2018年4月13日

 まあ、願望です。書店に対して「5月5日が生誕200年なので、本を出します」と営業をかけても、「はあ、そうなんですか」という反応なんです。ほとんどどの出版社も出さないから、書店員も知らないんですね。

 昨年のロシア革命100周年が盛り上がらないのは予想した通りでしたが、マルクスまでもとは。マルクスは欧米では出版も映画も旺盛に出ているので、日本でもなんとかなるかと思っていたんですけどね。

 だから、勝手に盛り上げます。ブログのなかで。

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 まず写真の下の2点。これが弊社が誕生日までに書店に並べる本です。

 一つは、『マルクス「資本論」の方法と大混迷の世界経済』。著者の工藤晃さんはご存じですよね。共産党の経済政策委員長を長く務められました。その時代は、共産党から『日本経済への提言』が出て、それに驚いた近代経済学者と工藤さんが対談が実現したり、新しいものが切りひらかれつつあるという実感がありました。その工藤さんが「これが最後」と言って書かれたものです。

 もう一つは、『ラディカルに自己刷新するマルクス』。著者の岩崎信彦さん(神戸大学名誉教授)は、もともと社会学を専攻してこられた方です。これまでのマルクスを政治経済学的に捉えるやり方に違和感をもってこられたそうで、労働者を「商品」ではなく「人間=市民」としても捉えたらマルクスがどう自己刷新されるのかという視点の提起をはじめ、新しいアプローチが意欲的です。

 上の二つは、見ての通り、中国語の本です。これは、弊社から出している『若者よ、マルクスを読もう』(内田樹×石川康宏)の中国語版なんです。赤いほうはその第一巻目で、青いほうはその番外編である『マルクスの心を聴く旅』(池田香代子さんも加わっています)。中国では生誕200年にあたって出版が相次いでいることは確かです。これとは逆に、中国の専門家が書いた本を日本で翻訳出版しないかというオファーが弊社に来たほどです。中国がマルクスのことを本音でどう捉えているのか強い関心がありましたが、商業的には難しいなと断念しました(専門家は是非読んで、どこかで論評してくださいね)。

 それよりも何よりも驚きは、『若マル』(上記の本の愛称)を翻訳した中国の出版社を通じて、著者の内田樹さんに対し、なんと新華社通信からインタビュー依頼がありました。200年の特集をするので、その一環として載せたいということです。内田さんのマルクス論が、中国共産党に影響を与える時代の幕開けか?!

2018年4月12日

 問題が報道されて以降、ずっとスッキリしないでいる。何が問題なのだろうか。朝日新聞では労働局長の「不適切発言」と書いているが、どこがどう不適切なのかが見えないのだ。

 新聞記者といえば、裁量労働制が開始された時、最初に指定された職種の一つである。おそらく長時間過密労働が蔓延していて、そこには違法なこともあるかもしれない。きっと労働省の中でも話題になっていて、口が滑ったというところではないか。もちろん違法行為もないのに是正勧告をしたら問題だろうけれどね。

 「赤旗」は、司法警察権限を有する労基署による恫喝に当たるかのように書いていたが、他のメディアもそれを不適切と言っているのだろうか。それならおかしいと思う。

 よく知られていることかもしれないが、労働基準監督官は確かに司法警察権限を持つ。それが適切に行使されるべきは当然だろう。新聞社が労基法違反をしてもいないのに警察権を行使するとしたら、それは適切ではない。

 しかしなぜ、労働基準監督官がそのような権限を持つかといえば、会社すなわち資本と労働者が対等な関係にないなかで、労働者の利益を守るためには資本に対して強力な権限を行使することが必要な局面があるからだ。あくまで資本が違法行為をすることに対して、「罰金何十万円だ」とか言って、強制的な権限を行使するわけである。

 新聞社に対して是正勧告をしようかと言われて、資本(あるいは新聞社の経営者)が恫喝だと感じるのは当然だろう。しかし、なぜ労働者である新聞記者まで、資本家と同じようなことを感じてしまい、それを記事にするのだろうか。そこがよくわからないのだ。

 「赤旗」だったら、それを言われた記者が、会社である共産党が恫喝されたと感じることもあるだろう。だって、記者と会社(共産党)は、法的に正しいかどうかはともかく、思想的に一体なのだから。

 でも、マスコミの記者まで同じように感じて「不適切」という記事を書いているとしたら、すごく違和感を感じるわけだ。新聞記者というのは、権力を監視をするだけでなく、資本に対しても監視をできなければならない。自分の会社が批判された時、それも報道姿勢ではなく労使関係に関わることが批判された時、労働者ではなく資本の味方をしていたら、うまくないと思うんだけれどね。

 まあ、何を「不適切」と言っているのか、よくわからないので、なんとも言えないのだけれど。それにこの労働局長さん、安倍さんとうまくいかなくて更迭されたわけだし、味方にしないとダメな人だと思うんだ。

2018年4月11日

 このテーマで書き始めると、書くことがいっぱいありすぎて終わらなくなります。とりあえず今回で終わっておきます。

 「明日への選択」の論者は、日本が集団的自衛権を行使する国にならないと、日本防衛がちゃんとできないという立場です。それを憲法で明記しようということです。

 私は専守防衛の立場ですが、国民の揺れる気持ちは分かっているつもりです。でも、国民が揺れているのは、専守防衛か集団的自衛権も行使できる国かの間ではなくて、専守防衛とアメリカの抑止力依存との間でどうかだと感じます。

 専守防衛というのは、武力攻撃があって初めてこちらも防衛力を発動し、その発動のありようも、相手の攻撃に相当する、均衡するものに止めるというものです。そこに特徴があります。

 これって、軍事常識的にはおかしい。いわば相手が逃げ帰ればよしとする立場ですから、相手が体制を立て直して再び攻めてくるかもしれません。

 抑止力というのは、そこが違うのです。核兵器を使って、相手に対して壊滅的な打撃を与えるのが抑止力です。再び立ち直れないほどの打撃を与えるのです。

 軍事的にはそれが常識です。そこへの安心感があるから、抑止力の一言で、みんな思考停止になるわけです。

 しかし、いまの説明で分かるとおり、専守防衛と抑止力は両立しません。一方は逃げ帰ればいいという思想で、他方は逃げても立ち直れない打撃を与えるという思想ですから、両立しようがないのです。

 それなのに、多くの人は、専守防衛といわれれば納得し(安倍政権だって、まだ自分の政策を専守防衛と言っています)、同時に、抑止力にも納得している。そこを突き詰めて考えないことで、両立させてしまっているのです。

 この曖昧さを抜け出すには、日本の安全保障政策をどうするのか、自分の頭で考えることが不可欠になっています。その結果、専守防衛では不十分だから抑止力に依存しようということになるのか、他国を核兵器で壊滅するようなことは被爆国としては許されないとして専守防衛の範囲でやろうということになるのか、そこを決着させるような議論が必要だと思います。

 私の「改憲的護憲論」は、護憲論議のなかでそういうことが必要だと強調したつもりです。ところが「明日への選択」の論者は、そこは回避しているのです。

 護憲か改憲かだけを議論していては、結論が真逆なわけで、敵か味方かの議論になってしまいがちです。不毛な議論であり、結果として対立と分断しかもたらしません。

 そうではなくて安全保障のあり方と絡めて議論すれば、どこまでが一致し、どこからが違うのか明確になると思います。そういう議論をお互いにしたいねということが、この論者に私が一番いいたいことです。(了)

2018年4月10日

 昨日は月曜日ですから、いつもならブログを書く日でした。ところが「あれ、まだ書いていないぞ」と思ったのが夜、会社を出たところで、戻るだけの気力がなかったのです。

 経過は省きますけれど、実はこの一か月ほど、背中の痛みに襲われていまして、土曜日にそこから回復するための対策をしたのですが、日曜日はそのぶり返しがあったのが、最悪の状態で一日ベッドに伏せっておりました。月曜日に回復して出勤したのですが、やはりまだ普通じゃなかったのですね。ボヤッとしていたのでしょう。

 やはり仕事は65歳までと思いました。65歳を過ぎて現役で頑張る人のことは尊敬しますが、こんな激務を続けることは私には到底できないと自覚しました。

 ということで、本日は新しいことを書く気力はあるのですが、その気力を「3人の幹部自衛官は加憲をどう考えているか」のインタビュー原稿の整理に注ぎ込んだので(先ほど終了)、先週、「全国商工新聞」に「公文書改ざん問題の底流」と題して寄稿したものをアップしますね。お手軽で申し訳ありませんが。
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 これまでも「安倍首相はこれで終わりだ」と言われた事態は多々あった。当時、私にはそこまで思えなかったのだが、今回だけは違う。

 これまでは「忖度」にせよ「隠ぺい」にせよ、法令上問題がなかったとは言わないが、あくまで政治責任の問題だった。しかし今回は、公文書改ざんという誰もが法令違反だと認める行為が存在し(だから検察が乗り出している)、安倍首相もそこから逃れられない。関与していれば当然だが、関与がないことを証明しようとすればするほど、法令に平然と違反する官僚機構の存在が証明され、首相をトップに戴く行政に対する国民の不信は増幅していくのだ。将棋で言えば「詰み」の状態である。 

 日本政治が「官僚主導」から「政治主導」になったことを、今回の事態の底流にあると指摘する人がいる。しかし、官僚と政権との関係で言えば、政治主導は正しい姿である。国民に約束したことを官僚が妨害するなら、政治の力で克服する必要がある。

 今回の事態の問題は、それとは性格が異なる。国民の前では申し開きができないことを行政が行うため、隠ぺいを重ねた上に、隠ぺいの事実を覆い隠すため法令違反に手を染めたという問題だ。行政は法令を適正に実行するために存在するのであって、行政が法令に違反するとなれば、そういう国家は崩壊しているのと同じである。国民が望まないことを国民に隠れてやろうとすることの結末がここにある。それこそが底流であろう。

2018年4月6日

 さて、「明日への選択」の論者と私で決定的に異なるのは、日本の平和と安全をどうやって守っていくのかの考え方だろう。どっちつかずの護憲論の私だが、そこだけは断言していい。

 一言で言えば、私は「専守防衛」を貫くべきだと考えている。一方、この論者は、「専守防衛を……時代遅れの愚策」と述べている。「今日の国際環境において全く時代遅れの危険な政策」というのである。そうして、集団的自衛権の行使の必要性を説き、日米同盟が破綻したら中国に対抗するのに「どれだけの軍備増強が必要になるか、(松竹氏は)果たして考えているのだろうか」と、批判をエスカレートさせるのだ。それを防ぐためにも憲法改正が必要なのだそうだ。

 よく耳にする批判である。憲法を変えなければ日本は侵略されるということになれば大変なことだから、「ああ、そうか」と改憲にまわる人もいるのだと思う。

 だけれど、「こうしなければ必ずこうなる」という論理って、とっても強いが故に、陥穽もあわせもつ論理だと思う。だって、それを認めてしまうと、憲法が変わらない限り、日本はかならず侵略されることになってしまうからだ。そして、加憲論議の行方がどうなるか読めないが、いまのところ、憲法が変わる可能性は半分くらいというところだろう。常識的に言えば、9割の国民が支持する自衛隊が憲法に書き込まれることにもっと多くの国民が賛成するのが普通のように思えるが、実際の世論調査では半々程度にとどまっている。それほど国民にとっての9条は特殊な存在なのである。

 じゃあ、その結果、9条が変わらないということになると、「変えない限り必ず侵略される」と言ってきた人は、どうするのだろうか。侵略を甘んじて受けとめるのか。そういうことではないだろう。

 だから、本当に日本の平和と安全を願っているなら、別に改憲を主張してもいいのだけれど、現行憲法のもとでどうするのかということもあわせて考えなければならないと思うのだ。「現行憲法でここまでできる」と言ってしまうと改憲の論理が弱まると感じて言えないのだろうけれど、それでは日本の平和と安全に責任を持つということにならない。

 改憲論って、日本の平和と安全が売りのはずなのだけれど、そこの弱さはあると思うのだ。そして、「現行憲法でここまでできる」という立場で議論してくれるなら、護憲派との破壊的な議論ではなく、建設的な議論が可能になるように思える。私だって改憲にも意味があると認めているのだから、改憲派が護憲に何らかの意味を認めることだって、あっていいのではないだろうか。(続)