「前原さん、ガンバレ!」のワケ

2017年10月8日

 昨日の京都平和委員会の会議のあとの懇親会。私がブログで「前原さん、ガンバレ!」という記事を書いたが、違和感があって、真意を聞かせてほしいと言われたのでお答えした。概要、以下の通り。

 「共闘」というものへの自分なりの原点的な体験から来る。この40年ほど、いわゆる「革新」「左派」はそれぞれのグループで固まる傾向が続いてきた。その出発点となったのは、1979年のいわゆる「社公合意」。それまで限定的に共産党とも共闘してきた社会党が、公明党との間で協定を結び、共産党とは共闘しないと明言したわけだ。共産党は強く反発し、これを契機に労働運動をはじめ、それぞれが独自の道を歩み始める。そこでのしこりは相当のもので、連合が共産党とは絶対に組まないという姿勢を堅持しているのも、実体験からくるものだから、克服するには別の実体験をくり返す日々が必要なのだと感じる。

 全体はそうやって動いたのだが、青年分野では少し様相が違っていた。世界青年学生祭典という取り組みがあり、それはずっと統一して取り組まれていた。10団体会議というものが存在し、民青同盟、全学連と社青同(いわゆる向坂派)、総評青年部などが協力しあっていたのだ。

 89年にピョンヤンで祭典が開かれることが決まっていた。そして私は、民青同盟の代表(国際部長)として、その会議に出席し、どういう一致点で統一した取り組みができるのかの議論をしていた。しかし、なかなかうまくいかない。

 他の戦線では統一が崩壊するなかで、民青同盟を指導する共産党のなかには、「あいつらはどうせ分裂勢力だから」という認識が強く、分裂しても構わないという雰囲気があるので、私も議論に前向きになれない。しかし、話し合いをして重ねていくなかで、自分が話し合っている相手に誠実さを感じる局面も増えてくる。なんとかしたいという気持ちが生まれてくる。

 ところがその頃、ソ連のゴルバチョフ大統領が「新思考」を打ち出し、日本共産党が激しく反発し、批判する局面が生まれる。それだけでなく、社青同などが青年分野で統一に背を向けているのはソ連追随で、「新思考」にもなびいているからだという認識が生まれ、宮本顕治氏の指示があって、それを批判する論文を民青同盟の名前でつくり、「赤旗」の一面に発表することになる。

 当然、社青同は猛反発だ。中立的な日本青年団協議会も仲介できないほどの事態になる。私は、社青同に「新思考」の影響など存在しないと感じていたから、その論文自体に納得できないのだが、会議には代表として出席するし、社青同を批判しなければならないわけで、針のむしろに座らされているような日々が続く。

 この過程で自分のことを反省した。共闘するために協議している相手のことを最初から「分裂勢力」という前提で対応していることがおかしいわけで、こちらは相手も共闘を願って協議に応じていると考え、信頼して対応しないとダメだと思ったのだ。実際、協議に参加して話し合っている私が相手のことをそう実感しているわけで、その現場の実感が方針の基礎にならなければならないと思った。

 そこで、共産党に対して、社青同との2者で腹を割って話してくると宣言し、会うことになる。詳しい経緯は書かないが、そこでお互いが共闘を願っていることを確認し合い、どういうスローガンで一致するかでも合意した。その結果をふまえ、10団体の会議を開き、共闘の合意が得られたのである。

 その直後に民青同盟の大会があり、私は卒業(年齢が35歳に達したことによる退職)する。その大会に参加した共産党の上田副委員長が、10団体の合意を褒め称えてくれたのはうれしかった。

 まあ、ところが、その合意を見た宮本氏が激怒したとのことで、ちゃぶ台をひっくり返して、最後は分裂することになるのだけれど。その経緯は私はタッチしていないので、詳しくは書かない。

 これが共闘問題の私の原点。共闘のために協議している相手に対して、「こいつは本質的におかしなヤツ」と思って接しない。本当にお互いが心から共闘を望んでいるという前提で、誠意をつくして話し合う。そうしないと合意は生まれない。もしこちらが誠意を尽くしているのに相手がそれを裏切るなら、こちらがの誠意が大きければ大きいほど、相手の裏切りに対する世論の批判も大きくなってくる。

 それを肝に銘じて、その後の人生を送っている。ということです。

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