2017年10月17日

 中盤を過ぎても自民党が圧勝する勢いですね。ただ、自民と希望が拮抗するような予想が出ていたら、よけいに絶望していたと思うので、立憲民主党の勢いで野党票が分散する現状のほうが希望を感じます。

 ということで、いずれにせよ、改憲の国民投票が現実味を帯びてきます。私としては、この日が来るのを待ち望んでいたので、それ自体は歓迎します。日本に新しい政治が生まれるとすると、この機会以外にはないでしょう。

 ただ、この国民投票が日本の政治に意味を持つとしたら、そこで安全保障のことが活発に議論される場合だけだと思います。方や「愛する自衛隊を憲法に書き込もう」という改憲派と、方や「自衛隊のことは絶対に書き込ませない」という護憲派とが、どうやったら日本と世界の平和と安全を向上させることができるのかを提示し、議論される場合だけです。

 自衛隊を明記すれば安全が向上するなら、それほどお安いことはありません。でも、安全保障というのはそういうものではないでしょう。

 自衛隊が明記されなければ日本の安全は保てるというのも壮大な虚構でしょう。このまま安倍政権が続いても日本は安全だということですから。

 護憲派の覚悟が問われるのが、国民投票だと思います。どんな覚悟かといえば、軍事力というものをどこまで認め、どこまで制御するのか、それに護憲派としてどう関わるのかという覚悟です。

 軍事に価値を認めないのが憲法だということで、自衛隊に正面から向き合ってこなかったのが護憲派です。しかし、共産党まで有事には自衛隊に働いてもらうというまでになっているもとで、軍事に価値を認めないなんてあり得ないでしょう。

 有事に自衛隊はどう動かせばいいのか、どういう場合に武器を使用するのか、規則に反して民間人を殺傷した場合、どんな罪に問うのか、それは通常の裁判所でいいのか。その他その他、考えなければいけないことは山積みです。

 もちろん、そういう事態にならないよう、外交に全力をつくすのが護憲派です。でも、万が一のことを考えないでいい、考えるのは改憲派だけというなら、国民投票で支持を得ることはできないでしょう。

 ということで、本日もいまから、高齢者の護憲派を前に、軍事力の大切さを語ってきます。いつものことですけど。

2017年10月16日

 10日ほど前、産経新聞デジタルiRONNNAから依頼され、このタイトルで記事を書きました。載らないなあと思っていたら、昨週末、「安倍政権にあって「小池劇場」に足りなかったモノ」というタイトルで掲載されました。読みやすいほうを、どうぞ。

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 安倍首相による解散は唐突だったが、その後の小池劇場が生み出した野党状況は日替わりで、大方の予想を超える激動的なものだった。ただ、現時点で冷静に振り返ってみると、野党側の混乱の背景には、安倍政権への対決軸をどう構築するかについて準備が成熟していなかったことがあるように思う。とりわけ安全保障にかんする対決軸の未成熟である。その点を考察してみたい。

(1)

 小池氏が民進党出身で公認を求める人々に対して、憲法改正と新安保法制への賛成が条件であり、それが飲めない人は排除すると明言したことは、今回の一連の出来事の核心をなす問題だと感じる。希望の党の動きがなければ、今回の選挙は、新安保法制をふまえて北朝鮮情勢などに対処するという政権側と、新安保法制を廃止する枠内で対処するという野党側が、正面から対決する構図になる可能性があった。小池発言は、結果だけから見れば、民進党の新安保法制「反対」の弱さを露呈させ、想定されていた対決構図が浮上するのを押しとどめるという役割を担うことになったのである。

 ただこれは、小池氏にグチを言っても仕方のないことである。野党側の問題もあるからだ。

 何が最大の問題だったかというと、新安保法制に反対するにしても、ではどんな安全保障政策で一致して対処するのかという努力が不足していたことであった。野党間の政策協議で一致していたのは新安保法制に反対ということだけであり、防衛政策をどうするのかということへの言及は見られない。「反対」はあったが、建設的な防衛政策はなかったということである。

 野党共闘を市民の側から主導したのは、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」(市民連合)である。その市民連合は9月26日、野党4党に対し、次期衆院選での野党のたたかい方と政策に関する要望書を提出した。そこにも9条改正への「反対」や新安保法制などの「白紙撤回」はあったが、防衛政策での要望と呼べるようなものは見られない。

 目の前で進行しているのは、まさに北朝鮮による核・ミサイル開発の進展である。有権者が関心を持っているのはそこなのに、この問題が政策協議で議題になったとも聞かないし、市民運動も言及しない。国民意識と野党共闘の間には深い溝があったのだ。

 この間、北朝鮮の「完全な破壊」を叫ぶトランプ政権のもとで、安倍政権がそれに追随し、新安保法制にもとづいて米艦防護などを実施していることは、いざという時に日本も巻き込まれる危険を示すものであって、この法制の「廃止」には安全保障上の意味がある。しかし、法律を廃止したからといって、北朝鮮の核・ミサイルに対処できる体制ができるわけではない。自民党の一部にあるような敵基地攻撃論には与しないにせよ、ミサイル防衛システムを整備・改良するという程度の政策も打ち出せないのが、野党共闘であった。

 野党共闘に期待する人々もいたと思う。同時に、目の前の事態に不安を感じる国民多数にとって、野党は弱々しく映ったに違いない。このままでは当選できないと感じた民進党議員のなかから、自分のこれまでの言明に反することがあっても希望の党に移りたいという動きが生まれたのには、そういう背景もあろう。

(2)

 しかし、野党にその気があれば、安全保障問題でも政策協議をできるはずであった。この間の野党共闘は、共産党が日米安保条約の廃棄と自衛隊の解消という独自の立場を持ち込まないと明確にしたことで、ようやく成り立っていたものだ。しかも共産党は、ただ持ち込まないというだけでなく、新安保法制以前の条約や法律で安保や自衛隊を運用するのだとまで明確にしていた。

 「志位 私たちは、日米安保条約を廃棄するという大方針、それから自衛隊は、日米安保条約を廃棄した新しい日本が平和外交をやるなかで、国民合意で一歩一歩、解消に向かっての前進をはかろうという大方針は堅持していきたいと思っています。ただ、その方針を「国民連合政府」に求めるということはしない。これをしたら他の党と一致にならない。そういう点では方針を「凍結」する。
 ですから、「国民連合政府」の対応としては、安保条約にかかわる問題は「凍結」する。すなわち戦争法の廃止は前提にして、これまでの(戦争法成立前の)条約と法律の枠内で対応する。現状からの改悪はやらない。「廃棄」に向かっての措置もとらない。現状維持ということですね。これできちんと対応する。」(「赤旗」2015年11月8日。テレビ東京系番組「週刊ニュース新書」での田勢康弘氏とのやり取り)

 「戦争法廃止以前の条約と法律」と言えば、安倍政権以前の自民党政権時代の条約と法律ということである。そこには条約で言えば、日米地位協定もあるだろうし、思いやり予算の特別協定も含まれるということだ。法律と言えば、自衛隊法はもちろん、日本防衛とは距離のある周辺事態法も含まれるということだ。これらはすべて、共産党が野党として反対してきたものだ。それでも新安保法制を廃止するために、ここまで踏み切ったのである。この考え方で行けば、すでに配置されているミサイル防衛システムの発動や改良にだって、「賛成」と言えたはずだ。

 ところが、その共産党も、外部のメディアに尋ねられればここまで踏み込むのに、日々の「しんぶん赤旗」の記事では、自衛隊について肯定的な報道をすることが一切ない。ミサイル防衛システムを改善することにつながるイージス・アショアにも猛反対の記事ばかりが掲載される。つまり、総論では現状の枠内なら賛成と言いつつ、各論になると賛成できるものを提示できなかったのである。

 そういう現状では、共産党から他の野党に防衛問題を提起することができなかったのは仕方がない。国民が信頼できる防衛政策を野党共闘が打ち出せなかった理由の一つはここにある。

(3)

 一方の民進党。もともと、共産党と共闘することへの躊躇(ちゅうちょ)があることは理解できる。けれども、民進党が総崩れになったことの本質は別のところにあったのではないか。最初に離党した長島昭久氏は、離党の理由を次のように述べたが、そこから見えてくるものがある。

 「野党共闘そのものを否定しているわけでもありません。まず民進党がしっかりと政策の柱を立てる。その政策に共産党が賛同していただけたとする。そうなれば、「ともに闘う」という形も納得できます」

 「(しかし)野党共闘路線に引きずられる党の現状に非常に強い「危機感」を持っていました。つまり、共産党が主導する中で、野党がいわば「左に全員集合」する形になりつつある」

 これまで私が書いてきたことを理解していただける方は、この長島氏の言明に違和感を覚えてもらえるのではないだろうか。共産党は、左か右かを分ける分水嶺である安全保障問題で、魅力ある政策を自分から打ち出せていないとはいえ、野党共闘に自分の独自の立場を持ち込まなかったのである。安全保障にかんしては、新安保法制に反対するということを除き、民進党は自由にできる立場にあったのである。だから、長島氏が言っているように、「まず民進党がしっかりと政策の柱を立てる。その政策に共産党が賛同していただけた」ということが可能だったのである。

 それなのに、長島氏は、安全保障で「しっかりと政策の柱を立てる」努力をしてこなかった。共産党に賛同を求めるには、まず自分たちの政策の柱が必要だといいながら、実際には何もしてこなかった。その結果、野党共闘は、安全保障政策にかんしては何一つ提示できなかったのである。少なくともこの分野では、「左に全員集合」の政策など影も形も存在していない。

 民進党のなかで安全保障政策の第一人者である長島氏が提示できないわけだから、他の民進党議員も提示できるはずもない。というより、長島氏も含め民進党の議員たちは、そもそも安全保障で安倍政権に替わる「政策の柱」が必要だとも思っていなかったのではないか。

 民進党のなかにも、安倍政権に対抗するだけのリベラルな防衛政策の必要性を自覚している人が個々にはいる。民主党時代に政権奪取に成功した理由の一つも、「対等平等の日米関係」とか「普天間基地は最低でも国外」だとして、自民党と異なる選択肢を示せたことにある。しかし、鳩山政権が「抑止力のことを考えれば考えるほど」と述べて普天間基地の辺野古移設に回帰して以来、防衛問題で自民党との対抗軸を打ち出す気風はなくたり、現在も全体として問題意識は希薄である。枝野氏も含め、安全保障政策は自民党とあまり変わらないでいいという人が多数だったのである。

(4)

 結局、問題の根源はここにある。新安保法制への賛否というのは、あくまで安全保障政策全体のなかの一部である。民進党のなかでその一部を大事に思う人が多かったから、これまで「廃止」で結束してきた。野党共闘も成り立ってきた。

 しかし、そうはいっても、新安保法制は安全保障政策全体の一部にすぎないのである。その安全保障政策が自民党と一緒でいいというままでは、民進党あるいは野党共闘は、自民党の対抗軸になり得なかったということだ。

 いや、希望の党は、憲法でも安全保障でも自民党と一緒だが、それでも対抗軸になりたいと表明している。そういう道も不可能ではないのかもしれない。それに意味があるかどうかは別にして。

 しかし、どの野党であれ自民党に替わる政権を真剣にめざすなら、安全保障問題でも対抗軸となるものを打ち出すことが求められるだろう。それがないと、今回のように、あっさりと自民党と変わらない政党の軍門に下ることになるということだ。

 日本では、安全保障政策と言えば、これまでは政権側のものしか存在してこなかった。というより、アメリカの抑止力に頼るというのが、日本の安全保障政策のすべてであり、そういう意味では、政策を考えるのはアメリカで、政権も含め自分の頭で政策を考える人々は日本側には存在してこなかった。一方、政権と対峙すべき護憲派は、防衛政策を持たないことを誇りにしてきた。

 冷戦時代はそれでも良かったかもしれない。ソ連の影響下に入らないようにする点で、アメリカと日本の国益は一致していたからだ。しかし現在、そこに変化がある。

 中国との関係をめぐって、日本は尖閣諸島をめぐって主権が侵されることを心配しているが、アメリカが関心を持つのはこの地域における自国の覇権、自国主導の秩序を侵されないようにすることである。北朝鮮の核・ミサイルをめぐっても、米本土に到達するということになれば、米国民が犠牲になっても核の傘を日本に提供するのかという問題が起きる。

 つまり現在、アメリカと日本の国益には、微妙なズレがあるのだ。その時に、ただアメリカの核抑止力に頼るという安全保障政策でいいのか、無思考のままでいいのかが問われている。

 野党が政権に接近しようとすれば、安保と自衛隊の維持を前提にして、しかし自民党政権とは違って抑止力を疑い、安全保障とは何か、日本の国益はどこにあるのかということをトコトン突き詰め、安保と自衛隊をどう使いこなすのかということを提示する必要がある。それができない野党は、結局、他党に飲み込まれていくか、小さいままでいるだけだ。小池氏の今回の行動は、そのことを野党に自覚させた点で、大いに意味があったのだと感じる。

2017年10月13日

 やはり無理はできませんね。風邪の身体で無理して福島、東京と出張しましたが、さすがに昨日は戻ってくるのが精一杯で寝込んでいました。本日も出勤しましたが、早めに帰宅することにします。

 米軍ヘリが高江の集落に墜ちた事故。本当に怒りが湧いてきます。昨年、池田香代子さんと一緒に車で通り、足を降ろしたあの場所なんですよね。

 小野寺防衛大臣と面会した在日米軍副司令官は、「「着陸自体はコントロールして行われた」と安全性を強調した」(朝日新聞17.10.13)ということです。しかし、だったら、なおのこと問題でしょう。

 高江の集落を取り囲むように米軍基地があり、ヘリパッドがつくられたわけです。墜落したヘリは、コントロールできる状態だったのに、すぐ目の前のヘリパッドまで機体を持っていかずに、民有地に不時着したというわけです。

 つまり、自分たちの大事なヘリパッドを炎上させてはならないということで、民有地を炎上させることを選んだということでしょう。自覚的にそれを選んだということです。

 こんな日米関係をいつまで続けるのか。総選挙の大事な論点として浮上してほしいと思います。

2017年10月11日

 昨日の続きです。この第一審判決は、3800人からなる原告の訴えにできるだけ寄り添おうとした判決だと言えると思います。手元にある判決要旨を見ながら考えたことを少し。

 原状回復(0.04μSv/h以下にする)義務は認められませんでしたが、弁護団の馬奈木事務局長が紹介したように、判決のなかでは「(その願いは)心情的には理解できる」とされているそうです。認められなかったのは、「被告らに求める作為の内容が特定されていないから、民事訴訟として不適法」(要旨)ということでした。実際、原状回復のために何が必要なのか、科学的に解明されていません。逆に、原発事故というのは、それが発生すると元に戻せない被害をもたらすことを意味しているのだと思います。

 この判決が原告に寄り添っていると思うのは、次のような箇所があるからです(要旨)。

 「人は、その選択した生活の本拠において平穏な生活を営む権利を有し、……社会通念上受忍すべき限度を超えた放射性物質による居住地の汚染によってその平穏な生活を妨げられない利益を有しているというべきである。
 ここで故なく妨げられない平穏な生活には、生活の本拠において生まれ、育ち、職業を選択して生業(なりわい)を営み、家族、生活環境、地域コミュニティとの関わりにおいて人格を形成し、幸福を追求してゆくという、人の全人格的な生活が広く含まれる。」

 そうなんです。原告団が掲げている「生業」という言葉も引用し、原告の権利を認めているんですね。そして、原告が権利主張できるのは、たんに空間線量の高低だけではないことも示唆しています。そのことによるストレスなどもあるわけですから、その点も考慮しているのかもしれません。

 「放射性物質による居住地の汚染が社会通念上受忍すべき限度を超えた平穏生活権侵害となるか否かは,侵害行為の態様、侵害の程度、被侵害歴の性質と内容、被害行為の持つ公共性ないし公益上の必要性の内容と程度等を比較検討するほか、侵害行為の開始トその後の継続の経過及び状況、その間に採られた被害の防止に関する措置の生む及びその内容、効果等の初犯の事情を総合的に考慮して判断すべきである。」

 非常に重要なのは、避難を強制された区域だけではなく、福島市や郡山市などに居住している人の権利も認められたことでしょう(会津は認められなかった。逆に茨城県の一部は認められた)。福島県の150万人に権利があるということです。2900人に権利があると認め、その総額が約5億円ですから、150万人が次の提訴に加わると、500倍になって2500億円ということでしょうか。

 さらに大事なことは、福島にとどまった人にも避難した人にも、同等の権利があるとしたことです。昨日の報告集会にも、日本に各地から避難者訴訟の当事者が応援にかけつけてきました。とどまった人と避難した人の分断が指摘されていますが、生業訴訟はその分断を克服する役割を果たしているのだと思います。

 それに、この生業訴訟、受け取った賠償金をプールして、賠償金をもらえなかった人にも平等に分配するそうです。そもそも、福島のどこに住んでいるか、いたかに関わらず、一律で月5万円の賠償を請求しているわけで、被った精神的苦痛は平等だという思想に立脚しているところもすごいと思います。

 判決要旨に目を通しながら、さらに頑張りたいなと思いました。明日まで東京です。

2017年10月10日

 本日は総選挙告示日ですが、私にとっては生業訴訟の地裁判決が下る日です。昨夜から風邪を引いたのですが、朝から東京へ、福島へ。傍聴席にたどり着きました。

 そして、勝ちました。国はこれだけの津波が来て、事故が起きることを予見できたというものです。だから事故を回避することもできたということです。国と東電の責任を明確に認めました。賠償についてもです。原状回復義務までは認めなかったことは残念ですが、いずれにせよ勝訴です。写真は直後の裁判所前集会で報告する馬奈木弁護団事務局長です。

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 この数年、生業訴訟と一体になって進んできて、本当にうれしい日でした。福島での判決ですから、これが今後の各地の裁判に与える影響も大きいと思います。

 国と東電はすぐに告訴してくるでしょう。だから、今後の闘いにかかっています。仙台高裁ですね。次は出版社として何をしていくのか、考え抜かないとね。

 これから、福島県文化センターで報告集会。絶不調なので、参加するので精一杯。記事はここまでに。