2015年5月18日
私のよく知っている人が、大阪の結果を受けて、「都構想を提案したのが橋下さんじゃなければ、賛成に入れていたかもしれない」と言いました。選挙の最終盤、橋下さん自身、「自分のことが嫌いでも、大阪の未来のことを考えて賛成してほしい」と訴えていました。
これが、今回の住民投票の特徴のひとつを、よく言い当てていると思います。大阪の地方行政のあり方は大事な争点だったでしょうが、それ以上に、橋下さんが好きか嫌いかが、争点の第一番目にきてしまったということです。
二重行政をどうするのかは、以前も書きましたが、悩み深い問題です。しかし、世の流れは、より住民に近い自治体の権限を拡大することにあります。今回の都構想でいえば、大阪市を5つに分けたとして、分かれた区の権限を強めるという方向です。
ところが、橋下さんが提案したのは、住民に遠い自治体の権限を拡大するというものでした。自分の力が及びやすいところの権限を拡大し、自分が思うようにやりたいということだったのでしょう。
そこが、いかにも橋下さんらしかった。橋下さんに改革を期待する人は、橋下さんの力で改革を進めてほしかった。一方、橋下さんを嫌いな人にとっては、ますます橋下色が強くなる大阪というイメージをつくりだし、反対世論を強めることになったのだと思います。
開票結果を受けた記者会見で、橋下さんは、自分のことを「敵をつくる政治家」だと表現しました。本当に都構想が大事だと思っていたなら、できるだけ味方を増やさなければならないのに、敵をつくってしまったわけです。
それって、橋下さんの資質だから仕方がないという面もありますが、同時に、政治家として失格だという面もあります。自分の政策目標が大事だと思ったら、自分の性格を押さえてでも、政策を大事にしなければならななったのに、それができない政治家だったというわけです。
逆にいえば、そこができなかったのは、都構想というものを、本当に真剣には考えていたなったということなのでしょう。実際、都構想が実現したら夢のような大阪ができるなんて、自分でも心から思っていなかったでしょうし。
いずれにせよ、地方制度のあり方、政治家のあり方等等、いろいろ考えさせる住民投票でした。その点での功績は橋下さんにあったと言えるのかな。
2015年5月14日
目前ですが、大事な取り組みだと思うので、再度の告知です。週末の土曜日、芦屋九条の会が開く「10周年の集い」のことです。
もう10年になるんですね。これまで、よくがんばってきました。
最近、九条の会にかかわる取り組みに行くと、「いつまでがんばらなければならないんでしょうか」と聞かれます。10年前も高齢だった方が、引き続き中心でやっておられるので、そういう気分になるのは理解できます。
だけど、あと2年半ですよね。九条がテーマとなる2回目の国民投票って、次の自民党総裁選で堂々再選される安倍さんの任期中にやるでしょうから。
次の参議院選挙で政治を変える共闘ができるとしたら、大事なのはこれから1年。憲法より他のことが大事という風潮のなかで、そういう共闘がつくれず、国民投票にかけられるとなると、最初のがその半年後で、次はその1年後。勝っても負けてもあと2年半。
これから2年半というのは、護憲派の内部において、護憲派だけに通用する言葉と論理で盛り上がっていてはダメな期間です。改憲派を仲間にするための期間なのですから、改憲派が何を考えていて、どういう論理で話し合っていったら、その気持ちをつかめるのかということを、できるだけ早くつかまなければなりません。
今回の芦屋九条の会の取り組みは、護憲派の代表として柳澤協二さん(元内閣官房副長官補、自衛隊を活かす会代表)を、改憲派の代表として川上高司さん(拓殖大学教授、元防衛研究所研究員)をお迎えします。一カ月ほど前、朝日新聞の一面全部を使って、政府が本日閣議決定する新安保法制を取り上げ、柳澤さんが反対論、川上さんが賛成論をぶち上げていました。そういうお二人です。
閣議決定の直後ですから、まず新安保法制をどう見るかで議論は開始するつもりです。そうして、安保法制の中核である集団的自衛権の見方、なぜ九条の改正が必要なのか必要でないのかを、日本と世界をめぐる紛争の現実をふまえて議論するつもりです(私がコーディネーターなのでやりたいようにやらせてもらいます)。
改憲派を糾弾しても、その人の心は離れるだけだと思います。人の心が変えられるとすると、心のどこかで通じ合うものを感じたときだけだと思います。そんな取り組みになればいいなあ。
2015年5月13日
昨日の続き。9条に3項を新設する憲法改正案が出てきたら、どうするのだという話である。
昨日示したような改正案に反対したら、「暫定的に自衛隊を置く」こともダメだととられるわけだが、そうならない方法が一つだけあると考える。どういうものか。
そもそも、なぜ、「暫定的に自衛隊を置く」こともダメだととられるのかというと、護憲派とはそういうものだという、国民の側の思いこみがあるからだ。思いこみというより、これまでは事実に近かった。
私が『憲法九条の軍事戦略』を書いたときも、ふつうの人からは、「護憲派だからといっても、自衛隊を否定しないんでいいですね」と言われたものである。「それなら自分も護憲派かもしれません」と。
多くの国民が護憲派を見る目は、そういうものだ。これは、自衛隊を堅持する「専守防衛」か、自衛隊を廃止する「非武装中立」かが戦後の対決点となってきたので、当然のことなのである。
だから、護憲派が何を言っても、自衛隊の廃止をめざすのが護憲派だと捉えられてしまう。憲法に「暫定的に自衛隊を置く」と書くことに反対しているだけで、当面は置くことに反対しないのだと説明しても、その言葉は心を捉えることはできず、身体のなかを通り過ぎるだけであろう。
ということは、そこを変えればいいのだ。護憲派といっても自衛隊を否定する護憲派は少数であって、肯定する護憲派の方が圧倒的に多いのだということを、国民投票が行われる以前に、できるだけ早い段階で、多くの国民の認識にすればいいのである。
護憲派も改憲派も自衛隊を認めている。何が違うかというと、護憲派の自衛隊論というのは海外派兵や集団的自衛権に反対で、改憲派の自衛隊論は海外で戦争するのに自衛隊を使うものだということなのだということを、国民の常識にまですることだ。
そうならないまま、「暫定的に自衛隊を置く」という条文を入れるか、入れないかの議論になると、圧倒的に護憲派の不利になる。そう思いませんか?
自衛隊を完全否定して即時廃止だという護憲派のみなさんにも、できればそういう事情を理解してもらいたい。そして、自分たちは少数であって(未来においては多数になるけれども)、護憲派の多数は自衛隊のことを当然認めているのだということを発信してもらえればうれしい。
護憲派による自衛隊の活かし方の提言は、5月18日のシンポジウムで、「自衛隊を活かす会」が発表します。議員会館ではじめて開催するということもあって、野党はもちろん自民党の方も参加します。乞うご期待。
2015年5月12日
昨日、いろいろ議論をしてきました。国民投票を前にして、いろんな人が、いろんなことを考えるんですね。
話のなかには、護憲派が九条の改憲案を提起すべきではないか、というのもありました。それって、普通の護憲派は目をひそめるでしょうけど、よく考えなければならない問題でもあります。
たとえば、ある有名な文学者は、九条に「外国軍事基地は置かない」という規定を入れるべきだという確固とした考え方をもっています。だけど、いまの護憲運動のなかでは、「おまえは改憲派だ」ということになって、その人の気持ちは踏みにじられるわけですね。改憲を提起するからといって戦争を望んでいるわけではないのですから、九条に手をつけるからといって敵にまわす手法はとるべきではないと思います。
昨日話題になったのは、私がこのブログでいつか書いたことがあると思いますが、こういう改憲案です。反対するのがそう簡単ではない案なのです。
九条の1項も2項もそのまま残すんです。そして第3項に、「1項2項の理想が実現するまでの間、暫定的に自衛隊を置く」という規定を入れるというものです。
この案、みなさんなら、どういう理由をつけて反対しますか。続けて記事を読む前に、少し考えてみてください。
自衛隊即時廃止論者だったら、簡単ですよね。暫定的にでも認めない、という理由になるでしょう。
でも、九条は守りたいが、自衛隊を即時廃止するのは困ると思っている人は、どういう理由で反対するんでしょうか。どうですか?
まあ、いろいろあるかもしれません。でも、どんな反対理由であっても、「暫定的に自衛隊を置く」ことに反対するのですから、ふつうの国民からみれば、「ああ、即時廃止論者なんだな」と思われてしまう。
その結果、結局、国民の98%ほどを占める自衛隊必要論VSわずかな自衛隊廃止論の対決みたいな構図になる。そして国民投票では負ける。
昨日話し合った方は、それを心配しているわけです。そして、2項をなくして国防軍を設置するという自民党改憲案が通るくらいなら、1項も2項も残るし、将来は自衛隊を廃止するという案を提起した方がいいということを考えたわけですね。
これって、10年ほど前、加憲の立場にある公明党が言いだしたものに似通っています。その頃から、そういう改憲案が出てきたら難しいなと思ってきたものです。
この改憲案に反対するって、いろいろ言っても、小難しい理屈になるんですよね。「自衛隊を暫定的にも認めない人だ」と攻撃されたら、ひとたまりもない。
それでも少しでも通用するとしたら、国民多数が反対している集団的自衛権に依拠するしかないと思います。なぜ憲法九条のもとで集団的自衛権は認められないとされてきたかというと、九条が自衛隊を明記してこなかったからです。九条は自衛隊(自衛権)を明示的に認めていないけど、自分の国の防衛を認めないなんて常識的に考えられないから、個別的自衛権だけは認められるとされてきたのです。国際法上は、自衛権といえば個別的と集団的との両方を意味するわけであって、自衛隊(自衛権)を明示的に認めてしまうと、集団的自衛権まで認められるんです。
だけど、それでも分かりにくいですよね。国民投票の時代は、本当に考え抜かないとダメだと思います。
2015年5月11日
昨日から東京。明日まで。最大の仕事は、今月刊行する「未来への歴史」シリーズ2冊の仕上げ関係。
ついでに何人かの方とお会いする。難しいのは、来年の参議院選挙に向けて相談に乗ってほしいというもの。
当然のことではあるけれど、参議院選挙で改憲派が3分の2を超えたら、衆参ともに改憲を発議できるようになる。この選挙後に発議して国民投票に向かうというのが安倍政権の描くスケジュールである。
それに対して、護憲派がせめて3分の1をとれるようにしたいとして、動きが活発化している。その相談に乗ってほしいということで、ある方とお会いする。まあ、私も率直に意見を述べるつもり。
護憲の統一候補といっても、そう簡単ではない。何重にも乗り越えるべき壁がある。
まず、護憲ということだけで統一できるのか、という壁がある。いくら憲法が大きな焦点になるといっても、これだけ暮らしの先行きが見えないときに、経済では一致しませんというのでは、とっても勝てないだろう。
じゃあ、「脱原発」を打ちだすのか。それを打ちだすにしても、何が脱原発かということになる。世論調査でも即時廃炉だけでは国民多数になっていない。だけど、20年後までに廃炉という人を入れて多数になったと見えても、今度は、再稼働問題などで内部分裂を始めるだろう。
護憲それ自体は、憲法改正には賛成しなければいいのだから、難しい問題は生じない。しかし、統一がなされるとしたら、それは自衛隊に関する考え方が根本的に異なる人の統一だ。ガラス細工の統一である。国民投票で勝つために立場の違いを超えて一緒に運動しようというレベルなら問題ないが、国政選挙での統一となると、その違いははげしく攻撃されることになる。
憲法九条のもとで自衛隊をどう位置づけるのか、日米安保はどうするのかという、いわば政策上の問題は、5月18日に「自衛隊を活かす会」が出す提言によって、ある程度はクリアーできるだろう。「こういう政策でやっていく」と堂々と言えるはずだ。
問題は、自衛隊が合憲か違憲かの違いだ。護憲の統一候補といっても、この問題では立場がばらばらだろう。
3分の1なら政権をとるわけではないので、選挙後、閣内不一致を攻撃されることはないだろう。しかし、選挙中、「政権はとらないので、自衛隊が合憲か違憲かの統一解釈は出さない」という態度をとったら、ちょっともたない気がする。
それよりも何よりも、そういう機運が出てくるのかということだ。沖縄の結果があったから、日米安保に対する態度の違いは障害にならない可能性は生まれたのだが、本土で本当にそういうことが可能なのか。
まあ、虚心坦懐に話し合ってきます。では。