存在する多様性を紙面で見せるのが大切

2017年1月30日

 本日、東京から福島へ。2か月に1度、生業訴訟の裁判のたびに開かれる講演会ですが、本日は鳩山由紀夫さんをお連れします。さて、どんな反応でしょうか。連載はあさってから再開です。産経新聞デジタルiRONNNAから「しんぶん赤旗の研究というテーマで特集を組むので何か書いてほしい」という依頼があり、以下の論評を書きました。私がつけたタイトルはこの記事にあるように前向きだったのに、iRONNNAがつけたタイトルは後ろ向きっぽいですね。ま、立場の違いがあるから、仕方ないか。どうぞご覧ください。

 大学1年生で「赤旗」の購読を開始し、すでに43年。その間、忙しい時も病気の時も、1号も欠かさず読んできた(最近はあとでまとめ読みすることも増えたが)。読者としていろいろ注文はあるけれど、ここでは1つだけ述べておきたい。野党共闘の時代における「赤旗」は、共産党のなかに存在する多様な個性を映し出すものになるのが望ましく、そうでないと共闘も本格的には実らないのではないかということである。

 「共産党には個性がない」とよく言われる。それは、ある意味では正しく、別の意味では正しくない。
 個性のなさを指摘する人の多くは、「赤旗」を見たり、議員や候補者の演説を聞いてそう感じるのだろう。それなら当然だ。「赤旗」は共産党の見解を伝えるものであって(議員や候補者の演説も同じだ)、共産党の見解が特定の問題について2つも3つも存在するなんてあり得ないからだ。
 ただし、個々の共産党員の見解が、常に共産党と一致しているかというと、そんなことはあり得ない。30万人もいるのだから、これも当然だろう。
 ただ数が多いからというだけではない。党員の多くは団塊の世代に属する。若い頃は学生運動で、その後は労働運動などにおいて、自分の頭で考え、行動してきた世代である。新しい問題が生じたとして、共産党が見解を発表するまでは自分で考えないということはあり得ず、その結果、いろいろな問題で独自の認識に達するのは自然なのだ。それが結果として共産党とは異なる見解になることもあり得る。だから自由な意見交換ができる共産党の集まりに参加すると、それぞれの個性が豊かなことには、誰もが驚かされるだろう。若い党員だって、過去のいきさつに縛られない分、自由で豊かな発想をしている。

 例えば中国に対する評価などは、30万人が一致するなどということから、もっとも遠いところに位置する。共産党の綱領は中国を「社会主義をめざす国」と規定しているが、研究者を含む党員のなかでは、中国を社会主義だとみなす人もいれば、資本主義だと疑わない人もいて、激しい論争がある。また、党員の少なくない部分は、綱領の規定にもかかわらず、中国を社会主義だと国民に説明することに躊躇する傾向がある。そう説明してしまうと、日本の共産党が最後にめざしているのも社会主義だから、中国のような社会をめざしているのかと国民から思われるのは避けらないからだ(違うと説明しても避けられない)。そういう難しさがあるので、共産党のそれなりの地位にいる人が、「「めざす国」ということは現在はまだ社会主義ではないという意味だから、国民に対して中国は社会主義ではないと堂々と説明していいのだ」として、党員を励ましたりすることもある。
 個々の党員だけではない。例えば不破哲三氏なども、個人の著作では大胆な見解を表明することがある。『激動の世界はどこに向かうか』(2009年)という著作では、共産党が存在しない国でも社会を変える動きがあることについて問われ、マルクスが高く評価したパリ・コミューン(1871年)にはマルクス主義者がほとんどいなかったことを指摘しつつ、「マルクス主義者やその党が指導しないかぎり、革命はありえないとか、社会主義への意義ある前進は起こらないなどといった独断的な前提は、(マルクスには)みじんも見られません」と述べている。それだけだったら事実の紹介に過ぎないが、その上で、現在においても、「共産党がいないところでも新しい革命が生まれうるし、科学的社会主義の知識がなくても、自分の実際の体験と世界の動きのなかから、さまざまな人びとが新しい社会の探究にのりだしうる」と一般化しているのだ。日本で共産党が退潮し、消滅しても革命が起きるのだろうかと、戸惑いを感じた党員もいたことだと思う。こうした見解が「赤旗」に掲載されるのは難しいのではないか。

 中国問題に戻るが、中国が本当に社会主義をめざすと言えるのかについて、実は共産党だって慎重な見方をしている。すでに3年前の大会で、「(中国に)覇権主義や大国主義が再現される危険もありうるだろう。そうした大きな誤りを犯すなら、社会主義への道から決定的に踏み外す危険すらある」と指摘していたのだ。
 そういう見方を提示したとはいえ、「赤旗」の立場は最近まで、「中国は社会主義をめざす国」というものだった。そして、社会主義は共産党のめざすのと同じものだから、中国を批判するような報道も、ほとんど見られなかった(中国の覇権主義と真正面から闘っていた20世紀後半は別だが)。「赤旗」が党の見解を述べるものであり続ける限り、それは避けられないことなのだ。
 しかし、この1年ほど前から、少しずつ変化が見られるようになる。例えば核問題について言うと、それまでは中国は核廃絶を実現する立場に立っていると評価してきたが、この間、核廃絶の「妨害者」になっているという論評もあらわれた。そして今年1月の党大会では、「少なくとも核兵器問題については、中国はもはや平和・進歩勢力の側にあるとはいえない」と断言するに至る。南シナ海、東シナ海の問題でも、「力による現状変更をあからさまにすすめている」として、「国際社会で決して許されるものではない」と批判した。
 さらに、この党大会では、「中国に、大国主義・覇権主義の誤りがあらわれている」と規定した。3年前の大会の見地からすると、「社会主義の道から決定的に踏み外す危険」があらわれているということになる。実際、この党大会では、それが「現実のものになりかねない」と、中国に向かって「警告」しているのだ。

 要するに、中国に対する否定的な見方が、共産党全体のものになりつつあるということである。これまでも個々の党員のなかではそういう見解が多かったわけだが、それが共通の認識になっているということだ。
 問題は、こうした共産党の変化は、共産党を外から見ている人たちにとっては、つまり主に「赤旗」を通じて共産党を見る人たちにとっては、ある日突然訪れるということである。そしてその人たちの目には、ある時期までは共産党は一致してこう言っていたのに、ある日を境に一致して別のことを言うようになったと映ることである。これがまた、「一枚岩だ」「共産党の見解が180度変わると、上から下まで一挙に変わる」として、ある種の不気味さを持って受けとめられることになる。
 モノトーンの考え方だと見られることは、政党にとっては不利なことである。今度の大会決議で、共産党は自民党を次のように批判している。
 「安倍政権のもとで自民党は、かつての自民党が持っていた保守政党としてのある種の寛容さ、多様性、自己抑制、党内外の批判を吸収・調整する力を失い、灰色のモノクロ政党=単色政党へと変質した」
 多様性がない単色政党は批判されるべき対象なのだ。だったら共産党も多様性を見せることに力を入れるべきだろう。

 私が「赤旗」に期待するのは、1ページでいいから自由投稿欄を設けることである。その他のページは共産党の公式見解を述べるものであっていいから、自由投稿欄だけは公式見解に左右されないものを掲載することである。
 そのことによって、多くの人は、共産党のなかにも多様な見解が存在していること、共産党がモノクロ政党でないことを知ることになるだろう。同時に、そういう多様性にもかかわらず、幹部がばらばらに行動するような無責任な政党ではなく、政党としてまとまった見解を持ち、一致して行動をしていることも理解するだろう。
 それは共産党への支持を広げることになると感じる。共闘相手の他の野党にとっても、「自衛隊を認める党員もいるのだ」とか、「いまだに天皇制廃止論者がいるんだ」などが伝わることは、共産党も自分と同じような多様性を持つ党だという理解につながり、日常の付き合いにもいい影響を与えるはずだ。不破氏のように個人の著作を出せない共産党員にとっても、同じ意見を持つものの派閥(分派)をつくらないで意見を表明できるようになるわけで、党の活性化につながると思う。
 志位和夫委員長は、1月の党大会における報告で、「「多様性」は「弱み」ではなく、「強み」とすることができる」と述べた。これは多様な考え方を持つ野党の共闘に関してのものだが、共産党自身も多様性を「赤旗」で見せることによって、みずからを強くすることができるのではないだろうか。

記事のコメントは現在受け付けておりません。
ご意見・ご感想はこちらからお願いします

コメント