「新潮45」休刊─商売の失敗であって言論の自由とは無縁

2018年9月28日

 久しぶりにiRONNAに寄稿しました。そちらは、「『新潮45』休刊は、言論の自由を装う「最後の悪あがき」に過ぎない」と、過激な見出しが立っています。まさか、小川榮太郎さんや藤岡信勝さんと一緒に寄稿するような時代が来るなんて、想像もしていませんでした。

 「新潮45」の休刊をめぐって様々な議論があるようだ。その中に、いくらLGBTをめぐる論調に深刻な瑕疵があっても、雑誌の休刊にまで至るような事態は、憲法の言論表現の自由という観点から問題があるのではという論調もあるとされる。新潮社が出した「休刊のお知らせ」を見ても、「『あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現』(9月21日の社長声明)を掲載した」ことへの「深い反省」が述べられており、あたかも自社の言論が休刊の理由であるかのように説明されていて、そういう論調を加速させているように思える。

 しかしこれは、「新潮45」の最後の悪あがきのように見える。ただの商売の失敗に過ぎないものを、言論の間違いと関連づけることで、休刊に「崇高」なものがあるかのように見せる詐術のようなものだということだ。

 「休刊のお知らせ」を見れば分かるように、「新潮45」は「ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤」していた。他の少なくない雑誌と同じである。その中で「新潮45」は、よく知られているように、右派の雑誌の仲間入りすることをめざした。現在の言論界では右派言論が主流を占めるようになり、左派の雑誌は見る影もなくなっているわけで、そういう選択肢はあり得たと筆者も考える。

 けれども、もう何十年も前からあまた刊行されてきた右派雑誌の中で、「新潮45」の独自の立ち位置をどうするのかという点は鮮明でなかったように思える。右派雑誌は雨後の竹の子のように乱立しているだけに、何か独自の路線を持てないと、どんどん埋没していくことになる。政治の世界を見渡しても、野党路線を嫌って保守路線を選択した「維新の会」などが、自民党とどこが違うかを打ち出せないで影響力を失っていくのと同じようなものである。同じ右派なら伝統ある自民党には勝てないのだ。

 その結果、「新潮45」の部数低迷に歯止めはかからなかった。そこから挽回を図るため、求められる独自性を他の右派雑誌よりさらに下劣なところにもとめるようになったのが、今回のLGBT企画であったと思われる。そんな企画で生き残りをはかろうとしたものだから、必然的に「編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた」(休刊のお知らせ)のである。そんなものを読者が読むはずがない。新潮社の声明は、LGBT企画に「深い反省」をしているようだが、実は、読者離れを食い止められず、商売に失敗したということを言っているに過ぎない。

 それなのに、「反省」を口にし、LGBTの人や左派の圧力で休刊に追い込まれたと装うことにより、言論の問題であるかのような構図を描き、最後の休刊の局面を迎えてさえ、右派に対して左派を攻撃する口実を与えているのである。「最後の悪あがき」と書いたのはそういう意味だ。もし、本当に言論の中身を「反省」しているのなら、どこが間違ったのか、どうすべきだったのかを言論で明らかにすることが不可欠であろう。

 筆者は、新潮社と違ってまったく知られてはいない会社ではあるが、出版業界に属す編集者である。新潮社と異なり左翼的な出版社なので、自分の経験を新潮社にそのまま当てはめようとは思わない。

 しかし、右派言論界よりさらに読者層の少ない左翼の世界だから、そこでの生き残りは並大抵のことではない。でも、だからこそ自信を持って言えることがある。

 例えば安全保障をめぐって言うと、自衛隊が存在すると日本は危険になるというのが、左翼言論界の常識であった。だが、毎年世界で戦争が頻発し、何十万人もが死亡するという現実のなかで、軍隊なしにやっていけるというのは、あまりに常識から外れている。

 そんな中で、かつての左翼の常識にとらわれていては、やはり生き残ってはいけないのだ。発想を根底から変えていかなければならない。

 そこで一一年前、『我、自衛隊を愛す 故に、憲法九条を守る』という本を刊行した。防衛省の元高官数名が筆者の本である。本の帯文は加藤紘一氏(故人、元自民党幹事長・防衛庁長官)に書いてもらったし、自衛隊の機関紙である「朝雲」にも広告を出すという異例の本であった。それまで「護憲」本は販売不振が続いていたが、この本は反響を呼び、かなり売れることになった。それ以降、この路線を突きすすんでいる。その後、自民党政府の官僚であった人の本も出した。近く、自民党の元幹事長とか、自衛隊の元幹部に登場願い、安倍首相の「加憲」案にもの申す本を出す予定もある。

 左翼的な常識からいうと、自衛隊と憲法九条は対立物なのである。けれども、その二つの親和性という現実に目をつむらないことにより、左翼業界の中でも新し読者層を獲得できたというのが、その小さな経験が示すことである。

 新潮社が「新潮45」をどうしようと考えているのか、筆者には何の情報もない。「廃刊に近い休刊」と会社の幹部が説明しているようだから、そうなるのかもしれない。しかし、もし言論を大切にする気が残っているなら、是非、右派路線を継続した場合でも独自性を発揮することは可能だという見地で、いろいろ試行錯誤をしてほしい。他の右派雑誌の行き過ぎをたしなめ、本物の右派、保守派をめざすという立ち位置である。

 その新しい右派の道を進む気持ちがあるなら、筆者には、「是非この人を編集長に」という提案がある。新潮社ともつながりの深い人である。その編集長のもとで豊かな言論を誇る右派雑誌ができれば、左翼の端くれに存在する筆者としても、闘いがいがあるというものだ。そうなれば、右派と左派が罵倒し合うのではなく、建設的に議論できる可能性が広がると思う。

 「新潮45」の今後に期待したい。だからこそ、重ねて言う。問題を言論の自由に還元してはならない。

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