2017年4月14日

 まだ東京。明日と明後日は「日本会議」について講演。

 明後日の夜、京都に戻るけれど、19日(水)の昼間も講演だ。こちらのテーマは「安倍政権に替わる安全保障政策を考える」。京都高齢者大学の時事問題講座の一環である。

 北朝鮮問題で盛り上がっているので、格好のテーマになりそう。左翼界隈では「外交しかない」と主張されているが、防衛と外交をどう組み合わせるのか、その「最適解」を探るような話にしたいと思っている。

 そのうち、北朝鮮問題にしぼった話は、来週水曜日以降、ここでも書くようにしたい。2日前、またもや産経新聞デジタルから依頼があって、来週火曜日が締め切りだったけど、もう書き上げた。それをアップすることになるだろう。

 この問題、クリントン政権初期の軍事対応一辺倒が破綻し、94年の枠組み合意で外交努力に転換したが、それも破綻した。外交で大丈夫だというなら、このときになぜ失敗して、どういう教訓が導きだされて、いまの局面でどう生かすのかという話ができないと、説得力がない。今回、そこまでの勉強はしていないが、家に帰ったらこの問題を総括した分厚い本がいくつもあるので、読み返さないとダメだ。しかしいずれにせよ、外交だけでなんとかなるというものではないように思う。

 その後、ブッシュ政権下でイラク戦争がやられ、小泉首相は「北朝鮮から攻撃されればアメリカに頼るしかないのだから」という理由をのべて戦争を支持し、その後、自衛隊を派遣することになった。しかし、北朝鮮はこの教訓から、本気で核・ミサイルを開発しないとアメリカにやられてしまうと信じるようになり、今日に至っている。

 さらにその後が、オバマさんの「戦略的忍耐」である。軍事対応もしないが。開発を止めないかぎり、外交の相手ともみなさないということだった。

 要するに、どんな対応をしても、誰も成功していないということである。敵基地を先制攻撃でやっつけるのだという議論も、外交でなんとかするのだという議論も、事実に照らして説得力がないわけだ。まあ、私のような素人が何を言っても、同じように説得力はないわけだが、素人なりの考え方は提示するようにしたい。

 ちょっと前、「北朝鮮ミサイル対応は究極の防衛レッスン」という連載を書いたけど、このテーマがこれほどの切実性を持つようになるとは、さすがに予想を超えるものだった。真剣な討議が必要だと思う。

2017年4月13日

 本日は朝から夕方まで会議なので、早めにアップ。NHKのカメラがずっと入る会議で、放映はずっと先なんだけど、私も映るのかな?

 9月28日から10月1日までの沖縄ウィーク。といっても、私が勝手に設定したものだけど、昨日、その具体化を進めた。沖縄選出の国会議員とお会いしたり、旅行社と相談したり。

 まず、羽田と伊丹から出発するツアーの名称。「米軍基地問題解決のキーマンと出会う旅」ってどうでしょ。実際、鳩山由紀夫さん、柳澤協二さん、伊波洋一さん、伊勢崎賢治さん、加藤朗さんなどとお会いし、交流するのだから。

 その鳩山さんと柳澤さんの対談本は順調に進んでいる。中身も進んでいるが、表紙の案もできた。これって、どうでしょ。

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 帯の文書は読んでいただければ分かるが、そこで書いている7年前、出会ったことのない2人は、こんなことを言っていたわけだ。

鳩山由紀夫「私は、海兵隊が必ずしも抑止力として沖縄に存在しなければならない理由はないと思っていたが、学べば学ぶほど、沖縄に存在する米軍全体の中で海兵隊は抑止力を維持できるという思いに至った。甘かったと言われればその通りかもしれない」(二〇一〇年五月四日、沖縄訪問時の表明)
柳澤協二「抑止力とは、攻撃を拒否し報復する能力と意思を相手に認識させることによって、攻撃を思いとどまらせることだ。相手が当方の意思を疑わなければ、個別の部隊配置は二次的問題である。「沖縄かグアムか」という問いに軍事的正解は存在しない」(二〇一〇年一月二八日、朝日新聞「私の視点」)

 このお2人が、7年の時を経て、初めて相まみえ、この本のタイトルにあることを根底から議論したわけだ。普天間基地問題で政治の流れを変える上で、一つのきっかけとなってほしい。

 9月29日昼間に、辺野古で鳩山さんと交流し、夜は鳩山さんと柳澤さんの対談に参加するという趣向。どうでしょ。

 その翌日、自衛隊を活かす会のシンポ「沖縄に海兵隊は必要か」。会場は沖縄青年会館に決まり。最大で300人入るところだけど、どうしたら埋められるかは、これから考えなくては。6月末に沖縄に行く予定。

 その夜、伊勢崎賢治さんのジャズ・セッション。それまでに地位協定に関する本を出してくれるはずだから、テーマはそれかな。

 それと、この沖縄ウィークのプレ企画として、翁長知事と鳩山さんの講演と対談を京都でやりたいということで、昨日、沖縄選出の国会議員にご相談したところ、「それは大事ですね」ということで仲介していただくことになった。本土の世論を高めることが、基地問題解決のためには決定的だからね。がんばらなくちゃ。

2017年4月12日

 本日から東京。日曜まで。長いな。

 護憲派や左翼界隈では、突然有名になった「日本会議」の評判が悪い。でも、これだけ騒がれているのに、講演会などに行くと、これを「にほんかいぎ」と呼ぶ人が多い。由緒正しい「にっぽんかいぎ」なので、間違わないように。前身となった「日本を守る会」や「日本を守る国民会議」のときは「にほん」だったんだけどね。

 まあ、それはどうでもいい。昨年9月、『「日本会議」史観の乗り越え方』を出したとき、身内だけで盛り上がっていてはダメだと思い、「日本会議」で運営委員(籠池さんと違って全国規模での)をやっている有名な方にも贈呈した。そうしたら、しばらくしてお手紙が来て、本の評価をいろんな点でしていただいた。

 印象的なのは、「松竹さんと私では、おそらく7割ぐらいは意見が一致する。だけど、残りの3割では決定的に対立する」と書かれていたことだった。私も同じように思う。

 例えば、その方が書いていたのは、朝鮮半島を植民地支配したことの評価である。私は、ごく単純にいうと、当時の世界では、列強が植民地を持つことは国際法上認められていて(いまは違法だが)、日本が植民地を持つことも合法だと考えられていたと思っている。しかし、欧米が遠く離れたアジア・アフリカの地を植民地支配したのと異なり、日本の場合、何千年も隣人であった国を支配したという点で決定的に異なるのであって、合法だから許されるというものではないという立場である。

 その方が言うには、松竹さんの立場は、純正右翼にも共有できるものだということだった。はあ、そうですか。

 一方、「日本会議」といっても人によって歴史観はさまざまで、「許されるものではない」という点で、意見を異なる右派も存在する。「日本はいいことをした」とか言う連中だ。

 つまり、植民地支配は違法だったか合法だったかを基準点として、そこに左右の違いを置くと、右と左は決定的に対立することになる。そして、純粋な市民運動は違法だったという認識を多数にしようとがんばっているが、国際政治においてそれは多数ではないので、右の方が世論的にも多数を占めることになる。

 けれども、左の方が違法化合法かを対立軸にせずに、「日本はいいことをした」という連中を相手にすれば、相手が少数になる。昨日の記事と同じだが、対立軸の置き方次第で、多数になったり少数になったりするということだ。

 理想を追い求める市民の論理と、その時点での国民の多数がついていける政治の論理と、その二つがうまく結合すると、左も多数になれると思う。市民の論理と政治の論理の区別と関連をうまくつかめていないので、なかなか少数派から抜け出すことができないのだけれど。

 その「日本会議」運営委員の方の手紙には、同会議が歴史のシンポジウムをするようなことがあったら、松竹さんをお呼びして議論したいと書かれてあった。楽しみだな(ホントはコワいけど)。

2017年4月11日

 今週末、「日本会議」について2回の講演をすることはお伝えした。そのうちの一つは、「日本における保守化・右傾化の構造」を研究している学者のグループである。

 ということで、本日から、そこでお話しする中身をつらつらと考えなければならなくなった。まあ、いまさら新しい文献にあたっても消化しきれず、中途半端なものになるので、いまの自分の到達点をどう整理し、何を主張するのかということになるだろう。

 ところで、その問題をお話ししようとすると、日本は「右傾化」しているのかという、その前提をどう見るかという問題を避けて通れない。日本に限らず世界的な右傾化が見られるというのが、いまの大方の見方だと思うが、それはどうなんだろうか。

 一昨年、『慰安婦問題をこれで終わらせる。』(小学館)という本を出したあと、小林よしのりさんと「週刊東洋経済」で対談させていただいた。当時、私は本気で慰安婦問題での何らかの日韓合意が必要だと考えていたのだが、そのためには日本の右派も左派も大枠で受け入れられるものにしないと、何をつくっても世論の気持ちが終わらないので、問題も終わらないと考えていた。

 そこで、NHKの知っている人に持ちかけたのだ。小林よしのりさんと私が韓国に行き、慰安婦の方々を訪ね歩き、心を通わせあうような企画は成立しないのだろうかという相談だった。当時は年末に日韓政府合意が達成されるなど誰も想像していない段階だった。それがテレビで流れたら、右も左もこの問題の解決を願っていることが世に知られ、政治を動かす効果があるのではないかと期待したのである。

 ところが、そのNHKの方は、「自分は面白いと思うが、その企画は現在のNHKでは通らない」というものだった。びっくりしたのは、その理由である。「いまの小林よしのりさんはNHKにとっては左の人になっている。左と左が一緒に旅するというのでは問題外だ」ということだったのである。

 なるほどなと思った。いまのNHKにとって、安倍政権を批判する人は、それだけで左なのだ。

 だから、その話は日の目を見ずに終わったのだけれど、右傾化という問題を考える上で、一つの材料にはなる。NHKもそこまで右によったかという視点で見ると、右傾化がメディアを覆い尽くしているという話になる。他方、小林よしのりさんも左だということになると、右と思われていた人の相当部分は実は左だということになる。

 要するに、見方の問題という要素があるわけだ。そこをどう捉えるか、よく考えてお話ししなければならないよね。

2017年4月10日

 先週は国内外で衝撃的なできごとが相次いだけど、あまりに忙しくて論評できなかった。国際的には、いうまでもなくトランプさんのシリア空爆である。ツイートの発信ボタンを押すような軽さで、空爆の命令を下したように見える。ホントにこの人に核のボタンを任せるんですかと、震え上がるような気がした。

 国内的には教育勅語かな。憲法と教育基本法に反しない範囲なら学校で教材として教えてもいいという政府答弁書だ。

 これって、集団的自衛権の行使を容認した閣議決定と同じく、何十年も続いてきた憲法の解釈を、一内閣の閣議で変えるものである。集団的自衛権のほうは、安保法制懇の設置など、それなりの手続きと議論があったが、そんなものさえ皆無だという点で、異常である。

 教育勅語のどこが間違いだとか、ここでは書かない。私の立場は明白であって、それを書いても、誰も読む気にならないだろう。私として気になるのは、この問題を今後、どう国会で追及していくのか、その論理である。

 閣議決定までしたわけだから、それを覆すことは容易ではない。どう追及しても、政府は、「憲法と教育基本法に反しない範囲なら問題ない」と繰り返すだけだろう。そして、その繰り返しの中で、憲法と教育基本法に反しない中身があるという論理が教育現場を縛っていくことになる。「なぜ、夫婦が仲良くすることが憲法違反なのか」という雰囲気が醸成されていく危険もある。

 私としては、「教育勅語は憲法違反だという考え方もある」と質問してほしいと思う。「反しない範囲がある」という答弁は崩せなくても、「反するという考え方はある」ことを認めさせてほしい。そのことによって、そうやって教育する自由を拡大するようにしてほしい。

 だって、これまでは、「反する」というものだったわけだ。有名な「教育勅語等排除に関する決議」(1948年6月19日)の衆議院決議は、これを憲法98条(「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」)にしたがって排除したわけだ。そしてその決議の際、文部大臣も、「新憲法の精神に合致しがたいものであることは明らかであります」と所見を述べたわけだ。

 それが当時の国会と政府の考えだったこと、それ以降、その解釈を変えるような閣議決定は(今回まで)なかったこと、だから教育現場では「反する」ということになってきたこと、学校の先生はそうずっと考え、教えてきたこと等々を、一つひとつ確認してほしい。

 その上で、政府の現在の立場からすると「反する」とまでは認められないわけだが、「反するという考え方はある」ことの正当性までは立証してほしい。死守すべきラインというか、対決軸をとりあえずそこに置くと言うことだ。

 だって、69年間、そうやって教育してきたものを、閣議決定一つで教員の考え方は変えられないでしょ。指導要領で「反しない範囲がある」から教えていいと改定されたわけでもないので、教員にはこの閣議決定に従う義務もないと思うし(ここを突っ込んでいくのは危険かもしれない)。

 こうして、「反するという考え方」を教員が教える自由が確保できれば、その先も見えてくるかもしれない。どうでしょ。