河野談話を芸術作品として堅持すること

2014年8月27日

 慰安婦問題の解決は、結局、これしかないと思う。左右両派に不満が残るだろうが、河野談話の堅持である。

 右にとっては、世界に日本の恥をさらした諸悪の根源だ。だけど、河野談話が出たときは、読売も産経も、これで行こうということだったのだから、元に戻るだけである。

 左にとっては、さらに前に進んで法的謝罪と賠償を求めるということだろう。だけど、河野談話が出た時は口を極めて談話を批判していた左翼が、現在はこれを強く支持しているわけだから、堅持することに異論はなかろう。

 大事なことは、いやいや堅持するのではなく、心から堅持することである。総理大臣になったら、すぐに談話を堅持するのだと表明する。そして、毎年、何かの記念日に、河野談話の内容を慰安婦に対して語りかけるのだ。

 その場合、内容はコピペでなければならない。独自色を出そうとすると、内容が後退する可能性もあるし。そして、ワイツゼッカーのように、心を込めているということが分かるような語り口で語るのだ。

 アジア女性基金はなぜ失敗したのか。それは、河野談話がもつ芸術性というか、悪い子言葉でいえばあいまいさをぶちこわしたからだと、私は考える。

 河野談話は、政府の検証結果が示すように、軍は強制連行していないという日本の立場を貫いている。一方で、慰安婦に対する謝罪の気持ちが伝わる内容になっている。法的な謝罪が必要かという難しい問題をあいまいにしたままである。

 ところが、アジア女性基金によって、このあいまいさが壊された。実際の運営にあたっては莫大な税金が投入されたわけだし、カネに色が付いているわけではないので、慰安婦に渡すお金が税金なのかカンパなのかは、あいまいにしてもよかったのだ。実際、カンパが十分に集まらない場合、慰安婦に渡すお金が足らなくなることが予想され、その場合に税金をあてるかどうかという大問題が存在していた。そのことを橋本龍太郎首相とやりとりしたことが、大沼保昭さんの本に出てくる。

 それなのに、慰安婦に渡すのはカンパだけと早々と表明して、法的謝罪にもとづくものではないことを天下に示したのだ。河野談話の芸術性が破壊されたのである。

 だから、こんご、何らかの措置が必要になるとしても、その教訓を生かさねばならない。しかし、いずれにせよ、慰安婦問題での日本の立場ということでは、その中身は河野談話を堅持するということしかない。

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