いらつくマルクス

2016年3月27日

 昨日はフランクフルト空港を飛び立ち、一路マンチェスターへ。エンゲルスが住んで、経営者としてマルクスの生活費、研究を稼いで送っていた場所です。マルクスやエンゲルスが『資本論』『イギリスにおける労働者階級の状態』で描いた当時の紡績機械が展示してあって、ちゃんと動かしてくれるところがすごかった。

 その後、リバプールまで移動。これらは明日にでも詳しく書くけど、本日は、昨日の続きで、なぜマルクスはあんな立派なフランクフルト憲法にいちゃもんをつけたのかという話です。

 当時の状況がどんなものだったかを考えると、理解できると思うんです。マルクスは理想と現実の狭間でいらついていたと思うんです。

 ドイツでは48年3月革命があって、フランクフルト憲法制定へと向かっていくわけですが、マルクスは、その一カ月前、『共産党宣言』を出したばかりでした。共産主義の目標を確立し、議会なんか存在しない状態だから、共産主義のためには実力で革命が必要だと宣言したのです。

 ところが、革命が起こっちゃいました。プロイセン皇帝は、憲法をつくることを約束し、そのための議会を招集するとして、なんと男子の普通選挙権にもとづく選挙がされることになったのです。

 さすがにマルクスのことですから、現実的に考え、共産主義なんて当面の目標じゃないことは自覚します。大事なのは君主制を廃止して民主共和制の国にすることだと考え、男子だけでなく女子も含む21歳以上の普通選挙権などを主張します。

 でも、マルクスは亡命先にいて、ドイツで影響力を発揮できません。4月になって帰国し、6月に「新ライン新聞」を創刊してがんばりはじめるのですが、その時点では、すでに選挙は終わっていて、議会ができちゃったのです。だから、「新ライン新聞」創刊号の論文は、「フランクフルト議会」というタイトルで、議会の会議録を取り寄せて、それを分析するものになったわけです。

 マルクスの影響とまったく関係なく選ばれた議会ですから、君主制を廃止するというマルクスの思惑とはまったく異なった構成になりました。林健太郎さんという歴史学者(元東大総長)の研究によると、総数は649人だったそうですが、左翼に属するのは260名程度。3分の1にすぎませんでした。しかも左翼といっても、半分を占める「穏健左翼」はみんな立憲君主制の支持者で、残りの左翼のなかでも君主制については意見が分かれていたようです。

 つまり、マルクスのように君主制廃止を唱える議員は、ほとんどいなかったのです。そして、議会では、どの程度の君主制を残すかということばかり議論しているのです。

 男子だけとはいえ、いちおうは普通選挙がやられて、国民の意思が示されたのに、そしてマルクスは共産主義という目標をとりあえず脇において現実路線を進んだのに、その現実路線も実際の現実とはかけ離れていた。

 当時の「新ライン新聞」を見ていると、そういうマルクスとエンゲルスのいらつきが伝わってきます。高い理想をもって、はじめて現実の政治と向き合って見て、その乖離がすごかったんですね。

 フランクフルト議会は、それでも立憲君主制の枠内ですごく立派な憲法をつくって、プロイセン国王に全ドイツの国王になるよう要請します。しかし、それを受け入れると、議会にしばられる国王(立憲君主制)になっちゃうということで、プロイセン国王は拒否し、議会を解散するわけです。そして、のちに自分でつくった憲法(欽定憲法)を公布することになるのです。

 そういう新しい状況下で、エンゲルスは次のように考えます。「ドイツ国憲法は、外見上もっぱら人民に由来していた点に特徴があっただけでなく、同時に、矛盾だらけであっても、やはり、全ドイツでもっとも自由主義的な憲法であった」

 こうして、各地でフランクフルト憲法を擁護するための武装蜂起があるのですが、エンゲルスは武装闘争に司令官として参加します。そういう点では、現実の状況が変われば、同じ文面の憲法であっても、批判したり擁護したり変わっていくということなんです。

 現代においても、理想を持っている人が、それとかけ離れた現実を認めなければならない局面があります。そうでないと、その先に進めない(理想はもっともっと先の話)という局面です。理想を持った運動って、そこをどう捉え、実践するのかが、発生以来、ずっと問われ続けているのだと思います。

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