2018年11月22日

 護憲派にとって長い間、自衛隊に関することを考えるのはタブーだった。それに関する法律を新たにつくるのも、予算を増やすのも、防衛政策を考えるのも。

 それを生み出したおおもとにあるのは、9条である。9条が戦力を否定していて、自分はその9条を支持しているのだから、自衛隊の存在を肯定してしまうような思考をしてはいけないと思い続けてきたわけである。

 だから、自衛隊にも国際人道法を適用しようと考える人とか、自衛隊の救急救命制度を充実させようとする人が、9条を変えない限り、人道犯罪を犯した自衛官を裁くこともできないし、逆に戦場で自衛官の命を救うこともできないと考えるのは、当然の成り行きであろう。

 私自身も、そういう護憲派の現状を生み出した根源は9条にあると感じる。なんとかしたいとずっと思ってきた。

 けれどまず、そういう矛盾をずっと放置してきたのは、基本的には改憲を志向してきた自民党政府である。「加憲」を主張する安部さんだって、加憲しても何も変わらないと言っているわけだから、国際人道法を適用する法的な枠組みをつくることなんか、ぜんぜん考えていないだろう。だから、矛盾が放置されている現状を、「これは護憲派の責任」と言うのは適切ではない。

 ただ、内閣官房のある関係者に聞いたとことでは、この連載で述べた戦場での医療制度を充実させるにあたり、菅官房長官などは、「あまり派手にやると、「安倍内閣はまた戦争の準備を始めた」と騒がれるから、慎重にやろうね」と言っていたみたいだ。だから、護憲派の反発を考慮してなかなか手に付けられないという点では、護憲派の責任も皆無ではないことは指摘しておく。

 しかし同時に、これらの問題の解決が、9条を改正しなければできないとも思わない。もちろん、自衛隊は憲法違反なのだから、自衛隊に関する予算はぜんぶ憲法違反だとか、同じく自衛隊に関する法制はぜんぶ憲法違反だという考えに固執していたら、そういうことも9条を改正しなければできない事項になっていく。

 けれども、まず護憲派がそういう立場をとるなら、くり返しになるが、「じゃあ、9条を改正しなければならないよね」という世論が高まる結果になるだけだ。護憲派が従来型の態度に固執すればするほど、護憲の世論は風当たりが強くなるのである。

 そうならないために新しいアプローチが必要だというのが私の立場である。ということで、来週は、この問題を別の角度から論じていく。(続)

2018年11月21日

 これまでの記事を小括しておく。結論は、自衛隊を解消するという課題にリアリティがなくなっているもとで、自衛隊違憲論の護憲派には新しいアプローチが求められているということだ。

 自衛隊をめぐる矛盾はいろいろあって、どれも根深い。ここで書いてきた戦場での医療のお粗末さ、国際人道法の法体系の欠落以外で、私が一番大きいと思うのは、防衛政策の欠落である。アメリカの抑止力に頼るということが根幹になっているので、自前の防衛政策というものを持てないでいる(これに関して書き始めると終わらないので、指摘だけで終わる)。

 国会で社会党をはじめ護憲派が三分の一を占め、「政権をとったら自衛隊の解消に取り組む」と言えた時代なら、その矛盾に向き合わないでも、「近々解散させるのだから、それまでの我慢」で通用した。軍事力を全否定しては政権をとれないのだから、空想ではあっただろうけれど、堂々としていられた。共産党の場合は、社会党との連合政権で自衛隊をなくすから矛盾はなくなるし、共産党主導の政権は憲法を改正して軍隊に憲法上の根拠を持たせるので、やはり矛盾はないと言えた。

 しかし、現在、自衛隊をなくせるなんて国民の99%は思っていない。100年、200年先にもそんな事態が来るとは思っていない。そういう状況下で、自衛隊をなくすという信念を持っているのは構わないけれど、自衛隊にかかわる矛盾に向き合わないということは、矛盾を100年、200年、300年放置し続けるということを意味していて、国民にとっては無責任きわまりない態度に見えてしまう。

 自衛隊をどう使うのかという防衛政策を持たないなら、大事な国防を任せられないと思われる。戦場での自衛隊の医療向上を否定的に見るなら、自衛官の命を軽んじている勢力だとみなされる。自衛隊が民間人を殺傷した場合の法体系に無関心でいるなら、人道をわきまえない連中だということになる。

 その結果、「護憲」というのはそういう連中の考え方だと位置づけられ、「それなら改憲」という流れが生まれる。「大義に殉じる」と言えるなら格好もつくだろうが、護憲というのが人道や命に反すると思われるわけだ。

 「人道」や「命」は護憲派こそが大切にしなければならないのに、護憲派がその対極にあるとみなされてしまうのだから、とうてい「大義に殉じる」というようなものではない。しかも、護憲派は自分が「人道」や「命」の側に立っていると自信を持っているので、そういう構図になっていることを自覚できない。

 「人道」や「命」の対立物を生んでしまう9条って、それこそ矛盾だ。それって必然的なものなのか。解決できるものなのか。明日からはその点に入っていく。(続)

2018年11月20日

 護憲派の立場として、自衛隊は解消するのだから、新たな立法や予算増には反対するということになると、新たな問題が生まれる。伊勢崎さんが提起している人道法違反を裁く法体系以外にも、次のような問題がある。

 前にもどこかで書いたけれど、自衛官が戦場などで負傷したときの医療措置はお粗末である。泥憲和さんがさんざん指摘したように、現在の救急救命キットでは自衛官の命は救えない。

 そういう現状を打開しようと、政府は、2016年、自衛隊のなかにいる准看護師と救急救命士の資格をもつ隊員に専門的な講習を受けさせることにより、以下のような医療行為ができるようにした。(1)気道確保のための気管切開(2)胸にたまった空気を抜く「胸腔穿刺」(3)出血時の骨髄などへの輸液投与(4)鎮痛剤投与(5)感染症予防のための抗生剤投与という5項目である。

 これは、アメリカが実際に行った戦争から導きだされたものだという。ベトナム戦争で現場の米兵がどうやって死に至ったかを分析し、アフガン戦争ではこれらの項目に対処できるように改善することで、米兵の生存率を高めたという。

 これって、普通は医師の指示なしにはできないことだが、自衛隊は医官を先頭の現場に連れて行くことは想定しておらず(フランスは医師が武器をもって戦場に行き、武器を取って戦いつつ医療行為をする伝統があるそうだ)、准看護師資格と救急救命士の資格を持っている人にやってもらうしか選択肢がなかったのだ。

 当時、社民党の福島瑞穂参議院議員がこの問題で質問主意書を出しているが、そこには「医師以外のものが医療施設以外の場所で実質的な医療行為を行う道を開くもの」「医療法の根幹を変更する内容のもの」として、やるなら法改正が必要だと求めていた。それに対して政府は保助看法の枠内だから問題ないということで法案は提出せず、国会では議論にならなかった。

 しかし、福島さんが求めたように、法案が出てきたら、護憲派はどう対応しただろうか。福島さんの質問主意書の激しさからすると、きっと「反対」という対応をしたことだろう。「自衛隊を海外の戦場に派遣し、戦闘行為をさせることを想定したものだ」等々の理由で。あるいは「戦争する準備をしている」ということで。

 けれども、自衛隊の救急救命措置がお粗末なのは、海外に派遣される場合だけではない。日本有事の場合だって同じ措置、同じ制度しか存在しないのである。実際に日本が攻められるような事態が起きたとして、戦っている自衛官の延命率を高めることは悪なのか。

 もちろんそういう制度があると、海外に派遣される場合も延命率は高まるわけで、海外派遣をしやすくなることは確かだろう。だけど、護憲派は自衛官の命を軽んじていると思われていいのだろうか。

 新たな法整備も予算増も認めないということは、そういうことである。護憲派というのはそういう連中だと思われたら、国民は護憲を選ぶことはないであろう。(続)
 

2018年11月19日

 自衛隊違憲論の護憲派が「自衛隊は解消するという立場だから」ということで、自衛隊に関する新たな法整備、予算増等を認めないということになると、いろいろ困った事態に直面することになる。誰が困るかというと、護憲派自身である。

 自衛隊違憲論は堂々と述べれば良い。持論なのだから隠さなくていいし、隠すとかえって逃げているように思われるだろう。

 しかし、自衛隊違憲論というのは、あくまで自衛隊の存在が憲法の文面に反しているかどうかという角度からの議論である。自衛隊が必要かどうかの判断とは次元が異なる。

 別の事例になるけれど、私学助成が憲法89条に違反しているのではないかという指摘は、ずっと存在してきた。89条が、「公金その他の公の財産は、……公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」と明文で規定しているからだ。

 だけど、私学助成は誰もが必要だと考えている。とはいえ、憲法改正まで私学助成が実現しないとなると大変だからということで、私立学校も「公の支配」に服しているという「論理」を見つけだし、助成を実現してきたわけである。

 つまり、そこに憲法に違反する事態があったとしても、それが必要なものだと国民が思っていれば、憲法を杓子定規に適用しようという判断はしない。自分にとって必要なものなら、改正して実現するか、解釈改憲で実現するかということになっていくのである。

 そして、何回も言うように、国民の多数おそらく99%は、自衛隊を廃止するなど考えたこともなく、必要だと考えている。その結果、自衛隊違憲論が説得力を持てば持つほど、多くの人は、「じゃあ、改憲して自衛隊の存在を明記しなければならないね」という思考回路にはまっていくわけである。護憲派の思惑が崩れるのである。

 その護憲派が、「自衛隊は違憲だが、自衛隊員が国防や災害派遣でがんばってほしいのだ。そのために必要な法律や予算は当然だ」という立場であれば、違憲論が浸透しても、そういう思考回路に陥ることにならないかもしれない。だけど、国民の多くは、護憲派が「法律もダメ」「予算もダメ」というのをあわせて聞くことになるので、「護憲は自衛隊の必要性を否定すること」と思うことになり、違憲論が広がるほどが改憲派が増えていくという構図が生まれるということなのだ。(続)

2018年11月16日

「自衛隊」と「9条」。これが対立するものであること、少なくとも矛盾するものであることは誰もが認めるところである。それをどう解決するかということで、これまで改憲論と護憲論からアプローチがあった。

 改憲論でいうと、2種類あった。1つは解釈改憲であって、「必要最小限度」の実力組織は憲法でいう「戦力」にあたらないというものである。もう1つは、それでは無理があるので、憲法を現実に合わせようという明文改憲論がある。

 護憲論は、明文改憲論と同じく、矛盾は解決しなければならないという立場に立ってきたが、逆に現実を憲法に合わせようというものであった。これが護憲論の代表的なものであり、護憲論の論理的な枠組みはその中で生まれ、発展してきたものである。

 この護憲論の論理的枠組みが通用しなくなっている。まず、それを自覚することなしに、護憲論の発展はあり得ない。

 例えば、伊勢崎賢治さんがよく言うことの1つに、国際人道法を自衛隊に適用する法的枠組みがないという問題がある。自衛隊が民間人殺害など国際人道法を犯しても、それを裁くための法体系がないではないかということだ(その原因が9条2項にあるから欠陥条項だという議論の評価は別のところで書く)。

 これは、戦前のように軍隊を法の枠外におくのではなく、より厳格に法を適用しようとする議論である。だから、いわゆる護憲派にとって、悩ましい問題になる。自衛隊に関する新たな法的措置をとらないと実現しないわけだが、そうすると自衛隊の存在を認めることになって、「現実を憲法に合わせる=自衛隊をなくす」という考え方と矛盾することになるからだ。

 半年ほど前だったろうか、共産党の志位さんが何かの記者会見をやり、その後の質疑で、この伊勢崎さん的な立場からの質問が記者から出された。それに対して志位さんは、正確に引用できないので申し訳ないが、「最終的には自衛隊を解消する立場だから、そういう新しい法的枠組みは考えない」と答えておられた。

 従来の護憲という立場からは、それ以外の答えはないだろう。法的なことだけではない。例えば自衛隊に関する予算を増やすということも、「解消する」という方向と逆行するから、護憲派にとって認められる問題ではないと思われる。

 そういう議論は以前から存在していたが、そういう立場を表明してもあまり問題にならなかったのは理由がある。社会党が存在していて、護憲派が国会議席の3分の1以上を占めていたので、「自衛隊を解消する」ということにそれなりのリアリティがあったからだ。伊勢崎さんはそれでも「法の空白」は短時間であっても許されないと言うだろうが、少なくとも護憲派にとっては「短時間」であることが想定されていて、国民のある部分もそれを許容していたと思う。

 現在はそこが異なる。自衛隊解消と言っているのは共産党だけであり、国会議席は衆議院で3分の1でも30分の1でもなく、2.5%に過ぎない40分の1(衆議院)である。国民全体を見渡すと、自衛隊解消を支持するのは、2.5%よりさらに少ないと思われる。

 そういう状況下で、自衛隊解消を当然の前提とした議論が通用するのか、どこまで通用するのか。護憲派が考えなければならないのは、そこである。(続)