政治家と市民運動家

2018年10月12日

 先日、福岡市長選挙で神谷さんを応援する演説を掲載したが、思わぬ反響があった。福岡の現地でも、自民や公明の応援を受ける強い現職と、独自路線の共産党という対決構図と思われていたが、そうでもないという雰囲気が私の演説で少しはできたと評価していただき、恐縮である。

 この問題は、私がずっと考え続けている問題でもある。政治家というのは市民運動の代表(というだけではない)という問題としてである。

 市民運動というのは(単純化してはいけないのは承知しているが)、やはり独自の理念があって、それを一直線に実現しようとするところに真骨頂がある。その全部は無理でも、一部をすぐに政治の場で実現しようとすると、政権との付き合いや妥協も必要になるから、すべてがそうだとは言わないけれども。

 でも、政治家というのは、市民運動の要求を代弁して政治の場で実現するという要素を持っているけれど、それだけではいけない。他の市民の別の要求と対立する場合はどうするのかを考えなければならないからだ。

 例えば私も参議院比例区の候補者をやったことがあるが、いろいろな場に同行してほしいという市民団体の要請がある。ほとんどは問題ないけれど、ある日、自衛隊の募集業務に反対する要請に同行してほしいと言われ、それは明白に断った。

 そういうことをやる市民運動があっても構わない。だけど政治家が同じことをしたら、「あの政党が政権をとったら自衛官の募集を停止することで、10年20年後に自衛隊員をゼロにするのだろう」ということになってしまう。自衛隊をリスペクトする国民が90%もいるもとで、そんなことをして国民の代表として選ばれるわけがない。将来、自衛隊がなくなるような世界を展望するという理想は語っても、政治家として現実に自衛隊を運用することも語らないといけないわけだ。

 そうでないと、安倍首相の左翼版でしかなくなる。「こんな人たち」と安倍さんが排除の論理に立ったように、「こんな自衛隊の人たち」を排除する政治家になるのである。

 最近、自民党がモノトーンの政党になったと言われることがある。それは事実だと考えるが、左翼も同じモノトーンだというのが国民の印象ではないか。豊かさ、幅広さを左翼が売りにするようにならないと、国民の代表ということになっていかない。せっかく安倍政権でモノトーン化が進んでいるんだとしたら、いまこそ左翼が生まれ変わる好機だと思うのだが、どうなんでしょうかね。

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