2018年9月11日

 非常に大事な私用ときつい出張があるので、明日から来週の火曜日までお休みします。この間、会社の営業成績のため、個人的な用事を放棄してきたので、それをまとめてやらなければなりませんので。

 このブログを始めたのが2013年4月ですから、もう5年以上続いているんですね。それ以前、会社ブログでない個人的なブログとして「超左翼おじさんの挑戦」(開始時は「編集者が見た世界と日本」という平凡な題でした)は、2007年頃からやっていたでしょうか。さらにそれ以前、共産党で仕事をしていた頃も、もうタイトルさえ忘れたけれど、個人でホームページを開設していて、勝手なことを書きまくっていました(これは全データが残っています)。合計で15年以上になるんでしょうかね。

 その間、記事を1週間も書かなかったことって、一度もなかったと思います。常に、「これが書きたい」というものがあったんですね。

 その意欲は衰えていないというか、ますます盛んという感じかな。だって、安倍さんが次の臨時国会に改憲案を出してくるというわけですから、こちらもがんばろうと思いますよね。

 ただ、この「編集長の冒険」というかたちで続くかは、お約束できません。だって、これはタイトルの通り、「編集長」でいる間しか通用しないんですよね。もうそれなりの歳なので、常識的に、どこかで編集長は降りることになるわけですよね。そうしたら、また、個人のブログに戻らなければなりません。誰か、いいタイトルを考えてください。

 それに、これは会社のブログだから、やはりコメント欄をオープンにできないという制約があるわけです。改憲をめぐって安倍さんと勝負しようというときに、コメント欄を閉じて議論するって、あり得ないでしょ。

 ということで、1週間のお休みは、新しい挑戦に向けた踏み台になるかもしれません。引き続き、いろいろなかたちで応援していただくと幸いです。

2018年9月10日

*「抜本的な政治改革を遅滞なく実施すること。こうした変化には、独立した公正な司法、多党政治システム、真に自由で公正な選挙で選出された…議会が含まれるべきである」
*「独立系新聞社及びその他のメディアの創設を許可すること」
*「国家、民族、政治的憎悪、戦争を賛美する一切のプロパガンダや教育活動を廃止すること」
*「キリスト教徒や他の宗教信者が、懲罰、報復、監視の不安なく、独立し、かつ公正に信仰できるようにすること」
*「教育や雇用機会などの問題も含めて、政治的忠誠心や家族の社会政治的な背景の認識による国民差別をなくすこと。近隣住民による監視、……あらゆる監視を撤廃すること。過去に実施した監視の範囲を公に認め、住民登録ファイルへのアクセスを国民に許可すること」

 使われている用語が新しいので、昔の文書だと思う人はいないだろう。だが、戦争が終わり、日本が求められた改革の内容と重なるとは感じて頂けるのではないか。

 これは、国連人権理事会が設置した北朝鮮の人権問題の調査委員会が、いろいろ実態を述べた上で(45万字も)、結論として北朝鮮に対して求めているものの一部である。さらに、以下のような内容もある。
*「人道に対する罪の首謀者とされる者を訴え、法の裁きの下に置くこと」

 これは、名前は出していないが、金正恩を裁判にかけろと言っているわけだ。ただ、一般論として言えば、日本もまた戦争の首謀者を裁判にかけると求められたわけだから、北朝鮮に対して求められたものとほとんど同じだと言っていい。

 そうなのだ。この長い報告書を読んでいると、日本のことがすぐに思い浮かぶようになっている。たとえば、先ほど「近隣住民による監視」と書いたけど、「近隣住民による監視(人民班)」となっていて、その人民班というのは、まさに日本の戦中の隣組のシステムなのである。まあ、日本に統治されていたわけだから、そういうことも含め学んだのかもしれない。

 で、何を言いたいかというと、北朝鮮の非核化と体制保証という課題は、この日本がしゃしゃり出ないとダメだということだ。同じ経験をしようとしているわけだから、日本の経験を適用するよう努力すべきだということだ。天皇を裁判にかけることだって想定されていたのに、体制保証されたということも含めてね。

 体制保証されても、北朝鮮の人権問題を野放しにしてはいけない。だって、北朝鮮では戦争を(とくにアメリカ、日本、韓国との戦争を)賛美するような洗脳教育がされていて、それが核・ミサイル開発につながっているわけだから、教育体制の抜本的な改革なしに、戦争の危機は去らないのである。

 そのあたりの深い構造を、今度の本で描ければいいな。

2018年9月7日

 忙しい。だから、『北朝鮮というジレンマ』の「第四章 ジレンマの克服」の書き出しで、お茶を濁します。

 *二〇〇二年九月一七日、平壌百花園迎賓館
小泉純一郎「お国は、戦争準備をやめて経済発展に力を入れるべきだ。そのためにも核問題について約束を守っていくことが大切だ」
金正日「核の問題は、朝米の問題だ。日本と話す問題ではない。米国は約束を守らない。米国が朝鮮と関係改善しようという意思は一%もないのではないか。朝鮮を『悪の枢軸』と言った。戦争か、話し合いか。われわれは実際に戦ってみないといけないと思っている。しかし、常に門戸も開いている。日本は、米国の同盟国だ。米国と最も信頼関係のあるアジアの国だ。日本のリーダーである小泉総理に、問題解決のために努力してもらいたい」
小泉「アメリカからは私の訪朝について懸念する声もあった。しかし、米朝関係が緊迫しているからこそ、日本がやるべきことがあると考えている。それをやるためにも、日本にとって一番大事なのは拉致問題の解決だ大事だが、それはどうなっているのか」
金「朝日関係を正常化する上で解決すべき基本問題は、過去の清算。日本側の真剣な対応を望む。日本側が提起した問題だが、行方不明者のうち八人が死亡したが、五人が生存していることを確認した」
小泉「とんでもないことだ。行方不明者ということで片付かれては困る。お国がやったことだろう」
金「特殊機関内の一部の者が英雄主義に陥ってついやったことだ。自分としては、この場で遺憾なことであったとおわびしたい。このようなことが二度と起きることがないように適切な措置を取ることとする」
(各種の報道、情報からの筆者による要約と推測)

 *直後の「三階書記室」(労働党委員長書記の部屋のこと)  
姜錫柱(カン・ソクジュ)第一外務次官「小泉の平壌訪問を前にして、会談内容をめぐり、何回か協議したが意見がまとまらない部分があった。小泉は日本人の拉致問題の解決なしには、一歩も前に進めないという立場にこだわった。この問題でわれわれが譲歩すれば、日本側も譲歩するという説明を受けた。金正日総書記は、会談前には、自分から拉致問題に言及することは避け、会談の合意文にそれとなく拉致問題を書き込む妥協案を胸に抱いていたが、経済支援を得るために、仕方なく拉致問題に自分から言及することになったのだ」
太永浩(テ・ヨンホ)元駐英北朝鮮公使の内心「日本チョッパリ(豚の足、日本人への蔑称)に、わが国の指導者が謝罪するなど、想像もできないことだ」
姜「日本の首相から反省と謝罪を引き出すことは、南の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領さえできなかった。しかし今回、日本は北朝鮮に対して、経済支援方式での戦後補償を約束した。少なくとも一〇〇億ドル(一兆円)は入ってくるのだ」
太「胸が高鳴った。外務省の同僚たちも、興奮した様子だった。巨額で、重要なカネだと話し合った。北朝鮮の経済発展は、すぐ目の前にある」
(五味洋二「脱北元公使が明かす『日朝平壌宣言』の舞台裏」東洋経済オンライン(2018/05/22)による太永浩『3階書記室の暗号』の紹介文からの筆者による要約と引用)

 北朝鮮はこれまで、青瓦台襲撃事件(一九六八年)、ラングーン事件(一九八三年)、大韓航空機爆破事件(一九八七年)など海外で次々と大事件を引き起こし、多くの人びとを殺傷してきた。しかし、それらの事件について一度たりとも謝罪したことがないどころか、事件を引き起こしたのが自分だと認めたことさえない。けれども、その唯一の例外が小泉純一郎首相(当時)が訪朝した際、金正日が国家による拉致を認め、謝罪したことであった。当時、アメリカのブッシュ大統領は、北朝鮮がウラン濃縮による核開発をしているとの疑惑を抱いていた時期だけに(実際、小泉訪朝の翌月、北朝鮮はアメリカにその事実を認め、九四年枠組み合意は崩壊に至ったことは、第一章で述べた通りである)、日本が北朝鮮に宥和政策をとることを懸念していた。つまり、アメリカの思惑通りに動くという日本外交の常識を覆したことによって、北朝鮮による史上初の謝罪が実現したのである。あの時、小泉氏が訪朝しなかったら、拉致問題はいまだ闇の中だったかもしれない。
 そう、「北朝鮮というジレンマ」から脱却するためには、外交の常識を逆転させることが必要なのかもしれない。トランプと金正恩だって常識外の指導者だから、今回の合意に至ったのかもしれないし。

2018年9月6日

 時々、趣味で考えつくことをやります。本日午後、立命館大学国際平和ミュージアムを訪ねるのですが、そのうち、「世界の平和博物館を訪ねる旅」をやりたくて、そのご相談です。

 立命のミュージアムの名誉館長をしている安斎育郎先生のホームページを見ると、リンク先の海外の平和博物館がこんなにあります。

National Museum of Australia Canberra
Franz Jagerstatter House St. Radegund
Austrian Peace Museum Project, Schlaining
International Esperanto Museum, Vienna
First Austrian Peace Museum Wolfsegg
The World Centre for Peace, Freedom and Human Rights
Caen Memorial
Anti-War Museum, Berlin
Museum “Haus am Checkpoint Charlie”, Berlin
Bridge at Remagen Peace Museum
Gandhi Smarak Sangrahalaya Ahmedabad
National Gandhi Museum and Library, New Delhi
Gandhi Memorial Museum Madurai
International Museum of The Red Cross, Castiglione
Anne Frank House Amsterdam
Netherlands Institute for War Documentation
Peace Palace and Library The Hague
Narvik Peace Centre
Nobel Peace Prize Museum Project, Oslo
International Red Cross and Red Crescent Museum, Geneva
League of Nations Museum Geneva
National Peace Museum Project, Bradford
Imperial War Museum London
Peace Observatory Programme
Sword Into Plowshares Peace Center and Gallery, Detroit
National Civil Rights Museum (at the Lorraine Motel)
The Peace Museum, Chicago
Prairie Peace Park, Lincoln
International Museum of Peace and Solidarity, Samarkand

 ヨーロッパが中心のようですが、アメリカも複数あるし、アジアもインドやウズベキスタンにあるようですね。ツアーを組むとすると、最低でも3回が必要ですね。全部を訪ねるとすると、ヨーロッパだけで3回かなあ。

 でも、目的が鮮明で、訪問先と深い交流ができるから、きっと評判のツアーになると思います。これが本として結実するかどうか、まだ分かりませんけど。

 明日の午前はバルセロナとロッテルダム、ベニスの旅のご相談です。これは明確に本と結びついていて、観光都市京都をどうしていくのかという問題意識で両方を企画します。

 現在、京都では外国人客の急増で、いろいろ問題が起きています。毎日片道30分かけて徒歩で出勤するんですが、その途上、どんどんホテルが建設されていて、多くは、いわゆる民泊用です。「ホテル用地を探しています」という看板もよく見かけます。このかもがわ出版の土地も、いま中国資本に売ったら高いだろうなと思わせる。

 バルセロナって、そういう経験をしているんですね。それで外国人客の総量規制に乗り出したそうです。ちょうど、バルセロナを専門的に研究している先生が今月から留学されたということで、来年初頭にツアーを組むと、現地のそういう状況がよく勉強できるんじゃないでしょうか。

 そうしたら、来年春に統一地方選挙を闘う候補者の方とかが、こぞってツアーを申し込んでくれるかもしれません。そして、そこで学んだことを材料にして、来年中に京都とバルセロナの観光問題で本をつくり、再来年初頭の京都市長選挙に間に合わせようというもくろみです。

 さて、どうなるか。乞うご期待です。

2018年9月5日

 昨日は台風で大わらわ。当然、福知山で行われる予定だった講演会は中止。テレビを見ていたら、講演開始予定の午後二時半、福知山も大雨暴風警報が出ましたしね。私は、自宅に籠もって、風で飛んできたものが窓を破る可能性があるので、カーテンを閉め、窓から離れたところで書き物をして過ごしました。本日も忙しいので、『北朝鮮というジレンマ』の第三章「ジレンマの核心」の冒頭部分をご紹介。

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 ○○年○月○日
 兄は一九六〇年に北朝鮮に帰国した。「共和国で立派な学者になり、社会主義建設に役立つ働き手になる」が口癖だった。翌年には姉も帰国する。
 父や朝鮮総連の少しは名の知れた活動家。母も女性同盟の活動家だ。そして自身もかつて在日本朝鮮青年同盟の専従者であった。いわば活動家家族なのである。
 兄は出発の時、「落ち着いたらすぐお前を呼ぶから。そうしたら家族みんなで一緒に帰ってこい」と言葉をかけてくれた。
 それから二十数年。兄と姉から届く手紙は、ありとあらゆるものを送ってほしいというものだけ。帰国を促す手紙は来ない。どうしても会わずにおれないと思い、朝鮮総連の訪問団の一行として万景峰(まんぎょんぼん)号に乗り、ようやくたどり着いた北朝鮮の清津港であった。船から見える山の中腹には、「偉大な首領金日成元帥万歳!」の白い文字が見える。
 しかし、出迎えの人の中に、兄も姉もいない。歓迎式典は金主席の巨大な肖像画に頭を下げるところから開始されるが、式典が終わってもやってこない。その後も、バスや汽車に乗せられていろいろなところを訪れ、金日成の像に「歓迎」され、金日成の「天才的指導」の成果である工場や農場を見せられ、人びとがいかに「ほかにうらやむものがないほど幸福な生活」を送っているかを説明されるが、兄と姉には会えない。いや、兄と姉に会えないどころか、公式用語しか話さない人とは出会えるが、そこで暮らす生身の人間にも接触できない。バスから汽車に乗り換えるにも、一般の人の通れない「特別の裏口」が用意されているのだ。ただ、遠くから眺めることはできるので、北朝鮮の人びとの身体が、自分たち在日より一回り小さいことは分かる。
 数日後、ようやく汽車は平壌駅に到着する。しかし、やなり兄も姉もいない。平壌での日課は「学習、学習、また学習」である。日本のようにいろんなことを伝えてくれる新聞や電波もないので、金日成の生家や工場、博物館などを次々と訪ね、ただただ共和国の偉大な成果とそれを生んだ金日成の指導を学ぶのだ。ただし、一人で散歩することは許されない。一般の人と会わないよう隔離するのだ。なお、あとで分かったことだが、平壌には「思想性の低い」ものは住めない。人の衣装も家屋もこれまで見てきたよりも良さそうだ。到着日は一日に四回、金日成像におじぎを強要された。その金日成が住んでいるという「宮殿」も遠くから見える。日本の皇居に勝るとも劣らない。二千数百人の使用人がいるそうで(中に入れないので確かめられないが)、主人は、特別農場や牧場でつくられた野菜や牛肉しか食べない。いや、海外のものなら、松阪牛も食べるそうだが。
 十数日を経て、平壌を出て、地方学習の旅になる。兄と姉に会えるかもしれない。日本から同行した一人は、ただちに帰国した自分の息子に会うことができた。しかし、なかなか息子だと分からなかった。なぜなら、親である自分より老けていて、やせ細っていたからだ。
 日本を出発して一九日目、ようやく姉と会うことができた。ただただ胸を抱き、泣くだけだった。けれども、なぜ兄が来ないのかの問いには、寂しそうな顔で、「家族訪問の時に分かる」と答えるだけ。納得できずに問い詰めると、「社会主義建設に忙しくて」。日本にある朝鮮高校の同窓生から、帰国した弟に会ってきてほしいと依頼されていて、会えることができた。その弟は、「この部屋は盗聴器があるから」と別の部屋に行き、「二つも盗聴器をつける予算はないから」と、驚くべき体験を語ってくれる。帰国前は「地上の楽園」と思っていたが、その日から衣食住に事欠く生活で、わずか二日で、奈落の底に突き落とされる。逃亡を企てた帰国同胞は後を絶たなかったが、政府は公開銃殺でそれに応えた。国全体が刑務所のようなものだ。
 そして日本を出てから二七日目。ようやく「家庭訪問」である。兄の家庭を訪ねるのだ。しかし家庭に着くまえに、まず金日成像へのお参りである。そして家の前へ。しかし兄の姿は見えない。姉と会ったときに抱いた不吉な予感は当たった。姉から案内されたのは兄のお墓だったのだ。お墓の前で誓った。
 「兄さん、奴らでしょう。〝首領さまの国にダマされて連れてこられた十万もの純粋無垢な在日同胞をいじめ、痛めつけているのは。この恨みはいつの日か、きっと晴らしてやる」
(金元祚『凍土の共和国──北朝鮮幻滅紀行』(一九八四年刊行)より筆者による要約)