2016年8月5日

 昨日の記事をアップする頃には、ぼんやりと思っていたんです。誰か動いてくれないかなあというのでは、ちょっと無責任かと。

 それで、原水禁大会の会場で、いろいろ悩みながら決断しました。週明けの月曜日、京都の穀田恵二事務所、前原誠司事務所を訪ねて、申し入れをします。

 中身は、9月におなじみの高台寺で、お2人で対談しませんかということ。そして、今年中に、それを本にしませんか、というものです。

 まだ思いつきですけどね。対談ができるとしたら、テーマは3つ。

 1つ。「争い合った日々、肩をたたき合った瞬間」。過去、どんな気持ちで相手を批判してきたか、5月に札幌で同じ街宣車に乗ったとき、何を感じたのか、ですね。

 2つ。「社会保障、経済政策に接点はあるか」。これは「世界」8月号の前原インタビューに穀田さんが感想を述べるかたちで、議論を進めるのはどうでしょうかね。

 3つ。「安全保障では野合しかないのか」。この議論が難しいですね。叩き台になるようなものが、民進党、共産党ともに存在しないから。

 だから、たとえば、「自衛隊を活かす会」の提言をベースにするって、どうでしょうね。昨年7月、提言発表直後の「活かす会」のシンポには、共産党は穀田さん、民進党は同じ京都の福山さんが来て挨拶しているから、まったく枠外というわけでもないでしょう。

 そんな感じで、みんなが自分のポジションで、自分ができることをやっていくしかないんでしょうか。ということで、まだ出張中ですし、本日は忙しいので、これで終わり。

2016年8月4日

 ネット上では、8日発売予定の「世界」に掲載予定らしいですが、民主党の前原誠司さんへのインタビューが話題になっていますね。もっぱら、社会民主主義的な社会保障観を打ちだしている、みたいな脈絡においてですが。左との連携も視野に置いているみたいな。

 でも、私は前原さんの書いたものをそう読んでいるわけではないですが、もともと前原さんって、それほど「保守」という感じを受けていません。貧しい家の出だし、支援者には在日の方もいるみたいだし、辻元清美さんとえらく仲がいいみたいだし。

 それと、この「世界」のインタビューですが、ネットを見る前に、昨日(3日)の毎日新聞に少し紹介されているんです。民主党代表選挙をめぐる情勢を解説したなかでですが、次のようなものでした。

 「8日発売の月刊誌『世界』に掲載予定のみずからのインタビューを(前原グループの会合)参加者に配布した。野党共闘について『枠組み論ありきでは議論が逆立ちする。政策論議を深め、共闘のフェーズをさらに進化させる」と主張。憲法改正では議論を進める考え方を示しつつ、『自民党草案のように新たな役割を自衛隊に与えるべきだとは思わない』と記すなど、保守、リベラル双方に配慮する姿勢を示した」

 野党共闘の「枠組み」はすでに公党同士の合意事項だ、「枠組み論ありきなのだ」という立場からすると不満が残るでしょう。だけど、けっこうまともな認識だと思います。

 だって、「枠組み論ありき」では、枠組みを優先するあまり、政策上の違いを埋める努力が十分でなくなる可能性もあるからです。真剣に政策論議を深めて、どんな政策が必要で、どこでは一致できないのかを明らかにすることが大事でしょう。そして、そこまで一致するなら政権をともにしようとか、そこまでしか一致しないなら選挙協力に止めようとか、そんな議論の運び方が求められると思います。

 その点でいうと、おそらく前原さんは、「世界」のインタビューで、社会保障とか経済政策の分野では、左側との連携も可能だという気持ちをあらわしているのでしょう。たぶん。

 で、問題は安全保障。「前原さんは保守だから連携の対象でない」なんて思ってほしくないですね。前原さんの安全保障観というのは、民主党の安全保障観そのものだと思います。前原さんと議論し、一致できないなら、民進党との政権なんて夢のまた夢です。

 そして、国民の命を守るために自衛隊が必要だという認識を持てるなら、どこかで一致するところがあるのではないでしょうか。人の命を守るために必要だと思っていれば、「人助け」という言葉は出てきても、「人殺し」発言は出てこないのですが)

 そうやって、次の総選挙では、京都1区が穀田恵二さん、2区が前原誠司さんという路線が全国に先駆けてつくられたら、すごくインパクトがあると思うんです。全国に与える影響は計り知れない。そう思って動く人が、たくさん出てこないかなあ。

2016年8月3日

 毎年恒例の原水禁大会です。18歳で初参加して以来、何回かを除いて出席してきました。いちおう、長崎の生まれですし。

 今年の注目点は、核兵器を法的に禁止・廃絶するための国際条約の締結交渉がもしかしたら開始されるかもしれないという、その新しい局面にありますよね。ずっとジュネーブで議論されていますが、核保有国とその同盟国を除くと、世界の圧倒的多数の国がそれを支持する局面が生まれています。

 もちろん、交渉開始に至るにも簡単じゃないでしょうし、それがうまくいって条約ができても、核保有国が参加しない場合、とりあえず実効性はないわけです。だけど、対人地雷廃絶条約だって、最初は地雷の有効性を主張する国を抜きにしてつくられたけれど、人道性の観点からの批判が強まり、最大の保有国のひとつであるアメリカが、一昨年、ようやく条約への加盟を表明しました。表明だけで、まだ加盟していないので、トランプさんになるとどうなるか分かりませんが。

 核兵器の場合、それ以上の困難が待ち受けていることでしょう。同時に、核保有国の核を手放さないという意思が強いのに比例するように、核保有国の横暴に対する非核保有国の怒りも強くて、今後、国際政治の場では、はげしい闘いになっていきそうです。

 問題は核抑止力をどう扱うかです。反核運動という視点からは、核抑止力を完全否定して、「だから禁止・廃絶だ」ということになる。

 ところが、国際政治の場では、核抑止力信仰が強いわけです。それをどう克服していくのかが課題です。

 運動は、核抑止力を否定するし、条約ではおそらく「○○年後に核廃絶」と決めるわけですから、核保有国が参加するには、○○年後には核抑止力は不要という見地に立つことが求められます。しかし、そこまでに○○年間が必要だということは、ただ何万発もあるから技術的に時間がかかるというだけでなく、安全保障上の考慮があるということを意味しています。

 きっと、核抑止力を否定する考えと、○○年間は全否定しない考えとの間で、これまでの核軍縮交渉とは異なる論理、考え方が必要になってくるんでしょうね。誰か、この分野で本を書ける人、いるでしょうか。

 そういえば最近、オバマ政権が、核先制使用の方針(相手が通常兵器で攻撃してくる場合でも必要なら核兵器を使用する方針)の見直しに踏みだすという報道が駆け巡りました(数年前から示唆していたわけですが)。核保有国だって、これまでとは異なる考え方をとる可能性があります。

 従属国の特徴は、東欧諸国もそうでしたが、自分の頭で考える能力がなくなることです。他国が方針を決めるので、そうならざるを得ない。

 日本は、アメリカがいろいろ考えているのに、自分では考えず、アメリカの方針転換があったらまた考えもなしに従うことになるんでしょうが、せめて核兵器の問題くらいは、少しの独自性がほしいですよね。ねえ、岸田さん。

2016年8月2日

 中央教育審議会の特別部会が、2020年度から順次実施する学習指導要領の中間報告(審議まとめ)を公表しました。内容上の評価については、専門家の間で議論があるでしょうけど、出版社にとってはチャンスと捉えるべきでしょう。

 とりわけ、高校で新設される「歴史総合」が注目です。「日本史と世界史を統合し、近現代を中心に学ぶ」とされています。

 数年前に歴史のいろいろな分野の先生を集中的にお訪ねしたとき、学術会議でそういう方向が確定したことを教えられました。だから、いずれこのような科目の創設が打ちだされることは分かっていたわけですが、いよいよなんですね。

 こんな歴史の教え方をしたら、いまの政権のもとでは、「日本が世界のなかで優れているとことを学ぶ」なんてことになりかねないという危惧もあるでしょう。だけど、歴史の教え方の基本として、日本史を世界から孤立的に捉えること自体がおかしいと思います。古代史だって世界史のなかで捉えられるべきでしょう。

 実際、息子が使っていた世界史の教科書だったか副読本だったかを見ても、年表なんか、国ごとに縦に見るものと、世界を横断して横に見るものと、両方が混在していたわけです。そういう見方でないと捉えられないほど、世界は関係し合いながら歴史が進行してきたということでしょう。

 いずれにせよ、新しい歴史の教え方になるわけで、出版社としては、目の前に広大な市場が広がったということなんです。高校は6年後の実施ということなので、それまでに時間をかけて準備し、6年後には何冊もの関連本というか副教材のようなものを出せればなあと思います。

 あるいは、私が高校の頃は、『世界の歴史』『日本の歴史』と銘打った全何十巻の本なんかがあって、歴史が好きだった私はむさぼるように読んだんですが、それも変化するのでしょうね。『日本と世界の歴史』全何十巻の刊行ができたら、夢のようです。

 とりあえず、日本史、東洋史、西洋史の専門の先生に集まっていただき、勉強会から始めましょうか。でも、6年後は会社にいる保障がないので、誰か担当者を代わりに決めておかないとね。

2016年8月1日

 都知事選挙の結果を見ても、民進党岡田代表の進退と予想される代表戦の行方を考えても、そう思うんです。ドイツ文学運動で歴史的に使われてきた意味としてではなく、日本語の文字通りの意味で、風と波が吹き荒れる時代を迎えるのではないかということです。

 率直に言って、この間の野党共闘は「出来すぎ」だったと思います。だって、つい1年ちょっと前までは、お互いが相手を「敵」認定していたようなものです。政策も一致せず、人として信頼できる関係を築いてきたわけでもありませんでした。

 そこを新安保法制反対の空前の運動が乗り越えたわけです。熱気の中で、不一致点よりも一致点が大事に思えて、異論をおさえて進んできました。

 だけど、異論がなくなったわけではない。民進党のなかの代表戦を前にした保守派結束の動きもそうでしょうし、都知事選挙における宇都宮さんの離反も、起こるべくして起こったものでしょう。

 参議院選挙の中で安全保障をめぐる「野合」が問題となり、共産党が鍛えられる局面がありました。これだって、政権がかかる衆議院選挙に向かうなかでは、この程度では収まりません。共産党が細野さんや前原さん、長島さんとだって腹を割って話し合い、どこまで政策的な一致が得られるのか。そこを視野に入れないでは、これ以上の野党共闘は無理でしょう。安全保障で岡田さんや枝野さんとなら一致できるが、細野さんたちとは無理というようなことはない。岡田さんと細野さんの政策に、それほどの違いはないのですから。

 同時に、そうなっていけばいくほど、宇都宮さん的な離反がより大規模に生まれてきます。野党共闘が大事だから、意見を脇に置いて大同団結せよと言っても、それだけではついて行けない。市民的な理想と政治を動かすための現実と、そこをどう一体的なものとして提示できるのか。そこが大事になってきます。

 そういうことをこれまであまり考えないでこれたわけです。しかし、政治を本当に変えようとすれば、分裂覚悟で真剣な議論を進めていくしかありません。

 この1年間で、せっかく意見の異なる方々と議論するという実績はつくられたわけです。それだって、全国の市区町村とか、職場とかを具体的にみれば、1年前と変わらないところも多いでしょう。

 これからは、政権構想で一致できるかは大きな意見の違いはあるだろうけれど、話し合える相手だとはみなせるようになったという実績を大切にして、人間と人間の関係を豊かなものにして、政策共闘をどこまで広げられるのかという問題意識で、日々努力すべきだと思います。その先にしか野党共闘の未来はないでしょう。