2018年11月30日

 突然のお知らせです(うすうす気づいておられた方もいるでしょうが)。昨日、弊社の株主総会が開かれ、私の希望通り、編集長を退任することを承諾して頂きました。

 このブログは、タイトルが示すように、「編集長」の冒険でして、編集長でないものが続けるわけにはいきません。ということで、本日が最後の記事です(この5年半の記事はホームページのどこかにアーカイブとして残るはずです)。

 12年前にかもがわ出版に入社し、初めて編集の仕事をやってみて、いろいろ勉強になりました。大手出版社と異なり、「売れる本をつくらないと会社が傾く」という因果関係が明確なものですから、「何が読者に支持されるのか」に敏感になりました。とはいえ、理念を曲げてはいけないわけですから、その間で揺れ動き、考えさせられることが多かったです。

 編集長を退任したからといっても、私の社会活動が終わるわけではありません。引き続き編集主幹として本も少しは刊行していきます。いよいよ憲法改正が大きな問題として浮上してきますし、日本の政治をどうしていくかも問われてきまから、これからが正念場です。

 ということですので、ブログは別の場所で続けることにしました。どこかで聞いたことのある「超左翼おじさんの挑戦」です。これからはそこでお会いしましょう。

 では、編集長としては、さようなら、です。長い間、ありがとうございました。

2018年11月29日

 別テーマに移ろうと思ったけれど、質問があったので再論。自衛権発動の要件にかかわる問題だ。

 国際法上の自衛権の3要件のトップは「急迫不正の侵害があること」とされてきた。これって、見ただけで分かるけれど、「武力攻撃が発生したこと」という現在の要件とはだいぶ印象が異なる。これでは人権侵害なのか領土侵害なのか区別していないように見えるからだ。

 実際、古い3要件時代、自衛権は幅広く解釈されてきた。「野蛮な国」で商売している自国民の生命が脅かされているなどとして、自衛権名目で軍隊を送ったりしていたわけだ。

 ここを転換したのが国連憲章である。51条により「武力攻撃が発生したこと」が要件とされ、それが長い時間をかけて定着してきたわけである。

 国連憲章の草案の段階では、このような規定はなかった。ラテンアメリカ諸国から、個別自衛権だけでなく集団的自衛権も認めるような文言にすべきだという提案があり、これに対してアメリカが当初、集団的自衛権だけには「武力攻撃が発生したこと」を要件とする修正を提示する。集団的自衛権の濫用を警戒したアメリカが、個別的自衛権よりきびしい要件にしようとしたわけである。

 「侵害」だけでは武力による侵害とはならないが(人権侵害でも自衛権が発動できるように読めるが)、「武力攻撃(armed attack)」だとあくまで軍隊による攻撃を指すことが明確になるからである(逆に言うと、この時点では、個別的自衛権は人権侵害でも発動できるという暗黙の了解があったということでもある)。左翼の世界では、集団的自衛権というのは戦後世界での覇権をめざしたアメリカの策動で挿入されたことになっているが、実はアメリカは集団的自衛権を抑制する立場に立っていたわけだ(この経緯は森肇志の名著『自衛権の基層』に詳しい)。

 ところが、経緯はあまり明らかにされていないのだが、修正議論の過程で、個別的自衛権と集団的自衛権の要件がともに「武力攻撃が発生したこと」とされるに至る。その結果、自衛権の要件は「武力攻撃が発生したこと」と確定した。古い「急迫不正の侵害があること」を持ちだし、「マイナー自衛権の発動はこれで良い」とする議論もあったが、戦後の戦争をめぐる国際政治における議論のなかで克服されてきた。

 だから、やはり人権侵害があれば自衛権を発動できるという議論は、根本的に間違っているわけだ。武力攻撃があろうとなかろうと人権は大切にされなければならず、そのために努力もしなければならないが、自衛権を発動して対処するのは、あくまで「武力攻撃が発生したこと」が要件になるということだ。

 しかも、人権を理由にした自衛権の合理化というのは、政府の集団的自衛権行使の合理化に使われた論理なので、そこに引きずられる可能性があるという点でも、認めてはならないと思う。ただ、武力攻撃に対して自衛権を行使するのは、大きく言えば武力攻撃によって国民の人権が犯されるからではある。それにしても、自衛権を発動できるのは「武力攻撃の発生」が確認されてからということだ。(続)

2018年11月28日

 人権は大切だけれど、それが侵害されたら即、自衛権を発動できることになったら、世界は無茶苦茶になる。世界であれ日本であれ、日本国民の人権が侵害されたら、侵害している相手を自衛隊が攻撃できることになるのだから。これって、拉致されたから北朝鮮を攻撃せよというのと同じ論理になっていく。

 しかし、よく考えてみると、集団的自衛権行使の閣議決定というのは、その水準のものだったわけだ。しかも、人権侵害の「明白な危険」があれば自衛権を行使するというのだから、よけいに無茶苦茶である。

 だから、本来的にいえば、人権を理由に自衛権を行使してはならないという主張は、この閣議決定を批判するために使われるべきなのだ。ところが、ここに倒錯が生まれてきた。

 憲法学者の木村草太さんが、個別的自衛権の根拠は13条にあると言いだした。昨日も書いたが、もともとは13条にある人権を大切にするためにも、それを侵害するような武力攻撃があったら自衛権を行使できるというのが本来のあり方だったのに、直接に人権を根拠とした自衛権行使と捉えられた。

 さらに、木村さんの主張は、集団的自衛権行使を合理化する日本政府の主張を引いているものなので、余計にややこしくなった。木村さんの主張がそのまま集団的自衛権合憲論になりかねないのである。そういう意味で、人権を直接の根拠とする個別的自衛権合憲論は危うい側面を持つ。

 さらに、さらに、より複雑なのは、じゃあ人権問題では絶対に武力行使できないのかという、別の問題が重なってくるからだ。これを単純化すると、ナチスによるユダヤ人虐殺に匹敵するようなことがあっても、世界はただただ黙って見ているべきだということになってしまう。

 重大で組織的な人権侵害がある場合、世界は介入すべきであるというのが、国際法の到達である。ただし、各国が勝手に行使する自衛権の枠組みではなくて、国連安保理による授権があった場合に限るわけであるが。

 さらに、さらに、さらに、もっと複雑なのは、国連人権理事会が任命した北朝鮮人権問題特別委員会の結論は、北朝鮮の人権問題はまさに安保理による介入を求めていることである。しかも、拉致問題についても、それと同じ性格の問題だと位置づけているということである。

 ただ、これは自衛権の問題ではないので、この連載ではこれ以上深入りしない。明日からは、自衛権と自衛隊の問題に移っていく。(続)