2016年10月24日

 長期間おやすみをいただき、元気になりました。さて、伊藤真さんが所長をしておられる法学館憲法研究所のホームページで、「今週の一言」という欄があります。毎月何万人もが閲覧に来るそうですが、そこに先月上梓した本について書かせていただきました。ホームページにはすでに全文が載っていますが、ここでは上下にわけて紹介します。

 「日本会議」が話題になっています。関連書籍の売れ行きも良好のようで、かくいう私も最近、『「日本会議」史観の乗り越え方』(かもがわ出版)を上梓しました。

1、その性格の暴露でなく、主張への批判が大事である

 日本会議とは何か。みずから言明しているように、「国民統合の象徴である皇室を尊び、国民同胞感を涵養する」、「我が国本来の国柄に基づく「新憲法」の制定を推進する」(ホームページより)ことなどを運動方針とした団体です。
 日本会議が主張してきた元号法や愛国心を明記した教育基本法改正などが実現されていること、現在の安倍内閣の閣僚の八割が日本会議に加盟していることなどから、日本会議が安倍政権を動かして政策を実現させているなどと言う人もいます。明治憲法下の日本を現代に再現するという真のねらいを隠して策動する極右集団、カルト集団、陰謀集団だと指摘する人もいます。
 私も、日本会議の影響力をどうおさえていくかということに、重大な関心を寄せています。一方、その影響力が、権力とのつながりや隠し事の巧みさ、陰謀などによって広がっているとは思いません。日本会議は、じつに正々堂々とみずからの主張を展開しており、その主張の内容が国民の心を捉えることによって影響力を拡大しているというのが、リアルなものの見方だと考えます。
 つまり、少なくない国民は日本会議の右翼的な主張を容認しているのであって、その右翼的な性格をいくら暴露されても彼らにとっては痛くもかゆくもないのです。それだけ時代が右に寄ってしまったことの反映でしょう。
 いま大事なのは、彼らの主張の中身を批判していくことです。しかも、彼らの主張が支持を得た理由を洗い出し、根源的な批判を展開することです。

2、影響力を拡大してきたのは歴史認識をめぐってである

 批判すべき主張のなかで、もっとも大事なものの一つが歴史認識をめぐる問題です。日本会議(前身の「日本を守る国民会議」「日本を守る会」も含め)が国民のなかで影響力を持ち始めたのは、まさに歴史認識に関する言論を通じてのことだったからです。
 日本の先の戦争を「侵略戦争」だとした93年の細川護煕首相の発言、侵略と植民地支配に対してお詫びと反省を表明した村山富市首相談話に対して、日本会議は猛烈な批判を展開し、その後も継続的に同様の主張をしてました。その基調は、「日本の戦争は自存自衛の戦いだった」「日本はアジアの解放に寄与した」「日本は朝鮮半島の人びとを大切にしたのであって、欧米の過酷な支配とは異なる」「東京裁判は勝者の裁きだ」などというものでした。
 こうした主張は、右派のなかでは戦後脈々と受け継がれてきたものですが、あの戦争を侵略だとは認めなかった歴代自民党政権のもとでは、あまり表面化することはありませんでした。細川発言、村山談話が出され、政治のレベルで自民党流の戦争認識が逆転しそうだったので、右派が存在意義をかけて闘いを開始したのです。
 言論面だけではありません。この頃から、日本会議が主導して、右翼的な主張を掲げた街頭デモも行われるようになりました。議会への請願なども組織的なものとなっていきます。戦後の日本では、「運動」と言えば左派、革新派がやるものというのがお決まりでしたが、日本会議はそこに変化をもたらしたわけです。
 その結果、日本の世論は、大きく右へと動きました。一方で社会党が消滅し、社民党も議席が減り続けていること、他方で安倍晋三氏のような歴史観を持つ人間が国政選挙で連戦連勝していることなど、左の退潮と右の伸長は明らかです。
 では日本会議の主張の何が国民の心を捉えているのでしょうか。我々は何を訴えるべきなのでしょうか。(続)

2016年10月14日

 明日から海外に行ってきます。完全に休暇をとって行くので、仕事の一環であるブログもおやすみさせてもらいます。この2年間、お正月休みもお盆休みも、ずっと本を書いていたので、そのご褒美のようなものです。電話は通じません。メールはおそらく大丈夫です。

 次に出す本は、『日米関係の謎──戦後七〇年以上経ってなぜ対米従属か』というタイトルですが、来年初頭、平凡社新書から出ることになりました。一章から五章までは書き終えています。さらに、以下のような「まえがき」と「あとがき」を追加するよう編集部から求められているので、旅行中、よくよく考えてきます。ということで、次にブログでお会いするのは、24日(月)です。では、行ってきます。

まえがき──孫崎享、矢部宏治、白井聡氏を乗り越えて

第一章 従属の現実──世界に例を見ない実態
1、裁判権があるのに裁判をしないという不思議
2、日本全土がアメリカの訓練基地なのか
3、ドイツは主権のために地位協定を改定した

第二章 従属の原点──日本とドイツの占領の違い
1、占領期にアメリカの意図が貫かれたかどうか
2、対米自主性のある人物が支配層になったか
3、独立と同盟への過程でも違いが広がる

第三章 従属の形成──旧安保条約の時代の意味
1、マッカーサーが与えた「エジプト型の独立」
2、建前としても平等を放棄した旧安保条約
3、世界史に前例のない裁判権の全面放棄

第四章 従属の展開──新安保でも深化したワケ
1、自主性の回復が新安保条約の建前だったのに
2、従属の積み重ねが従属を慣行にする
3、平和か戦争かの決定権がアメリカに

第五章 従属の深層──独自戦略の欠落が背景に
1、鳩山政権の普天間問題での挫折が意味するもの
2、日本型抑止力依存政策とその形成過程
3、対米従属から抜け出す防衛政策への道

あとがき──矛盾に満ちた共産党の安全保障政策への期待

2016年10月13日

 道徳の本、2018年の発行に向け、努力することになりました。さすがに教科書は無理ですが、学校図書館向けの本で、哲学の有名な先生に監修をお願いする予定です。

 この間、ブログでこのテーマで書いて、それをフェイスブックにアップしたら、学校の先生などから、「こんな本を使ってやっている」などのコメントがありました。たいへん勉強になっています。

 本気でつくることにしたので、監修の先生の問題意識を高めてもらうためにも、いろいろなことを知りたいと思っています。これを読んでいる方、とくに学校の先生などから、メールその他でご意見をいただけるとうれしいです。

 いまは教科書がないわけで、どんなテキストを使っているのか、ということもありますよね。関連して、なぜそのテキストにしたのかという理由。そこに、先生の問題意識がひそんでいると思うので。

 実際にどんな授業をしているかも大事かな。毎回、テーマを決めるんでしょうか。1年間を通じて、どんなテーマ設定をするんですか?

 スタイルは? 文科省は、「考え、議論する」ことを重視していて、おそらく実際の授業も、考えさせるような問題を出して、生徒に議論させるんでしょうね。マイケル・サンデルのようなやり方でしょうか。

 「考え、議論する」って、「修身の復活だ」とか「価値観の押しつけだ」という批判を考慮した対応だと思うんですが、実際にどうなのでしょう。議論した結果として、先生の考え方を押しつけるんですか? それとも、先生と生徒の考え方が異なっても、生徒の考え方が違っても、どれも尊重するという感じなのですか?

 それと関連するんですが、先生がいちばん困るのは、「評価」だと思うんです。数字で評価するのでなく文章で評価することになるとされていますが、何が評価の基準になるんでしょうか。先生の考え方と異なっても評価は高いというような場合もあるんでしょうか。

 その他、大事に思っていることなど、教えてください。1年以上準備期間があるので、ゆっくりでもいいです(早いに越したことはありませんが)。

 さて、国会では、南スーダン問題の論戦が開始されていますね。政府は、南スーダン情勢は安定しているという一本槍で、自衛隊が交戦現場に派遣されているという本質的な問題の議論を回避しているように見えます。しかし、安定しているなら警護のために駆けつける必要もないわけで、何のために新任務を与えるのか、さっぱり見えてきません。ごまかしで自衛官の命が危険にさらされるのだけは止めてほしいと思います。

2016年10月12日

 先日、突然、道徳教科書をつくりたいと書いたけれど、ホントに思いつきの突然だった。だから、まだまったく勉強していない。

 で、いろいろ調べはじめた。そうしたら、昨年の学校教育法の施行規則の改正により、2018年度以降、道徳が「特別の教科」になるらしい。不勉強で済みません。

 普通の教科は、3つの要件があるらしい。中学以上はその教科の免許を持った教員が受け持つ、国の検定を受けた教科書を使う、数値を使って評価する、という3つ。

 道徳が「特別の教科」とされるのは、普通の教科と異なり、学級担任が教え、数値でなく文章で評価するかららしい。ただし、教科書は使われる。

 ということで、道徳の教科書も、副教材その他も、待ったなしになっているんだね。このまま黙っていたら、いつの間にか偏ったものしかオモテに出てこないで、ただただ批判に終始するという可能性も考えられる。

 やっぱり、真剣に準備しなきゃ。ということで、本日、キーパーソンにお会いします。

 先日の記事で、共産党が70年代に提唱した道徳の内容のことを、不正確だけどということで紹介した。それが掲載されている『日本共産党と教育問題』がアマゾンで1円で出ていたので購入した。提唱されていたのは以下のような内容だった。

①たがいの人格と権利を尊重し、みんなのことを考える
②真実と正義を愛する心と、うそやごまかしを許さない勇気をもつ
③社会の生産をささえる勤労の重要な意義を身につけ勤労する人を尊敬する
④みんなの協力を大事にしながら、自分の責任は自分で果たす自立心を養う
⑤親、兄弟や隣人へのあたたかい愛情を育てる
⑥民主的市民(生活)に不可欠な公衆道徳を身につける
⑦男女同権と両性の正しいモラルの基礎を理解する
⑧次代をになう主権者としての自覚をたかめる
⑨侵略戦争や暴力の賛美ではなく、真に平和を愛好する
⑩他国を敵視したり、他民族を蔑視するのでなく、真の愛国心と諸民族友好の精神をつちかう

 この頃の共産党は、すぐに政権をとることを考えていて、政権の側だったらどんなことをするのかを、国民にも訴えていたんだね。いまの共産党も、国民連合政府を提唱していて、それが実現したら2018年度からの道徳教育にもかかわるわけで、近く、この10項目の現代版が出て来るかもしれない。真剣に政権を考えるならば不可欠だ。

2016年10月11日

 昨日は、神戸市北区の九条の会が主催する講演会に参加。講演される憲法学者の木村草太さんのお話はまだ聴いたことがなかったのでね。500ある椅子が満席で、やはりテレビに出ている人は強いよねと感じた次第。

 お話は、かつての九条の会だったら、おそらく拒否反応が強かったものだ。反乱が起きていたかもしれない。それが素直に受け入れられていたから、九条の会も変わったというか、闘いは人を鍛えるというか、そんな感想を持った。

 だって、冒頭から、「戦争法というネーミングは間違いだった」ということから始まる。国連憲章で戦争はしていけないことになっていて、新安保法制もその枠内にあるわけだから、これを戦争法と呼んでしまったことによって、賛成派から「反対派は国際法のことを何も分かっていない」と批判される口実を与えたということだった。

 まあこれは、国際法上の戦争ということであって、常識的には日本がするのは戦争だから、常識から見たら「戦争法」もおかしくないとも言われていた。しかし、それだったら、62年前に出来た自衛隊法も「戦争法」であって、この新安保法制だけが戦争法でないことは、反対派がよく自覚しておくべきことだと諫めておられた。

 そういう面はあるよね。1999年に成立した周辺事態法のときも「戦争法」と名前を付けて反対運動を展開したから、賛成派から見ると「何回も戦争法が出来たけど、戦争は起こりませんでしたね。何故なんですか」と問われかねない。

 安保条約についても、いろいろなトピックがあると、「新段階を迎えた」と規定することが多いけど、いったい何段階あるんだろうということになってしまう。本質規定って、大事なことだ。

 木村さんの次のお話は、自衛隊はなぜ合憲かというお話。9条だけを見ていたら、誰も自衛隊を合憲だとみなせないことは明確で、これまでの自民党政府も同じだし、安倍政権だって変わりないことを強調された。

 それならなぜ自衛隊を合憲だと言えるかということで、木村さんが強調するのが憲法13条。自民党政府も安倍政権も、合憲の根拠はここだと指摘された。

 「13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

 国民には生命等追求の権利があるのに、侵略されたらその権利が奪われることになる。国家が、国民の権利が奪われることを黙って見過ごすことはできないわけで、9条と矛盾しても、権利を守るために必要最小限度の実力組織が必要になるという論理である。

 これは、13条という明文を持ってきて説明するかどうかは別にして、一貫した日本政府の論理ではある。過去、宮沢俊義氏などの憲法学者も、生命等の権利を擁護するため、侵略された際には「臨時の戦力」を持つのは合憲だと主張してきた。

 「臨時」に戦力を持つというのは、政策として合理性がないから(侵略に抗する軍隊を短時日でつくることは不可能)、あまり真剣味を持って議論されてはこなかった。だけど、「臨時」というと侵略される直前だというニュアンスがあるのでそう受けとめられがちだけど、その臨時の期間をもっと伸ばすという考え方もあるよね。生命等の権利のために必要である間は、あらかじめ戦力を持つ(必要でなくなったら廃止する)というような。

 戦力を持たないという9条の規定は、日本が侵略をした直後の情勢のなかで、それをくり返さないために構想された。戦後70年以上が経って、日本が侵略をしないという実績をつくりだしたわけで、それが今後も継続すると日本の人もアジアの人も思えるようになるなら、そういう考え方も、もっと精力的に議論されるべきだと感じる。

 9条の論議は、自衛隊合憲論も、加憲論も、新9条論も、もっと豊かに議論されるようであってほしい。その可能性を感じさせた昨日の講演会だった。

 なお、木村さんは、以上のようなこと自体を説きに来たわけでなく、そういう考えを踏まえても、新安保法制は間違っているよねと強調するのが講演の主題であった。念のため。