伊勢﨑賢治『本当の戦争の話をしよう』中

2015年3月25日

 この本を読むことが、なぜ、護憲派を多数にするために必要なのか。それは、これからの憲法闘争で不可欠となることですが、改憲派と対話する姿勢を身につけるために必要になると思うからです。

 少なくない人が誤解していると思うのです。改憲派は戦争を望んでいて、力に訴えることを当然視している。逆に、護憲派は平和を望んでいて、力は不要だと考えている。そういう誤解です。

 まあ、伊勢崎さんが行く戦争の現場では、別に憲法のことが問題になるわけではありません。しかし、武力を行使するかどうか、行使するとしたらどんな武力かは、常に問われるわけです。

 でも、じゃあ、東チモールで武力行使基準の緩和を望んだ人(ニュージーランド兵や伊勢崎さん)は、戦争を望むような人だったでしょうか。仲間が惨殺されて、その首謀者を成敗するというやり方がどうだったかは異論があるでしょうが、東チモールの独立を助けたいし、インドネシアとの平和の確立を望んでいたと思います。伊勢崎さんなんかは、非武装国家をつくろうとしたわけだし。非武装は実現しませんでしたが、実際に東チモールは独立し、インドネシアとの関係も平和が維持されています。武力行使基準の緩和は、一時期、対立を激化させたけど、その対立は固定化しませんでした。

 逆に、この本では、伊勢崎さんにとってなじみの深いシエラレオネの話も、初期の頃からの事態が出てきます。武装集団が伸してきて、内戦がはじまろうとする局面。市議会議員もしていた伊勢崎さんは、丸腰の自警団をつくろうと提案したそうです。

 でも、最初の頃はよかったけど、だんだん「こいつは武装ゲリラの手先かもしれない」という不安から、自警団がつるしあげをしたりする。武装ゲリラって、襲う街を決めたら、まず偵察要員を送り込んでするそうで、見知らぬ人がいると疑われるらしい。不安が高じて、つるしあげがエスカレートしていき、あるとき、つるしあげの現場を伊勢崎さんを乗せた車が通りかかったそうですが、その運転手までつるしあげに加わって、古タイヤを背中にかぶせて石油をかけて火あぶりにしたそうです。

 いずれにせよ、その後、武装ゲリラが力を得て、多くの人は殺され(450万の人口で50万人)、運良く逃げた人は難民となり、伊勢崎さんの事務所はゲリラの事務所になったそうですけど。

 伊勢崎さん、火あぶりを招いた自警団のことをどう考えているかについて、以下のように言っています。「僕に罪悪感があるか。まったくないとは言えませんが、あの時、あの状況では、ああするしかなかった……。何よりそれは、「人のため」だった。それだけです」

 逆に、徹底した戦争で相手を殲滅し、いま「平和」になっている国もあります。スリランカですね。

 つまり、武力を行使する人も、丸腰で何とかやろうとする人も、別に戦争を望んでいるわけではありません。平和を望んでいるのです。

 日本の改憲派も同じです(ほとんどの人は)。平和を望んでいるが故に、中国の挑発には反撃しないとダメだと思っています。平和を望んでいるが故に、PKOなんかで自衛隊が活躍してほしいと願っています。

 なのに、改憲に賛成という人に対して、「おまえ、戦争を望んでいるだろう」という立場で接したりすると、ぜんぜんかみ合わないでしょう。「平和を望む気持ちは同じだよね」という心の一致点を確認しながら対話することが必要だと思います。そういうことが必要だということが、この本を読むと実感できます。

 そうです。戦争と平和って、矛盾だらけなんです。自分は平和を望んでいるが、あの人は戦争を望んでいるなんて、とっても言えないです。

 6月20日に大阪で自衛隊を活かす会の関西企画があって、その日の夜、伊勢崎賢治ジャズヒケシをやります。そのイベントのテーマ、私が勝手に決めましたけど、「『戦争』と『平和』は対義語か類義語か?」です。伊勢崎さんのイベントにふさわしいと自負しています。(続)

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