米朝対話とは結局、日本国民の覚悟の問題

2017年8月17日

 アメリカのトランプと北朝鮮の金正恩は、お互いに響き合うというか、お互いに相手の登場を待ちわびていたような関係だよね。そして現在の状況がつくられた。

 誰もが対話を待ち望んでいるし、無条件に対話を求める人もいる。対話はしてはいけないという人はいないだろうけれど、じゃあどうしたら危機から逃れ出られるのかを考えると、そう簡単ではないことが分かる。

 実際、対話をやってみて、それでもし決裂でもしたら、その後に対話はないのである。だから、対話せよというよりも、対話の中身を考えることこそが大事になっているのだと思う。

 この点で、現在の状況は、94年の第一次危機とは比べものにならないくらい深刻であることを理解する必要がある。当時はまだ核開発の途上にあった。そして北朝鮮が核開発を放棄することを約束したものだから(実際にはウラで核ミサイル開発を続行していたのだが)、アメリカ、韓国、日本などがそれを支援する枠組みに参加できた。プルトニウムを生み出す寧辺の核施設を査察し、実際に無力化する作業をやった。ケネス・キノネスの『北朝鮮Ⅱ──核の秘密都市寧辺を行く』などに詳しく書いていて、私も「ここまでやれたのだ」と感動したものだ。そして、見返りにプルトニウムを生み出さない軽水炉を北朝鮮に提供することになり、日本も資金を分担したわけだ。

 今回、米朝対話が実現するとして、北朝鮮が核ミサイル開発を中止し、すでにあるものを放棄することを約束するだろうか。それはほとんど不可能だと思う。この十数年、核の必要性を公言したことが、94年当時の北朝鮮と大きくことなるわけだから。たとえ、オモテだけはそういう態度をとったとしても、94年以降に裏切った実績があるわけで、同じことをくり返させない保障をどう得るのかも至難の業である。

 そして、一番大事なことは、北朝鮮が核ミサイルを全面放棄はしない前提で和解が進んでいったとき(グアムへの威嚇などはしないとか、米本土に到達するものは放棄するとか)、日本国民はそれでも北朝鮮を経済的にも支援する枠組みに参加することを許容できるのかということだ。日本に到達する核ミサイルは放棄対象にならないのにである。部分的には北朝鮮も譲歩するだろうから、与える見返りは相当なものになるだろうし。

 だから、交渉を求めると言っても、北朝鮮が核ミサイルの全面放棄に応じないと考えられる以上、結局、北朝鮮の横暴のどこまでをわれわれが許容できるのかという話になのだと思う。対話を求める以上、その覚悟があるかどうかも問われるだろう。

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