この夏、ベストの反戦作品は?・中

2013年8月22日

 ある戦争を小説で取り上げる際、その戦争の性格をどう描くかというのは、そう簡単なことではない。いや、書くだけなら簡単かもしれないが、それが芸術作品として人の心を揺さぶるまでに仕上げるのは難しいと思う。

 この作品も、日本の戦争を侵略だという言葉で表現しているわけでもないし、そのような自覚をもった人びとが登場しているわけでもない。実際、共産党が弾圧され、壊滅状態になってから10年以上もたっている終戦直前のこの時期に、しかも戦争の現場を描いているのに、そういう人物を登場させたりしたら、それこそリアリティのない小説になってしまうだろう。

 それに、侵略の側に立っているか、その侵略を受けて防衛の立場に立っているかで、兵士や家族の心情を完璧に書き分けられるのか、そういう手法が正しいのかも、難しい。防衛の立場なら家族は喜んで夫を送り出せるが、侵略の立場なら反対するという簡単な構図は成立しないだろう。残された家族が生活その他で苦しむのも、共通の要素がある。

 だから、戦争の性格を書き分けなくても、一般的な戦争小説が反戦意識を高めるという場合がある。戦争下で暮らす人びとをリアルに描けばそうなるわけだ。『終わらざる夏』もそういう要素がある。というか、浅田次郎は、戦火の下にあるいろいろな人びとを登場させ、その心情を描きだすことには特別の才能があると思う。

 だけど、この小説のすごいところは、別の手法でこの問題に挑戦していることだ。侵略と非侵略を描き分けていることだ。

 ひとつはソ連の兵士の描写である。スターリンの悪行を心底から憎んでいるコサック出身の兵士が、対ドイツの戦争ではそれでも崇高な気持ちで戦えたが、戦争が終了し、祖国に帰れると思ったのに、日本の領土である千島攻撃に動員される。こんな道理のない戦争には参加したくないという強い思いが描かれることによって、戦争にも性格の違いがあるのだということが伝わってくる。

 それは日本側からみても同じである。中国戦線で多大な功績をおさめ、天皇陛下から勲章をもらった一兵士が、自分の勲章がどんなに意味のないものであるかを語る。その一方で、占守島攻防戦にだけは、自分の全生涯をかけて戦うべき戦争だという位置づけを与え、死んでいくわけである。

 圧倒的な部分は戦争それ自体の生みだす悲惨を描き、物語の中核部分でだけ、そうやって戦争の性格を区別して描きだしている。そこに、リアリティというものと歴史観というものが融合しているように感じる。(続)

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