欧米のオウム死刑批判への違和感

2018年7月10日

 明日から東京事務所の拡張に伴う引っ越しの手伝いに行きます。明日は書棚等解体、明後日が本番、明明後日が設営(夜は「自衛隊を活かす会」の非公開の抑止力連続講座)。ということで、きっと肉体労働で疲弊すると思われるので、今週のブログは本日が最後です。書きたいテーマがたくさんあったのですが、連載優先で我慢していました。まずはオウムの死刑問題。あとのテーマは来週。

 
7人の同時死刑ということで論議になっている。前例のないことなので当然であろう。

 私はいちおう死刑廃止論者である。犠牲者と家族のことを考えると、面と向かって堂々と言うのは憚られるから、日より気味の廃止論者である。
 しかし、欧米において、「人権」を盾にした批判が巻き起こっているのは、どうもいただけない。ダブルスタンダードとはこのことだと思う。

 もちろん、容疑者段階であれ刑が確定された段階であれ、その人権をどう守るかは大事であり、守るのが当然である。とりわけえん罪の可能性を100%防ぐことは絶対にできないことを考えると、死刑を容認することはできない。今回の死刑囚のなかには、判決を前後して自分に真摯に向き合ったものもいたわけで、人間の再生という問題を考えさせてくれた面もある。

 けれども、オウムによる一連の事件は、現在の欧米の基準で言えば、テロである。政治的な理由で無差別に市民を虐殺したテロである。

 そして、テロに対する欧米の対処の基準は、現在は「対テロ戦争」である。犯罪とみなして裁判にかけるのではなく、宣戦布告とみなして戦争をしかけるのである。

 戦争だから、テロリストは殺すのである。殺しても合法なのである。たとえ生け捕った場合も収容所に送られ、拷問にあっている。人権がどんなに侵害されても、戦争だから合法なのである。欧米がオウム真理教の事件に遭遇し、もし上九一色村のサティアンにサリンをもって容疑者が籠もり、投降の呼びかけに応じないなら、自分の身の安全のためにもサティアンを爆撃することだって選択肢になるであろう。

 そういう自分たちのテロに対する思想、やり方に何の反省もなく、何の自己検討もなく、日本を批判するのはお門違いである。日本は、オウムの犯罪に対して、ちゃんと犯罪として向き合ってきたのである。警察官だって不安だっただろうが、サティアンのなかを最後まで捜索し、麻原を確保した。そして日本は裁判を続けてきたのである。

 欧米は、日本の今回の同時死刑を批判するなら、自分たちの対テロ戦争の思想と行動にメスを入れるべきだ。そのきっかけとなるなら、今回の行為には意味があったと感じる。

 では来週に再会しましょう。お元気で。

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