出すのは、一昨年、集団的自衛権の政府見解を変えたこと。あれだけのアクロバティックな解釈改憲の論理を編み出す能力のある法制局が、今回は、解釈改憲でなく明文改憲が必要だというのが、どうも政治的な匂いがするよね。

 国民多数が生前退位に肯定的なのを見て、生前退位問題で改憲を提起すれば野望が実現できるんじゃないかと、内閣法制局が安倍内閣におもねったんだろうか。そこまでするものなのかなあ。

 内閣法制局の誰がそう言っているのかも明確でないので、本当にこれが法制局の真意なのかどうか分からない。間違いかもしれない。

 だけど、たとえ事実ではなくても、少なくない人が、内閣法制局って、そういうことをやりかねないところだと思っているわけだよね。だから、真実ではなくても、まことしやかにニュースが流れてくる。そして、内閣法制局への信頼が、さらになくなってくる。

 身から出たサビというのは、こういうことだよね。ま、仕方ないですよ。

2016年8月22日

 東日本は台風でたいへんそうですね。明日から東京に行って、明後日は福島なんですが、1日ずつズレるみたいで、私は大丈夫ですが、東日本の方は気を付けてください。

 一方、この京都はというか西日本はというか、すごい猛暑です。毎年そうなんでしょうけど、東と西では天気予報図でも気温が明確に異なることは、こちらに定住するようになって初めて自覚しました。

 朝、降り立った阪急の駅から、普通の人はバスに乗るところを、25分間早足で歩いて通勤するんです。それで往復したら、確実に1万歩になるということで、唯一の健康法として暑くても欠かせないわけ。でも、今朝は、最初の1歩を踏みだすのに勇気がいりました。

 会社のなかもすごいんです。朝、編集部の部屋に入ったとき、壁の温度計を見たら、なんと37.5度ですよ。エアコンを28度に設定しているんですが、それでも温度計は34度以下には下がりません。

 この部屋の壁は薄いというか、断熱効果がほぼゼロというか、仕事に向いていません。おそらく部屋の中心部は28度になっているんでしょうが、壁に近づくにつれて、温度が高まるんですね。だから、部屋の真ん中を向いている私の背中は涼しいのに、壁際の机側にある私のオモテ側はぬるっとしたいて、とってもイヤな感じ。

 それで、壁際の机に置いている私のノートパソコンは、熱くなってきて暴走をはじめるんです。いろいろ試したけれど、パソコンの下に専用のファンを置いて、上から家庭用で小型のファンをまわして、ようやく暴走しなくなりました。ノートパソコンを使っているのは出張の多い私だけなので、私に固有の現象なんですけど。

 暴走はしないけれど、何回か暴走した影響が残っているのか、アプリによっては挙動不審が見られます。エクセル程度ならいいんだけれど、仕事でいちばん使うアドビ系のソフトに使えないメニューがあったりすると、ガクッときます。パソコン、買い換えしないとダメかも。

 ちゃんとした壁のある部屋に移りたいんですが、そこにいる管理部門、営業部門の支持が得られないし。「狭くなる」とか言って。困ったなあ。

 まあ、本日は、暑さのなかでちゃんと仕事が進まないグチを書いているということで、ご容赦ください。

 週末は自宅だったので、ちゃんと仕事が進みまして、『「日本会議」史観の乗り越え方』を最後まで書き上げたんです。戦場に散った日本兵の死、日本兵に殺されたアジアの人びとの死、広島、長崎の死。それら「さまざまな死者の連帯」という視点を取り入れました。また、死んだ日本兵と、生き残っている私たちの連帯という考え方も提起しています。もうちょっとよく考え、仕上げていきます。

 それにしても、自宅で仕事する雇用形態に早くなりたいです。それのほうが、私にとっても会社にとってもいいことかもね。

2016年8月19日

 『「日本会議」史観の乗り越え方』ですが、まだ書き上げていないのが、最後の箇所です。終章のタイトルは「現在の若者へ、靖国に祀られた若者へ」というのですが、そのうちの後者です。

 これは本当に難しい。一般に左翼、平和主義者は、日本が侵略して命を奪うことになったアジアの2000万人と言われる人や、日本人であっても広島、長崎、あるいは沖縄戦の犠牲者などには哀悼の気持ちを表明します。これに対して、アジアの人びとの命を直接に奪うことになった日本兵(靖国に祀られている)をどう捉えるのか、そもそも哀悼の対象にするのかについて、あまり合意がないように見えます。

 その日本兵は、たとえ本人の意思がどうあれ、2000万人のアジアの人の命を直接に奪ったわけです。2000万人のアジア人の命を追悼することと日本兵を追悼することは矛盾する(少なくともそのように見える)。そもそも両方を等しく弔えるのか、弔えるとしたら、どういう論理なのかがあまり見えてきません。

 遺族にとっては、自分の親、夫、子どもの死を無駄死にだとは捉えたくない。ましてや多大な犠牲を迷惑をもたらした死だったとは思いたくない。

 「日本会議」史観の人は、そこを捉えて次のように言うわけです(昨年8月に出された戦後70年見解)。安倍さんなどが靖国に参拝する時の論理と同じですが。 
 
 「国民が享受する今日の平和と繁栄は、先の大戦において祖国と同胞のために一命を捧げられたあまた英霊の尊い犠牲の上に築かれたことを忘れてはならない。この英霊への感謝の念こそ、この節目の年を迎えた日本国民が共有すべき歴史認識の第一であるべきである」

 英霊に感謝することによって、遺族や国民の気持ちに寄り添おうとするわけです。これを批判するのは簡単なんです。「国民が享受する今日の平和と繁栄」というのは、現在の平和と繁栄を尊いものだとすることが前提になっていますが、日本会議の現状認識は異なります。設立宣言では次のように述べています。

 「しかしながら、その驚くべき経済的繁栄の陰で、かつて先人が培い伝えてきた伝統文化は軽んじられ、光輝ある歴史は忘れ去られまた汚辱され、国を守り社会公共に尽くす気概は失われ、ひたすら己の保身と愉楽だけを求める風潮が社会に蔓延し、今や国家の溶解へと向いつつある」

 だから、「英霊の尊い犠牲の上に築かれた」のは、なんと「ひたすら己の保身と愉楽だけを求める風潮が社会」だったと言わなければならないのに、そう言うと反発があるので、そこではいい社会が生まれたかのように装っている。ご都合主義なんですよ。

 だけど、そう言っても、靖国に祀られた若者に対し、どのようにすれば「あなたの死はこういう意味があった」と言えるのか、遺族の心に寄り添う言葉を発せられるのか、そこは見えてきません。9月1日の校了日まで悩み続けることにします。

2016年8月18日

●明治憲法の復活という方針を掲げたことはない

 生前退位問題だけではありません。日本会議が現行憲法を敵視し、幹部が明治憲法時代を懐かしむ発言をしているためでしょうか、日本会議が現行憲法を廃止して明治憲法を復活させようとしていると主張する人もいます。

 たとえば二〇一六年夏の参議院選挙長野選挙区で、野党から立候補した杉尾秀哉氏もその一人です。しかし、杉尾氏が「日本会議が考えている憲法改正は、大日本帝国憲法の復活です」と発言したのに対して、日本会議はただちに見解を公表し、これまで表明した憲法改正に関するいろいろな事実の経緯を述べながら、「結成以来今日まで「大日本帝国憲法復活」などの方針を掲げたことは一切ありません」と反論しました。憲法改正を掲げていることは隠しませんが、明治憲法を復活させるようなものではないというのです。

 実際、日本会議は昨年(二〇一五年)一一月、「憲法改正の国民的議論を!」と題するチラシを作成し、「国民運動」を進めており、そこでは七つが改正項目とされています。一=前文に日本の美しい伝統文化を明記すること、二=国家元首は誰なのかを明記すること、三=九条一項の平和主義を残すが二項で自衛隊の国軍としての位置づけを明確にすること、四=環境規定を設けること、五=家族の保護を規定すること、六=緊急事態条項を入れること、七=憲法改正要件を緩和すること、以上です。

 これをもって、「明治憲法と同じだ」と言う人もいるかもしれませんが、それはアジテーション以上のものではありません。自民党の改憲案と比べてみても、よほど穏やかなものになっていることは疑いようがありません。

●右派団体を総結集し、実際に目的を実現しようとするから

 ある人にとっては日本会議が極右のように見えるのに、なぜ実際には、それほど右側に寄りきった主張をしていないのか。それは、日本会議のそもそもの性格、さらにはそれが現在めざしていることとも関わる問題です。

 日本会議は、一九九七年、主に右派宗教団体を糾合する「日本を守る会」と、主に右派知識人が集まる「日本を守る国民会議」が合同して結成されたものです。右派の個人、団体を総結集することによって、その目的を達成しようとしているのです。

 しかし、巨大だということは、いろいろ性格の異なる団体、人びとが集っているということでもあります。たとえば宗教団体といっても、一般に目につくのは神道関係の団体であり、それらの団体が明治の国家神道と密接な関係にあった天皇制に対して独自の主張を持っていることは容易に推測できることです。けれども、日本会議には同時に、日蓮宗や曹洞宗などの仏教関係者、世界真光文明教団などの新興宗教の関係者なども加わっています。そこをまとめ上げるのですから、極端な主張では合意が得られないという要素も加わってきます。

 憲法をめぐっても右派のなかにはいろいろな意見があります。占領時に制定されたものだから無効だという主張も根強いのです。現行憲法が無効ということになると、現行憲法で廃止の決まった明治憲法が復活することになります。そういう立場からすると、現行憲法を改正するというやり方は、きわめて生ぬるいことになります。

 けれども、日本会議がいま重視しているのは、国民の合意を得て、実際に憲法を変えることです。「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を結成して一〇〇〇万人署名を展開し、国民の支持を得ようとしています。その目的の実現のためにも、それなりに合意の得られやすい先の七項目に限定して、署名の内容としているわけです。国民の支持が得られない明治憲法の復活という方針が有害なことは十分に自覚しているのです。

●自民党以外から支持を獲得するために
 以上のことから分かるのは、日本会議の主張がそれなりに抑制的なのは、組織の結束力を維持して、国民の支持のもとに、本気で目的(当面は改憲)を達成しようとしているということです。『日本会議の正体』(青木理著)に登場している横浜港北区の師岡熊野神社の石川正人宮司は、自民党に限らず改憲派を糾合するのが日本会議の役割であるとして、次のように語っています。

 「逆に、民主党などの中にも改憲派はずいぶんいて、その人たちが陰ながら力になってくれているという部分も実は侮れないんです。われわれはとにかく自民党に限らない改憲派を糾合したい。それが日本会議の運動ですから」

 日本会議といえば、多くの人の抱くイメージは、「自民党より右」というものでしょうが、実際にはウィングを自民党から左に伸ばそうとしているわけです。そのためには、右派原理的な主張は抑えてでも、できるだけ受け入れられやすい訴えをするようになっているのです。

 一方の日本会議がこうした視野を持って運動を開始した九〇年代半ば以降の時期、他方の左派はそれぞれが自己主張を強め、労働運動でも平和運動でも分裂した状態が固定化されていきました。その間隙を突くようにして出現した日本会議が、この約二〇年の間に、右派組織の団結をさらに固めつつ、どんどん巨大化してきたのです。

 つまり、主張が抑制的になったところが、実は日本会議の侮れないところだということです。現在の日本会議を語る上では、そういう視点が欠かせません。実際に日本会議が主張してもいないことを批判しても、「そんなことは言っていません」と反論されるだけで、痛くもかゆくもないでしょう。

 日本会議の歴史観をテーマとする本書も、その視点で書かれたものです。歴史観こそが、日本会議を日本会議たらしめているものに他ならないのであって、この分野で日本会議の実際の主張に即した批判ができなければ、巨大な影響力を持ちつつある日本会議を乗り越えることはできないと考えます。(了)