行き当たりばったりのマルクス

2018年6月15日

 本日は(も?)忙しかったです。マルクス生誕200年の今年、関連する本を4冊出すのですが、その4冊目の作業でいつになく夜中まで集中していました。すでに2冊は刊行済みで、3冊目はすでにご紹介した『若者よ、マルクスを読もう』のパート3です。

 この4冊目、まだタイトルを付けていませんが、もし付けるとすると、『200歳のマルクスが論じる共産主義』かなあ。ソ連崩壊以降、資本主義に変わる新しい社会をめざす人びとのなかでも、「社会主義」「共産主義」という言葉を使うのを嫌う傾向が生まれています。「未来社会」なんて聞き慣れない言葉が使われる時代です。おそらく国民のなかではまったく通用しておらず、仲間内だけでもてあそんでいる言葉ですけどね。

 まあ、言葉の使い方はどうでもいいんですが、問題は中身です。この貧困と格差の現代社会をなんとか変えたいと思っている人はたくさんいると思うのですが、ではどんな社会に変えるのか。

 ユートピアのような社会がすぐやってくるなんて、誰も思いません。だけど、実際には少しずつ変えるしかなくて、いまの社会とあまり変わらないものかもしれないけれど、「こういう社会だ」と言えないと、多くの人を駆り立てることはできないでしょう。そこが難しい。

 でも、この本の原稿を見ながら確認できたのは、マルクスって、いろんな時代にいろんな違うことをいっていることです。若くて未熟な頃はこうだったが、成長してこうなったというだけではなく、成長してからも、ある時はこう言い、別の時はこう言うという感じかなあ。

 それはよく分かるんです。政治に携わるということは、その時々の政治の要請に応えなくてはならないので、政治的な(学問的な正確さから離れた)判断が求められるのですね。

 問題は、後世にマルクスを研究する人が、そうやって政治的に発言しているマルクスを、純粋に理論的な存在として捉えることでしょう。「時と場合に応じて柔軟に(悪い言葉で言えば「行き当たりばったりに)発言しているな」ということなのに、そこに理論的な意味を見いだそうとする傾向が強すぎると思うんです。まあ、マルクスが偉大すぎるのかもしれませんけどね。

 さて、何を書いているのか、自分でも分からなくなりました。仕事しすぎですね。明日は愛知です。

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