慰安婦問題の対立構図を変える・3

2017年2月17日

 慰安婦問題の解決を願う人々にとって(そんな問題は存在しないという人ではなく)、なぜ河野談話は好意的に受けとめられ、日韓政府合意は否定的に捉えられるのか。それは、同じ言葉が使われているにしても、心からの謝罪か表面的な謝罪かということが、なんとなく見えてしまうからではないかと私は思う。同じ言葉が使われているので、論理的に説明するのは簡単ではないが(この連載で説明するように努力はするが)、そういうことってあるのではないか。

 よく、法的な謝罪だけが真の謝罪だと言われることがある。挺対協などはそういう立場であって、だからソウルにある挺対協の人権博物館を見学すれば分かることだが、館内に流れるテープ音声では、河野談話についても法的な謝罪をしていないものだとして問題にしている(少なくとも私が訪れた2年程前はそうだった)。

 でも、法的な謝罪ではなくても、河野談話や現在の河野さんの立場は、慰安婦問題の解決を願う少なくない人々(全部ではないが)にとって受け入れられているのではないだろうか。それは、法的な謝罪と心からの謝罪が別物だということを(関連がないとは言わないが)、示しているのではないだろうか。

 私たちの周りの世界を見渡せば分かることだが、違法行為をしたとして罪に服することは、謝罪とは何の関係もない。例えば誰かを傷つけたとして、その容疑者が裁判で有罪となり、何年間か服役したとする。その人は、被害者に対して謝罪をせずとも、娑婆に出てきた時点で、法的な責任は果たし終えたのである。それ以上のものは求められない。
 もちろん、傷つけた人に対して謝罪することは、刑期の長さに影響することはあるだろう。しかし、謝罪しなくても、つとめを終えれば法的責任はそこで終わりなのである。謝罪しないから再び収監されることはあり得ない。やはり謝罪するかどうかは、法的責任とは無縁なのである。

 それなのに、この世界では、法的責任を認めるかどうかが、謝罪しているかどうかのメルクマールとされる。言葉のなかに「法的責任」というものが入っていないと、どんなに心を込めても「謝罪していない」ということになる。

 なぜそんなことになるのか、私にはよく分からない。推測として言えるのは、慰安婦問題が浮上したとき、政治の責任で解決する動きがなかったので、当事者たちが裁判所に訴えたことがきっかけだとは思う。裁判で勝とうとすれば、何らかの法律に日本政府が違反したと証明しなければならないので、そういう角度で物事を考え、判断することが唯一の基準になっていったのだろう。

 ここを整理しきれないと、この問題は膠着したままで推移する。その結果、高齢の慰安婦の方々が解決を目にすることのないまま、心が穏やかでないまま亡くなっていくことになる。土日のお休みを挟んで来週再開するブログでは、そこの整理を試みたい。(続)

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