2018年7月25日
岸田さんが総裁選不出馬を表明し、さらに安倍さんを支持するとのことです。その安倍さんは、憲法問題が総裁選の争点になると明言しています。ということは、秋以降、やはり憲法が国民的な議論になる時代がやってきますね。
護憲派に石破さんを支えるという度量があれば、また違った展開もあるでしょう。実際、石破さんは本格的な改憲論者だけど、本格的なものをめざすだけに、現状の憲法論議で加憲することには異議を唱えているわけですから、加憲阻止でタッグを組める相手だと思います。だけど、多くの護憲派にとっては、それは毒を食らうようなもので、受け入れることができないでしょうからね。加憲か加憲反対かという構図にならざるを得ないと思います。
安倍さんがモリカケ問題から逃げ切れたのは、本人が言ったように、「贈収賄ではない」からです。「私や妻が関係していたら辞任する」という言明だったのが、いつのまにか贈収賄でなければ辞任しないということになったのを捉え、「ずるい」と言う感覚はあるでしょう。だけど、常識的に言って、政治家というのはいろいろな案件に関わるのであって、「関係していたから辞任せよ」というのでは、野党議員が地元の陳情を受けて、それを実現することだった問題になってきます。確かに、安倍さんの言明が変わったのは、潔くないことでしょうが、やはり「辞任」問題にまではならないのが普通の感覚でしょう。
もし、安倍さんが追い詰められる可能性があったとしたら、加計問題での文書改ざんでした。安倍さん自身が直接に関わっているかどうかは別にして、贈収賄と同様、そこに明白な法律の侵犯があれば、行政の長として何らかの責任が浮上したはずです。だけど、大阪地検が立件しないことを決めた時点で、それもなくなったわけです。
情けないと言えばそうでしょうが、法律違反行為があるかないかが決め手になるのは当然だと思います。「関係していたら」の言葉に引きずられ、関係の証明に躍起になったことは、反省しなければならないでしょう。ただし、「関係があった」というだけでなく、「その関係が国民の常識から大いに外れている」という追及は国民の心を捉えた面もあるわけで、今後もボディーブロウのように効いてくるかもしれません。
いずれにせよ、憲法ですよ。日本の永い歴史のなかで、はじめて、国民の一票が国のあり方を左右する一票になるっていう感じで、わくわくします。まだまだやるべきことが山積みです。
2018年7月24日
この二つの関係をどう見るかで、ずっと悩んできた。とりわけ最近、立憲主義が幅を利かせていて、民主主義に任せていては安倍さんのように法を犯す人が出てくるから立憲主義が大事なのだ、という論点が目立っているので、余計に悩んでいる。
だって、いくら安倍さんが立憲主義を理解していないとか違反しているとか主張しても、この民主主義の世の中で、国民多数の支持を得て政権を執り続けているわけだ。結局、立憲主義って、少数派が「それでも正しいのは自分だ」と自己満足する道具のように見えてしまう。
だから、どちらも活かす考え方がないのかと思ってきた。立憲主義のほうが民主主義より上というのではない考え方だ。
そうしたら、「赤旗」の7月3日付に、成蹊大学名誉教授の加藤節さん(政治哲学)のインタビューが載っていて、非常に納得のいくものだった。加藤さんは安倍さんが大学時代に教えたことがあるという先生で、舌鋒鋭い安倍批判で知られている。
その加藤さん、現在の日本の政治状況を、「法が終わるところ、暴政が始まる」というジョン・ロックの言葉を引いて説明している。そして、法の支配、立憲主義の大切さを説くわけだ。
しかし同時に、「『法の支配』といっても、結局は『人の支配』なのです」という現実を直視する。そして、「立憲主義には、安倍首相のように法を信頼しない人が出てきたら、簡単に無に帰する脆弱さがある」ときびしい評価を加える。「立憲主義が成り立たなくなる」わけだ。
問題は、「そのとき、どうするか」。これがインタビューの核心である。以下、引用。
「権力が法を破って暴走するときに、ロックが唯一の歯止めにしたのが『抵抗権』『革命権』です。結局、民主主義(リベラル・デモクラシー)による歯止めしかない。『法の支配』が『人の支配』に転化したとき、それを乗り越える運動としての民主主義が重要になります。『憲法守れ』『法を守れ』と国民の多数が声を上げて『不法な権力』を乗り越えていく方法しかないのです。それによって野党をわれわれが支えていかなければ力にならない。立憲主義を強化していくためには『抵抗権』や『革命権』を極致とする民主主義が重要だというのがロックからのメッセージなのです。」
一つひとつは当たり前のことを言っておられるのだが、民主主義と立憲主義の関係という視点で見ると、大変説得的だと考える。だから「赤旗」はやめられない。
2018年7月23日
国会が終わって、政治の関心は自民党総裁選挙に移ることになる。安倍さんが総裁選の争点として「改憲」を提起したから、その行方も焦点だ。
ところで、国会の終わりかけになって、マスコミなどでも「最後の攻防」という言われ方がされていた。野党も不信任案を出したりして、盛り上げようとしていた。
しかし、どうなんだろう。勝ち負けが見えている闘いを「攻防」と言っても仕方がないように思うのだが、それは間違っているだろうか。野党に勝算があって闘っているなら別かもしれないけれど。
もともと、国会での闘いというのは、議席数は決まっているわけで、多数派が必ず勝つことになっている。不信任案を出しても必ず否決されることになっている。
それでもなぜそういう戦術をこれまでとってきたかといえば、与野党の差が小さい場合は、与党のなかに逡巡や動揺が広がって、野党に同調するものが生まれる可能性があったこともある。あるいは、その可能性がなくても、その闘い方によっては野党への支持が増え、次の選挙につながる可能性があったからだろう。
けれども、これだけ与野党の差がありすぎると、そういう効果は期待できなくなっているように思う。「死んでも最後までラッパを離しませんでした」という程度の効果であって、支持者だけが燃え上がり(それもたいていの人は冷めている)、新たな支持者を獲得するようなことはない。
野党は原点に立ち返って考えるべきではないか。あれこれの戦術は、あくまで新たな支持者を獲得するために何が必要かをふまえてつくられたものであって、戦術が先にあるのではないということだ。国会の最終盤の局面では、どうすれば支持者を増やせるのかを考えて、そこから戦術を編み出すべきだということだ。
国会だから徹底審議を求めるのは当然である。しかし、すでに法案の採決が決まった局面では、不信任案を出しても、審議が深まることはない。ただ採決の時間が早まるか遅くなるかというだけのことだ。
先述したように、与党内に亀裂が生まれる可能性があるとか、与党の支持者が野党支持に回る可能性があるなら、採決局面でそれを伸ばす選択肢はあるだろう。しかし、そういう可能性が望めないなら、別のやり方を探究することがあっていいのではないか。
何十年とやってきたから正しいということはない。安倍一強時代にふさわしい国会戦術とは何かを探るべきだ。
今回の局面でいえば、誰が見ても採決が避けられないということになったら、一刻も早く採決せよと促し、採決の場からただちに被災地に向かうようなパーフォーマンスもあり得たと感じる。そのパーフォーマンスの中身次第ではあるのだが。
2018年7月20日
「対米従属の軍隊」という本質規定と並んで、ずっと言われてきているのがこれである。そういう規定をする人の間では、「本質は変えられものではない」という認識と一体になるものだから、廃止するしかないという結論になっていかざるをえない。
しかし、前回の「対米従属の軍隊」と同じ論じ方になってしまうのだが、じゃあ、どうやって廃止するのかということだ。安倍首相に「対米従属の軍隊だから廃止せよ」と迫るのか、枝野さんに求めるのか。そんなことを主張する人が国民多数の支持を得て自衛隊を廃止する政権を確立できると思っているのか。あり得ないだろう。
結局、「対米従属」「人民弾圧」を変えられない本質と規定してしまっては、袋小路に陥ることになるわけだ。せいぜい、「改革すべき問題点」という位置づけにしなければならないということだ。その程度だったら、野党間での協議くらいは出来るようになるかもしれない。
それに、「対米従属」「人民弾圧」という問題点があるにしても、それをつくりだしているのは自衛隊ではなく政府である。自衛官に対してそういう物言いをすることが何をもたらしているかを、よくよく考えるべきである。
何か月か前、幹部自衛官が国会議員に対して暴言を吐いたということで問題になった。もちろん私も暴言だと思う。処分が軽いと問題にする人もいるが、処分を決めるのは政府である。処分の軽さをもって、自衛隊や自衛官に暴走する本質があるかのように言うのはどうなのだろうか。
戦後の日本では、現場の部隊、自衛官が護憲派の批判にさらされてきた。日本の人口の4割くらいに広がった革新自治体では、自衛隊が憲法違反だということを理由にして、20歳になった自衛官を成人式に呼ばないということも横行した。住所録には自衛隊の駐屯地の住所や電話番号を載せないという自治体さえあった。
現在も、自衛隊に対して憲法違反だという批判がされている。憲法違反だけれど、いざという時には活用するから、命をかけてくれと言われている。
別にそう言ってもいいと思う。しかし、そういう言い方をされている自衛官が、それをどう受けとめ、悩んでいるかくらいには、心を砕くべきだろう。
自衛隊はそうやって何十年間、護憲派から批判されてきたけれど、大多数の自衛官は、それを黙って甘受してきた。政治に対してモノを言わないのが自衛隊のあり方だと隊内で教育され、忠実に守ってきた。自分を否定している憲法9条をどう思うかって聞かれても、退官後にさえ、意見を言う人は少ない。田母神さんのように時々、そこから外れる人が出てくるけれど、本当に少数なのだ。それなのに護憲派は、その少数のなかにこそ本質があるとして批判を強める。
自衛隊に対しては激しい批判をするけれども、自衛官は自分の意見さえ言ってはいけないという言論空間をつくってきたのは護憲派である。それでいいのかもしれない。しかし、自衛官を傷つけているという程度の自覚をもったものの言い方をできるようにならなければ、いつまで経っても国民の共感を得られるようにはならないだろう。
2018年7月19日
自衛隊に対する護憲派、平和運動の側の本質規定として、この見方がある。私とて、これを否定するつもりはない。
そもそも自衛隊の前身である警察予備隊が出来る過程がそうだ。アメリカの命令でつくられ、米軍の装備を供与され、米軍に訓練されて創設された。
現在もその本質は変わらない。とりわけ海上自衛隊は情報通信網が米海軍と一体化して運用され、しかも大事な部分は日本側には知らされていないため、アメリカとともに行動する際、自主的な判断とは言い切れない部分が残るわけである(同盟国だから信頼するという構造)。ミサイル防衛網にしても、日本に落ちてくるミサイルと、アメリカに向かうミサイルへの対処が一体となっているため、純粋に日本防衛のためのものとはいえない。
いや、そういう軍隊の運用は、全体から見れば些末なことである。もっと根本的な日本防衛の戦略というものが、アメリカの核抑止力に依存していて、独自の戦略というものを持てない。専守防衛というが、アメリカの核抑止力依存のもとでは、まやかしに過ぎない。
ではしかし、対米従属の軍隊だからといって、どうするのか。本質は変わらないから廃止するしかないというのか。
じゃあ、誰が廃止するのか。安倍政権にさせるのか、石破さんに期待するのか、安保も自衛隊も当然のこととして認める枝野さんにお願いするのか。
「対米従属の軍隊だから廃止する」という公約をかかげて国民多数の支持を得て政権をとれば廃止することも可能だろう。しかし、そんな公約をかかげた政党はこれまで皆無だし、それで国民の支持が得られるとは思わない。
そういう考え方は夢物語に過ぎない。結局、自衛隊を改革するという公約を掲げ、自分で政権をとって改革するしかないのだ。
しかも、対米従属の軍隊という本質規定が、自衛隊のすべてに浸透しているわけではないことも知る必要がある。少し自衛隊の幹部に話を聞けば分かることだ。
すでに書いたかもしれないけれど、兵庫県の弁護士九条の会に招かれた元陸将の渡邊隆さんが言っていた。陸上自衛隊は米軍にノーを言ってきた自負があると。
最初に米陸軍との共同演習が北海道で行われた時のことだ(図上演習)。対米従属の軍隊という本質規定だけで物を見ていると、どんな共同演習も外国で侵略を手助けするように見えるだろう。島嶼奪回の訓練も侵略のための上陸演習に見えるのと同じように。
しかし、当時、陸上自衛隊は米陸軍にノーと言い続けた。アメリカの軍隊は外制軍だから、戦場に自国民がいることを想定していないので、自衛隊と共同演習していても北海道民が住んでいる場所を戦車で通ってソ連軍と対峙しようとする。しかし陸上自衛隊は、「そこは道民が住んでいるのだからノーだ」というわけである。ここを理解してもらうのに数年かかったそうだ。
それでも自衛隊がアメリカに従属して侵略の訓練をしているという認識が変わらないなら、まあ、それでもいいよ。しかしそれなら、侵略されたら自衛隊を活用するなんて無理で、それは間違った考え方だと堂々と言うべきであろう。