批判、共感、支持

2014年1月22日

 何のことか分からないだろうけれど、昨日の記事の続きである。だけど、都知事選挙からはずれていくので、別のタイトルにした。

 私が現在のような立場に立つにいたった契機になった問題のひとつとして、拉致問題がある。もちろん、北朝鮮による日本人拉致のことだ。

 拉致といえば、以前は左翼の独壇場だった。国会で追及するのも左翼、集会に参加するのも左翼だった。

 ところが、いつの間にか右翼の専売特許となり、左翼は片隅においやられる時期が続くことになる。国会では、北朝鮮が拉致した証拠はなく、ただの疑惑に過ぎないという質問をする左翼もあらわれた(犯人が韓国の裁判所で拉致を証言して判決も確定しているのにである)。

 そうなった理由は、いまあげたような立場の表明以外にも、いろいろある。左翼の中には、北朝鮮がそんなことをするはずがないという、北朝鮮に対してびっくりするほど甘い立場のものもいた(一部だけど)。小泉さんの訪朝で拉致が確定して以降も、たとえば被害者の一時帰国の際、北朝鮮にいったん戻るのか戻さないのかが問題になったとき、憲法の居住地選択の自由・権利を持ち出して、帰るといわざるを得ない精神状態にあった被害者を戻すべきだという左翼もいた(一部だと信じたいけど)。

 ただ、そういうことも含めて、根底にあるのは、被害者とかそれに同調している国民への共感が欠けていたことにあると私は感じる。家族が何の落ち度もないのに拉致され、長期間拘束され、それを心配している気持ちへの共感である。

 いや、共感はあったというかもしれない。だけど、まず口から出てくるのは、かつての日本はもっと大規模に朝鮮半島の人びとを拉致したからおあいこだとか、北朝鮮に対しては対話をすべきで圧力をかけてはならないとか、悲しみに暮れている家族にとっては、とても共感しているとは受け取れない言葉が多かったと思う。

 もちろん、拉致問題の運動をめぐって、批判すべきことはあったと思う。だけど、その批判を聴く気にさせるには、気持ちの上で共感が必要である。「この人は拉致された被害者とか家族のことを本気で心配している」ということが伝われば、そこで共感し合えれば、「軍事制裁は行きすぎだよね」というようなところでは意見が食い違っても、胸襟を開いて話し合えることになる。共感できなければ、批判以前に、話し合いそのものが成立しなくなる。

 いや、これは特定の問題だけのことではない。何にせよ、誰かを説得しようと思えば、どこかでその人と共感しあう部分がないと対話にならない。

 都知事選をめぐって、脱原発を本気で考え、進めている人たちが、2つに分かれて闘うことになる。その闘う相手を、脱原発の仲間として敬い、共感し合うことが大事だと思う。そうでなければ、批判を聴く気にさせることはできない。ましてや、細川陣営についた人びとのことを中傷したり、揶揄するようなことでは、都知事選で宇都宮さんへの支持を広げることはできない。それどころか、脱原発の市民運動は、急速にしぼんでいくことになるだろう。左翼退潮のきっかけとなった拉致問題の二の舞になりかねない。

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