『自虐も栄光も超えて──安倍晋三氏への手紙』

2015年11月30日

 というタイトルの本を書こうと、この間、いろいろな文献を読んできた。お正月休みから書き始めるつもりだけれど、出版社に依頼しないとダメなので、売り込みポイントはどこにあるかを考えてみた。

 一言でいえば、「近現代史認識における河野談話」をめざすというところかな。慰安婦問題での河野談話の見地を、日本の近現代史全般に適用したらどうなるかということである。

 このブログで何回も強調してきたことだが、河野談話は、93年に出されたとき、いわゆる「左」からの批判にさらされた。慰安婦問題での日本政府の法的責任を明示していなかったために、「責任回避だ」ということになったのだ。しかし、それから時がたって、河野談話は「左」のバイブルのようになっている。

 「右」の側は、河野談話はイヤだったのだが、これで問題が終わるならということで、「仕方なく受け入れる」という感じだった。その後、問題が終わらず、元凶が河野談話にあるということで批判を強めている。しかし、安倍さんだって、河野談話の堅持といわざるを得ないように、いまや河野談話は、左右共通の旗印になりつつあるわけだ。

 歴史観、歴史認識というのは、人によって違うし、左と右では本当に大きく異なる。だけど、絶対に歩み寄れない部分というのはあるにしても、どこか共通の基盤がないと、国としては困ることがある。歴史に関する何らかの政策を出そうとする度に、歴史観をめぐって国民的な対立ができてしまうと、国家としての判断ができなくなってしまう。

 河野談話というのは、慰安婦問題そのものでも、より根本的には植民地問題でも、左右に大きな違いがあるなかで、共通の認識たりえたわけだ。これは大事なことである。

 そういうことを、慰安婦問題にとどまらず、歴史認識全般に拡大する必要があるのではないか。それが私の問題意識である。日本の現実を見ると、歴史認識をめぐるいろいろな個々の問題をめぐって対立が深まり、現在は、どれも右側の攻勢によって決着がつくという感じになっている。そこを克服することが求められる。

 ドイツでも、言い方は悪いけれど、ナチスはひどかったけれど、ドイツ軍にはすごく良い部分があったということが、国民の救いになっている要素がある。厳密に歴史の検証をすれば、全体としてはナチスのいいなりになったドイツ軍を褒めあげるのは、そうそう簡単ではないが、国民をまとめあげるために政治的なアプローチとして、そこが重視されているわけだ。

 だからこれは歴史学とか、歴史認識の本ではない。「歴史の政治的な見方」といったらいいだろうか。本当に書き上げられるかどうか分からないけれど、挑戦しがいはある。

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