2018年7月23日

 国会が終わって、政治の関心は自民党総裁選挙に移ることになる。安倍さんが総裁選の争点として「改憲」を提起したから、その行方も焦点だ。

 ところで、国会の終わりかけになって、マスコミなどでも「最後の攻防」という言われ方がされていた。野党も不信任案を出したりして、盛り上げようとしていた。

 しかし、どうなんだろう。勝ち負けが見えている闘いを「攻防」と言っても仕方がないように思うのだが、それは間違っているだろうか。野党に勝算があって闘っているなら別かもしれないけれど。

 もともと、国会での闘いというのは、議席数は決まっているわけで、多数派が必ず勝つことになっている。不信任案を出しても必ず否決されることになっている。

 それでもなぜそういう戦術をこれまでとってきたかといえば、与野党の差が小さい場合は、与党のなかに逡巡や動揺が広がって、野党に同調するものが生まれる可能性があったこともある。あるいは、その可能性がなくても、その闘い方によっては野党への支持が増え、次の選挙につながる可能性があったからだろう。

 けれども、これだけ与野党の差がありすぎると、そういう効果は期待できなくなっているように思う。「死んでも最後までラッパを離しませんでした」という程度の効果であって、支持者だけが燃え上がり(それもたいていの人は冷めている)、新たな支持者を獲得するようなことはない。

 野党は原点に立ち返って考えるべきではないか。あれこれの戦術は、あくまで新たな支持者を獲得するために何が必要かをふまえてつくられたものであって、戦術が先にあるのではないということだ。国会の最終盤の局面では、どうすれば支持者を増やせるのかを考えて、そこから戦術を編み出すべきだということだ。

 国会だから徹底審議を求めるのは当然である。しかし、すでに法案の採決が決まった局面では、不信任案を出しても、審議が深まることはない。ただ採決の時間が早まるか遅くなるかというだけのことだ。

 先述したように、与党内に亀裂が生まれる可能性があるとか、与党の支持者が野党支持に回る可能性があるなら、採決局面でそれを伸ばす選択肢はあるだろう。しかし、そういう可能性が望めないなら、別のやり方を探究することがあっていいのではないか。

 何十年とやってきたから正しいということはない。安倍一強時代にふさわしい国会戦術とは何かを探るべきだ。

 今回の局面でいえば、誰が見ても採決が避けられないということになったら、一刻も早く採決せよと促し、採決の場からただちに被災地に向かうようなパーフォーマンスもあり得たと感じる。そのパーフォーマンスの中身次第ではあるのだが。

2018年7月20日

 「対米従属の軍隊」という本質規定と並んで、ずっと言われてきているのがこれである。そういう規定をする人の間では、「本質は変えられものではない」という認識と一体になるものだから、廃止するしかないという結論になっていかざるをえない。

 しかし、前回の「対米従属の軍隊」と同じ論じ方になってしまうのだが、じゃあ、どうやって廃止するのかということだ。安倍首相に「対米従属の軍隊だから廃止せよ」と迫るのか、枝野さんに求めるのか。そんなことを主張する人が国民多数の支持を得て自衛隊を廃止する政権を確立できると思っているのか。あり得ないだろう。

 結局、「対米従属」「人民弾圧」を変えられない本質と規定してしまっては、袋小路に陥ることになるわけだ。せいぜい、「改革すべき問題点」という位置づけにしなければならないということだ。その程度だったら、野党間での協議くらいは出来るようになるかもしれない。

 それに、「対米従属」「人民弾圧」という問題点があるにしても、それをつくりだしているのは自衛隊ではなく政府である。自衛官に対してそういう物言いをすることが何をもたらしているかを、よくよく考えるべきである。

 何か月か前、幹部自衛官が国会議員に対して暴言を吐いたということで問題になった。もちろん私も暴言だと思う。処分が軽いと問題にする人もいるが、処分を決めるのは政府である。処分の軽さをもって、自衛隊や自衛官に暴走する本質があるかのように言うのはどうなのだろうか。

 戦後の日本では、現場の部隊、自衛官が護憲派の批判にさらされてきた。日本の人口の4割くらいに広がった革新自治体では、自衛隊が憲法違反だということを理由にして、20歳になった自衛官を成人式に呼ばないということも横行した。住所録には自衛隊の駐屯地の住所や電話番号を載せないという自治体さえあった。

 現在も、自衛隊に対して憲法違反だという批判がされている。憲法違反だけれど、いざという時には活用するから、命をかけてくれと言われている。

 別にそう言ってもいいと思う。しかし、そういう言い方をされている自衛官が、それをどう受けとめ、悩んでいるかくらいには、心を砕くべきだろう。

 自衛隊はそうやって何十年間、護憲派から批判されてきたけれど、大多数の自衛官は、それを黙って甘受してきた。政治に対してモノを言わないのが自衛隊のあり方だと隊内で教育され、忠実に守ってきた。自分を否定している憲法9条をどう思うかって聞かれても、退官後にさえ、意見を言う人は少ない。田母神さんのように時々、そこから外れる人が出てくるけれど、本当に少数なのだ。それなのに護憲派は、その少数のなかにこそ本質があるとして批判を強める。

 自衛隊に対しては激しい批判をするけれども、自衛官は自分の意見さえ言ってはいけないという言論空間をつくってきたのは護憲派である。それでいいのかもしれない。しかし、自衛官を傷つけているという程度の自覚をもったものの言い方をできるようにならなければ、いつまで経っても国民の共感を得られるようにはならないだろう。

2018年7月19日

 自衛隊に対する護憲派、平和運動の側の本質規定として、この見方がある。私とて、これを否定するつもりはない。

 そもそも自衛隊の前身である警察予備隊が出来る過程がそうだ。アメリカの命令でつくられ、米軍の装備を供与され、米軍に訓練されて創設された。

 現在もその本質は変わらない。とりわけ海上自衛隊は情報通信網が米海軍と一体化して運用され、しかも大事な部分は日本側には知らされていないため、アメリカとともに行動する際、自主的な判断とは言い切れない部分が残るわけである(同盟国だから信頼するという構造)。ミサイル防衛網にしても、日本に落ちてくるミサイルと、アメリカに向かうミサイルへの対処が一体となっているため、純粋に日本防衛のためのものとはいえない。

 いや、そういう軍隊の運用は、全体から見れば些末なことである。もっと根本的な日本防衛の戦略というものが、アメリカの核抑止力に依存していて、独自の戦略というものを持てない。専守防衛というが、アメリカの核抑止力依存のもとでは、まやかしに過ぎない。

 ではしかし、対米従属の軍隊だからといって、どうするのか。本質は変わらないから廃止するしかないというのか。

 じゃあ、誰が廃止するのか。安倍政権にさせるのか、石破さんに期待するのか、安保も自衛隊も当然のこととして認める枝野さんにお願いするのか。

 「対米従属の軍隊だから廃止する」という公約をかかげて国民多数の支持を得て政権をとれば廃止することも可能だろう。しかし、そんな公約をかかげた政党はこれまで皆無だし、それで国民の支持が得られるとは思わない。

 そういう考え方は夢物語に過ぎない。結局、自衛隊を改革するという公約を掲げ、自分で政権をとって改革するしかないのだ。

 しかも、対米従属の軍隊という本質規定が、自衛隊のすべてに浸透しているわけではないことも知る必要がある。少し自衛隊の幹部に話を聞けば分かることだ。

 すでに書いたかもしれないけれど、兵庫県の弁護士九条の会に招かれた元陸将の渡邊隆さんが言っていた。陸上自衛隊は米軍にノーを言ってきた自負があると。

 最初に米陸軍との共同演習が北海道で行われた時のことだ(図上演習)。対米従属の軍隊という本質規定だけで物を見ていると、どんな共同演習も外国で侵略を手助けするように見えるだろう。島嶼奪回の訓練も侵略のための上陸演習に見えるのと同じように。

 しかし、当時、陸上自衛隊は米陸軍にノーと言い続けた。アメリカの軍隊は外制軍だから、戦場に自国民がいることを想定していないので、自衛隊と共同演習していても北海道民が住んでいる場所を戦車で通ってソ連軍と対峙しようとする。しかし陸上自衛隊は、「そこは道民が住んでいるのだからノーだ」というわけである。ここを理解してもらうのに数年かかったそうだ。

 それでも自衛隊がアメリカに従属して侵略の訓練をしているという認識が変わらないなら、まあ、それでもいいよ。しかしそれなら、侵略されたら自衛隊を活用するなんて無理で、それは間違った考え方だと堂々と言うべきであろう。
 

2018年7月18日

 本日も、自衛隊と9条の共存というテーマでお話ししてきた。こんな暑い日に高齢者がたくさん来るよ。大丈夫ですか。

 このテーマで話すと、共通して出てくる疑問というものがある。本日からそのいくつかを取り上げてみたい。

 一つは、本日の記事のタイトルである。社会党が村山政権で自衛隊も日米安保も認め、右転落した。その後、社会党という名前では存続もできなくなり、後継政党である社民党も存立の危機に瀕している。野党連合政権で自衛隊も日米安保も認めることになると、結局、社会党の二の舞になるのではないか。

 こういう疑問は根強く存在している。社会党が右転落した当時、それをはげしく批判した人たちだから、余計にそう思うだろう。

 実際、その危険はあると思う。かなりの程度ある。

 しかしそれは、自衛隊と日米安保を認めたが故でなく、大きな決断をして認めたのに、その後、何もこの課題が深められていないからである。

 社会党もそうだった。自衛隊と日米安保を認めたにしても、かつての自民党の認め方と同じでなくて良かったのに、新しい方向を探究しようとしなかった。そして、まったく自民党と同じ安全保障政策になってしまった。社会党としての存在意義をなくしたのだ。

 新しいものにしていく可能性は存在していたのだ。ソ連が崩壊し、日米安保の存在意義が問われ、政府も「防衛問題懇談会」をつくってどうするか議論を開始した。細川内閣で発足し、村山政権にレポートを提出したのだ。いわゆる樋口レポートである。

 その経過のなかで、日米安保よりも多角的安全保障を先に記述するような場面も見られた。社会党はそれを捉えて、新しい安全保障観を打ち出すこともできたのだ。しかし、ただただ日米安保にしがみつく日米の官僚層の抵抗をただ黙って見つめるだけで、結局、日米安保の再定義だとして、何も変わらない道が選択されたのである。

 社会党は、ただの護憲政党として、安全保障に対して何の見識も持っていなかった。ただただ自衛隊と日米安保に反対するというだけで、創造的なことは何もできなかったのだ。

 そして現在、自衛隊と日米安保を容認する野党連合政権という課題が提起されているのに、それを深める動きがない。どこにもない。

 その探求なしに、やれ政策協議なしに支援しないだとか、やれすみ分けだとか、中身に入らない議論を繰り返していると、社会党と同じ道をたどることになるだろう。ここで何回も書いてきたように、せめて日米安保と自衛隊をめぐって自民党政権の市中だった抑止力を乗り越える安全保障をどう構築するのか、その道筋だけでも示せたら別の道を進んでいけると思うのだけれど。ま、無理かな。

2018年7月17日

 2週間ほど前になるが、私が『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書、2013年)を出した際、真っ先に講演会に呼んでくれた岡山のお医者さんの団体の責任者の方と大阪でお会いする機会があった。大阪で集まりがあったとかで。

 いや、本当にあんなチャレンジングな本を出したのに、そうやって受け入れてもらえたわけだから、「この道を進んでいこう」と確信することになった機会だった。そしてずっと迷いなく(笑)進んできた。

 お話ししながらふと思い出したのだが、その講演会のタイトルは、おそらく「9条と自衛隊を両立させていいのか」というようなものだった。最後に感想文を書いてもらったのだが、「両立させてはならないという講演だと思って訊きに来たので、びっくりした」という感想もあったことを今でも記憶している。

 そうだよね。誰もが両立させてはならないと思い込んできたところにチャレンジしたのだから、ハレーションも半端でなかったと思う。

 ところが、だ。その岡山の方とお会いした前日、京都のある「3000万人署名の会」に呼ばれて講演したのだが、与えられたテーマが「憲法9条と自衛隊の共存を探る!?」というものだった。

 そう、まだ「!?」が付いているけれど、そういうテーマを主催者から与えられるまでになっているのである。しかも「3000万人署名の会」である。

 この会、すでに町民の半分近い署名を集めている。それでも町内在住者に限ると4分の1程度だということで、本気で過半数をめざしているところだ。

 そして、本気でそこをめざそうとすると、実際の署名集めをした経験からして、「憲法9条と自衛隊の共存を探る!?」ということに真剣にならないといけないと考えたそうなのだ。

 考えの異なる人と対峙することになる実際の経験が、そういう思想上の飛躍を生み出すというわけだね。やはり「この道を進んでいこう」と確信することになった。