2017年2月21日

 心からの謝罪がされているかについては、昨日書いたように、ドイツと日本では異なると思う。では、法的な責任を果たしたかどうかについては、どうだろうか。

 ドイツと日本では、法的責任の果たし方の方式という点では、大きな違いがある。よく指摘されているように、ドイツは、被害を受けた個々人に対して補償を行った。一方の日本は、国家同士で条約を結び(東南アジア諸国とは賠償条約であり、韓国とはいわゆる請求権協定である)、国家に対しておカネを支払った。

 現在の到達から見れば、多くの人は、被害者個人に支払う方式が優れていると思うだろう。しかし、歴史的に見ればドイツの方式は異例のものであり、日本式が普通なのだ。

 戦争をしたあと、戦った国同士は、平和条約などを結び、賠償その他を決着させてきた。奪うのは領土であったり、おカネであったり、いろいろだ。例えば1871年の普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争)のあと、ドイツはフランスとフランクフルト講和条約を結び、50億フランを支払わせることにした。

 日本はこの方式だ。サンフランシスコ講和条約で賠償問題の扱いを決め、その後、東南アジアのいくつかの国と条約を結んで決着させ、賠償を支払ったのである。韓国との間では請求権協定を結んで支払い、最終的に解決したと確認したのである。

 これが歴史的には普通のやり方なのに、なぜドイツは個人補償をしたのか。それは、ドイツが東西に分裂し条約を結ぶ主体の国家がなかったこと、補償すべき人の多くはドイツに住んでいたユダヤ人であって、国内法にもとづく支払いになったことが大きい。

 しかし、歴史上初めてのことであれ、実施してみると大きな意味があった。被害を受けた個人がそれを貴重なこととして受けとめたのである。

 実は、普仏戦争までの時代と異なり、第一次大戦はいわゆる総力戦として戦われた。男子は兵士となり、女子も工場などへ動員された。その結果として結ばれたベルサイユ条約は、ドイツに賠償を課す目的について、ドイツの侵略によって諸国民が被った被害の責任がドイツにあるからとしている。

 実際にはドイツが支払った賠償が個人に分配されることはなかった。それまでの慣習の通り、国が受け取ったのである。しかし、国民の被害を補償することが賠償の目的だとされたことの意味は大きかったと思う。

 第二次大戦後のドイツの個人補償は、結果として、国民の被害を補償するということを建前に止めず、現実のものとすることになったのである。だから、被害者をはじめとして、評価が高いわけである。

 けれども、結果から見れば、日本の水準は低くなるのだが、日本が法的な責任を果たしていないのかというと、そんなことはない。ちゃんと国際法の水準は満たしたのである。条約で決着したと明示しているわけだから、決着したのである。

 だから、日本は法的責任を果たしていないと主張し、そこを対決の軸にもってきても、それが常識的なものになることはない。では、どうするべきか。(続)

2017年2月20日

 先日、ビデオニュースドットコムに出演し、宮台真司さん、神保哲生さんと「何があっても日本はアメリカについていくしかないのか」をテーマに議論してきました。ここで見ることができます。

 現在、慰安婦問題をめぐる対立構図は、「法的責任を明確にした賠償」VS「法的責任を曖昧にした全額税支出」にあるように思える。そして、この構図が変わらないかぎり、問題は永続化するしかない。では、どうするのか。

 それを考える上で、ドイツとの比較を簡単に(おおざっぱに)試みたい。ドイツでもそれが問われ、それが解決したということなのだろうか。

 ドイツのことを考えてみると、よく日本との比較で「ドイツは優れている」とされるのは、2つの点がある。1つは、ドイツは個人に対して補償をしたけれども、日本はしていないということ。2つは、ドイツの謝罪は心がこもっているということだ。

 まず後者について言うと、それは確かだと感じる。ドイツの場合、有名なワイツゼッカーの演説しかり、ワルシャワのユダヤ人ゲットー跡で跪いたブラントしかり、相手の心に響くような象徴的な言葉と行動があった。それはそういう個人のものだけではなく、被害者に対して謝罪し続けるということは、政府の指導者に共通するものとして、現在まで受け継がれていると思う。

 一方、日本の場合、河野洋平氏などは例外的な存在だと言えるだろう。さすがに政府の指導者で慰安婦のことを「娼婦」などと表現する人は見かけないが、心からの反省と謝罪をしていると感じさせる人も、また存在しない。一昨年末の日韓政府合意のなかで、「安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」とされているのに、じゃあその言葉を慰安婦の方々の手紙にしてほしいと言われると、それは拒否された。もう言ったんだからいいだろう、1回言えば終わりなのだ、という真意が見えてしまう。

 こういう違いが生まれるのには理由がある。戦後の政治家の系譜が違うのである。

 ドイツの場合、戦後の指導者になったのは、戦前、ナチスに逆らって政治家を追われ、隠遁したり、亡命したりした人が主流だった。ナチスが犯した罪を批判する立場をとることに、何のちゅうちょも不要だったのだ。

 一方の日本では、戦前、朝鮮半島を植民地とし、侵略を主導した人たちが、アメリカに忠誠を誓うことによって政府の指導者となった。アメリカが日本を反共の砦として活用することを決めて以降は、そのしばりもなくなって、戦争犯罪者が復権してきた。だから、慰安婦問題をはじめ自分がやったことなので、反省するなど思いもしなかったのだ。その系譜の人たちが、安倍さんをはじめ、いまも政権を担っている。

 だから私は、心からの謝罪ができるかどうかが、この問題ではいちばん大事だと思っている。そこに対立構図があると考える。ところが日韓合意反対派は、そこではなく「法的責任を認める」ことだけを焦点にしているようだ。で、次に、その法的責任問題である。(続)

2017年2月17日

 慰安婦問題の解決を願う人々にとって(そんな問題は存在しないという人ではなく)、なぜ河野談話は好意的に受けとめられ、日韓政府合意は否定的に捉えられるのか。それは、同じ言葉が使われているにしても、心からの謝罪か表面的な謝罪かということが、なんとなく見えてしまうからではないかと私は思う。同じ言葉が使われているので、論理的に説明するのは簡単ではないが(この連載で説明するように努力はするが)、そういうことってあるのではないか。

 よく、法的な謝罪だけが真の謝罪だと言われることがある。挺対協などはそういう立場であって、だからソウルにある挺対協の人権博物館を見学すれば分かることだが、館内に流れるテープ音声では、河野談話についても法的な謝罪をしていないものだとして問題にしている(少なくとも私が訪れた2年程前はそうだった)。

 でも、法的な謝罪ではなくても、河野談話や現在の河野さんの立場は、慰安婦問題の解決を願う少なくない人々(全部ではないが)にとって受け入れられているのではないだろうか。それは、法的な謝罪と心からの謝罪が別物だということを(関連がないとは言わないが)、示しているのではないだろうか。

 私たちの周りの世界を見渡せば分かることだが、違法行為をしたとして罪に服することは、謝罪とは何の関係もない。例えば誰かを傷つけたとして、その容疑者が裁判で有罪となり、何年間か服役したとする。その人は、被害者に対して謝罪をせずとも、娑婆に出てきた時点で、法的な責任は果たし終えたのである。それ以上のものは求められない。
 もちろん、傷つけた人に対して謝罪することは、刑期の長さに影響することはあるだろう。しかし、謝罪しなくても、つとめを終えれば法的責任はそこで終わりなのである。謝罪しないから再び収監されることはあり得ない。やはり謝罪するかどうかは、法的責任とは無縁なのである。

 それなのに、この世界では、法的責任を認めるかどうかが、謝罪しているかどうかのメルクマールとされる。言葉のなかに「法的責任」というものが入っていないと、どんなに心を込めても「謝罪していない」ということになる。

 なぜそんなことになるのか、私にはよく分からない。推測として言えるのは、慰安婦問題が浮上したとき、政治の責任で解決する動きがなかったので、当事者たちが裁判所に訴えたことがきっかけだとは思う。裁判で勝とうとすれば、何らかの法律に日本政府が違反したと証明しなければならないので、そういう角度で物事を考え、判断することが唯一の基準になっていったのだろう。

 ここを整理しきれないと、この問題は膠着したままで推移する。その結果、高齢の慰安婦の方々が解決を目にすることのないまま、心が穏やかでないまま亡くなっていくことになる。土日のお休みを挟んで来週再開するブログでは、そこの整理を試みたい。(続)

2017年2月16日

 河野談話と日韓政府合意とを比べ、後者が優れていることは、事実によって明らかだ。その事実とは何かというと、慰安婦の方々に渡されるおカネの性格が、それぞれで決定的に違うことである。

 よく知られているように、河野談話にもとづいて設立されたアジア女性基金は民間基金と称され、慰安婦の方々に拠出したお金も民間の募金とされた。基金の運営資金として税金が投入され、それなりの額に達したようだが、慰安婦の方々に税金は渡されなかった。

 一方、今回、韓国に設立された基金から慰安婦の方々に渡されるお金は、全額が日本の税金である。民間資金は1円も投入されない。誰が見てもアジア女性基金との違いはあきらかだろう。

 アジア女性基金がなぜ民間基金と言われたかというと、政府間の法的な問題は、65年の日韓条約と請求権協定で決着済みだとみなされたからである。税金を投入して対処すべきような新たな法的問題は存在しないと考えられたのである。

 河野談話も、日本政府に法的な責任があるとは認めていない。「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」「心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」。

 「強制」という言葉、あるいはその意味内容の言葉がいくつか使われてはいる。例えば「本人たちの意思に反して集められた事例」などである。しかしそれも、「業者が主としてこれに当たった」として、日本軍が強制したという構造ではない。日本軍がやれば政府の法的責任が生じることになろだろうし、法的責任がなくても何らかの責任が生じることは明らかだが、やはり法的責任はないというのが河野談話なのである。

 一昨年末の日韓合意はどうか。「慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している」「安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」

 基本的に河野談話と同じ水準であることが分かるだろう。「責任」という言葉は使っている分、河野談話より「上」と言ってもいいほどだ。その上に、全額税金で慰安婦におカネを渡すというわけだから、事実上、国家による個人保障と言ってもいいほどだ。法的形式にこだわる日本政府はそう認めないので「賠償」という言葉は使わないし、だから日韓合意否定派の餌食になるわけだが、河野談話にもとづくアジア女性基金よりも水準が高いのだ。 

 それなのになぜ、河野談話は好意的に受けとめられていて、それを超える水準を達成した安倍さんは嫌われるのか。そのねじれの中に、この問題を解くカギがあると感じる。(続)

2017年2月15日

 昨日はブログを休んでしまいました。留学から帰国した娘が、3月からの就活を前に集中的に遊んでいて、奈良の飛鳥にも行きたいということでやってきたのですが、こちらには友だちがいなくて寂しいということで、丸1日、付き合わされていたのです。昨秋のプラハ1日3万歩に続く2万6千歩を記録しました。

 さて、アメリカとか北朝鮮とか、いま論じるべき問題はとっても多い。そのなかで、ますます解決から遠ざかるように見える慰安婦問題について、どうしても書いておきたい。先日、福井の2.11で講演してきたのだが、その準備過程で、ずいぶんと考えることがあった。現在の日本でこの問題を論じると、左からも右からもバッシングされる可能性があるが(というか無視かな)、大事なことは避けてはならないと思う。

 韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相が13日、国会において、大使館前に慰安婦像を設置するのは国際的にあり得ないことだと発言した。また、一昨年末の日韓合意にもとづいてつくられた「和解・癒やし財団」の支援事業を受け入れた34人のうち5人は、合意に反対する関連団体(ナヌムの家などということだ)に所属していることも明かしたそうだ。この5人に政府が合意を強制したことはなく、本人が自発的に財団を訪れ、合意を評価したということである。

 現在の韓国の世論状況からして、勇気ある発言だと思う。日本政府はこういう前向きの発言をとらえて、大使の一時帰国を解除すべきだったと思うのだが、何の反応もしないとは、政治的な鈍感さが極まっていると感じる。

 この発言、とくに前者について、韓国国内からは「親日派」だとしてバッシングの対象になっているという。まあ、現状では、そうだろうね。

 後者に関わって、慰安婦の34人が合意を受け入れているということを、私はとても大事だと思う。生存する慰安婦の7割以上になるのだから、多数の意思なのだ。

 ところがこれまで、韓国や日本の日韓合意反対派は、慰安婦が高齢化して自分の意思をちゃんと表明できる状態ではないとして、7割以上という数には何の意味もないと批判してきた。今回、ナヌムの家などに住む5人が財団を訪問して、自分の意思でお金を受け取ったことについて、今度はどんな評価がされるのだろうか。批判が慰安婦に向かわないことを願うばかりだ。

 ということで、この問題の解決は難しい。難しくしている原因はいろいろあるが、これを解決するという視点で考えてみて、こういう手法でアプローチしてみたらどうかと思う。

 それは、河野談話よりも一昨年末の日韓政府合意のほうがずっと優れているという視点をもつことだ。日本であの慰安婦合意に賛成できない人の多くは、河野談話のほうがずっと優れていると思い込んでいるのではないか。それは間違いである。(続)