九条をめぐる対決構図の変化

2016年7月7日

 この選挙、九条改憲を許すだけの勢力が国会を占めるのか、それを阻止するだけの勢力が国会に進出するのかが最大の争点である。だけど、「九条を守ろう」と言っても、その意味内容が時代とともに変わっていることを自覚しないと、人に伝わる訴えにならないと思う。

 一つは、何回も書いてきたことだけど、戦後一貫して、この問題の対決構図は、護憲が非武装中立で、改憲は専守防衛という解釈改憲だった。ところが、小泉内閣が集団的自衛権に軸足を移しはじめ、イラク戦争で自衛隊を派遣することによって、専守防衛派に分岐が生まれた。海外派兵が憲法違反なのだということで、専守防衛派の一部と非武装中立派と手を結ぶ構図が生まれたわけだ。

 その構図はいまでも続いている。しかし同時に、集団的自衛権容認の閣議決定があり、新安保法制が成立したことで、別の構図が加わるようになった。

 何かというと、「九条を守れ」という訴えの意味が低下したことだ。低下というと怒られるかもしれないけれど、「九条を守れ」という訴えだけでは、九条が守れないというか。うまく言えない。

 多くの護憲派にとって、「九条を守れ」というのは、日本が戦争をしないために必要とされる訴えだったと思う。だけど、九条が守られても日本は戦争するのだという局面に入ったところに、これまでと異なる現在の時代の特徴がある。それが新安保法制の意味である。

 小林よしのりさんのように、「九条が戦争条項になった」とまでは言わないが、九条があっても日本は戦争するのだという現実が目の前にある。そのもとで、「九条を守れ」というだけではダメということだ。

 別に難しいことではなく、九条を守るためには、護憲派が政権をとって、国の政策を変えなければならない局面に入っているということである。少なくない護憲派が、すでにそのためにがんばっている。

 しかし、政権をとるということは、護憲派にとって経験したことのないことである。参議院鹿児島選挙区では、川内原発をどうするかが問われているのに、稼働中止を訴える候補者は出ていないとされる。政権をめざすために共闘するということは、そういうことを意味する。

 護憲派は、政権をとるための作法があまり身についていない。経験したことがないから当然である。この参議院選挙は、政権をとれる護憲派に脱皮できたかどうか、そのために必要なことは何かを学べたかどうかも、選挙に意味があったかどうかのメルクマールになるだろうね。

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