2013年11月18日
平和運動ではよく聞かれる言葉である。「軍事力ではなくて外交で」と言い換えてもよい。
もちろん、いろいろな問題を軍事力でなくて外交で解決することは望ましいし、大事なことだ。外交的な解決の余地があるのに、目の前で軍事力による対処がおこなわれようとしている場合、そういうスローガンは大事だと思う。だけど、そういうスローガンを、いつでもどこでも通じるものとして提起することは、適切なのだろうか。
一般的にいっても、問題を軍事か外交かの2項対立で捉えてしまうと、複雑な現実を捉えきれなくなる。国連憲章だって、紛争の平和的・外交的な解決のために最後まで力を尽くすべきことを規定しているが、それでも侵略がやまない場合、軍事的な解決に乗りだすことは想定している。軍事か外交かどちらかしかダメというものではないのだ。
多くの国民も、軍事派と外交派に分かれているわけではない。どっちも大事だと考えているだろう。どこかで書いたことだけれど、政府が3年に1回やっている世論調査では、8割から9割が自衛隊の存在を認めている。しかし同時に、そういう人びとが外交は不要だと考えているかというと、そんなことはない。また逆に、外交努力の必要性を認める人に対して自衛隊が不要かと尋ねれば、とんでもないということになるだろう。
さらに大きな問題は、こういうスローガンを一般化すると、軍事も外交も一色に塗りつぶされることだ。軍事のなかにもいろいろあって、アメリカみたいに何かあれば他国を殲滅する戦略をもち、そのための兵器を開発・保有し、そのための訓練を欠かさないという軍事もある。一方で、ASEAN諸国のように、自国防衛に必要な最小限度の武器を保有し、遠く海外に出かけていって集団的自衛権を行使するなんて考えない国もある。それらを一緒くたにして「軍事はダメ」ということになると、現実が歪んでしまうわけである。
これは外交でも同じだ。外交なら何でもいいということではないというのが、歴史の教えるところだ。ヒトラーがチェコのズデーデン割譲を要求したのに際し、イギリスなどが戦争を回避する立場からそれを認めたことは、その結果がドイツのさらなる侵略につながっていったことともあわせ、あまりにも有名である。
では、どう考えればいいのか。どういうスローガンならいいのか。(続)
2013年11月15日
明日の土曜日、明後日の日曜日と、特別に忙しい。これまで2日間で3回も講演したことはなかったよなあ。
明日は、午前10時30分からが、京都建築労働組合の主婦の会。女性ばかり130人も来られるそうで、そんな場所に慣れていない身としては、ちゃんとしゃべれるものかどうか。場所はホテル平安の森というところ。「安倍改憲との闘い方」というのがテーマです。
それが12時に終わって、丸太町までタクシーで出て、27分初の地下鉄で京都駅へ。そこから新快速で神戸まで。普通に乗り換えて新長田に13時47分到着。14時から、神戸市長田区の九条の会。お昼ご飯は、電車のなかですね。
テーマは「集団的自衛権の深層」。本のタイトル、そのままですね。いやあ、この問題は、来年の夏まで延期という話もあるし、制限のないかたちで解釈改憲という話もあるし、ひきつづき焦点ですよね。お話しすることがたくさんあって、時間通りに終わるかどうか。
明後日は、前に書きましたけど、伊波洋一さんとの対談です。まず伊波さんが講演して、その後にですけど。「沖縄と憲法」がテーマ。安保や憲法という重要な課題で、どうやって共闘をつくりだすのかです。安保に賛成の人も反対の人もいて、護憲といっても安全保障をめぐっていろいろな考え方の人がいて、しかし、なんとか共闘しなければ、普天間問題も解決しないし、この日本の安全を維持できないわけですから、いい対談になればと思います。
ところで最近、いろいろなところに行くからでもありますが、多くの方から、「憲法の闘いはいつまで続くのか」と聞かれます。そうですよね。九条の会を起ち上げて、もう7年とか8年になるわけで、その分、だいぶ年をとってきて、疲れてもいるわけです。それなのに、いつ終わるのか、先が見通せない。というより、どんどんあぶなくなっているように見える。
私は、そういうところでは、「あと3年」と言っています。3年後にダブル選挙があって、国民投票の可能性もあると言われています。国民投票があれば、そこで決着がつく。九条じゃない部分が投票にかけられるにしても、反対がおおければ、それで改憲は勢いがしぼむでしょう。
選挙だけという場合、護憲派の力をどう伸ばすかが焦点でしょう。私は、安保条約の問題は脇において、「九条の軍事戦略」でやっていこうという勢力を、政治の世界でどれだけ増やすかを焦点にしてがんばります。
そのために、この3年の闘いのはじまりに際して、『憲法九条の軍事戦略』と『集団的自衛権の深層』の本を出したわけです。あとは、政治の世界における実践です。3年間は死にものぐるいでやります。
2013年11月14日
台風の大被害に遭ったフィリピンへの自衛隊派遣が準備されている。被害の大きさから当然だが、派遣の規模も大規模なものになりそうだ。一刻も早く到着し、一人でも多くの人の命を救い、生きるに不可欠な食料や水を届けてほしい。
思い出せば、国際緊急援助隊法に自衛隊を組み込むことが決まったあと、最初に自衛隊派遣が打診され国はパプア・ニューギニアだった。98年の津波被害に際して、各国から支援部隊がかけつけ、日本も自衛隊の医官(お医者さん)の派遣を打診したのだが、「必要ない」と断られたのだ。
パプア・ニューギニアと言っても、ピンと来ないかもしれないが、ここの中心都市はラバウルである。第二次大戦のとき、日本軍はラバウルを占領し、日本軍自身にも13万人の犠牲を出したのだが、現地の人びとの多くを戦争に巻き込み、死なせた。そういう記憶の残るところだったから、お医者さんといえども、日本の自衛隊がやってくることには、少なからぬ拒否感があったのだろう。
国際緊急援助隊で派遣する自衛隊は、C-130という輸送機を使うことが想定されていて、これは航続距離が短いので、アジアへの派遣が想定されていた。ところが、アジアはどこも日本軍の記憶があるところだから、どこにも行けそうになかった。
その結果、最初に派遣されたのは、大規模水害で苦しんでいた中米のホンジュラスになった(98年末)。遠いので何カ所も給油しながらしか行けなかったので、到着まで4日間もかかり、「緊急」援助とはならなかったのだけど。
その後、スマトラ沖の大津波(04年末)に際して、自衛隊は、かつて日本が侵略したインドネシアに派遣されることになる。そして今回、同じくフィリピンということだ。
侵略から時間が経過し、記憶が薄れてきたということもあるだろう。そういう記憶をふりほどくほど、被害の規模が有無を言わさないということもあるかもしれない。
しかし同時に、戦後68年間、自衛隊が再び銃口をアジアの人びとに向けなかったという現実が重たいのだと思う。それはやはり憲法九条の力だ。
派遣される自衛隊は、本当にご苦労だけど、がんばってほしい。そして、現地で歓迎されるとしたら、その背景に以上のべたような事情があることを知ってほしい。そのうえで、だから、アジアの人びとに銃口を向ける可能性を拓く集団的自衛権だとか、国防軍だとか、そういうものはおかしいという思いを、今回の派遣を通じて自分のものにしてほしい。そのことを痛切に願う。
2013年11月13日
福島で子育てすることを決断したあなた、
住み慣れた土地を離れて暮らしているあなた、
いろいろな事情で戻ってきたあなた、
できればやはり外に出たいと考えるあなた。
──選択は大きく異なる。
別の選択が間違って見えたりする。
理解し合える日々は来るのだろうか。
でも、理解し合い、尊重し合いたい。
みんな被害者なのだから。
3.11から3年目を迎える来年の3月9日、福島市音楽堂で「福島で子育てする家族が生き方を語り合う音楽の夕べ」(仮称)が開かれます。以前にも紹介しましたよね。第一部がシンポジウム、第二部が音楽で、ZABADAKコンサートとか、福島高校ジャズ研究部が出演する伊勢﨑賢治さんのジャズヒケシとか。
来週の水曜日(20日)、福島に行くんですが、そこで実行委員会がつくられる予定。その場で、第一部のコンセプトを話し合って、それをチラシにします。
そこに提出する私の案が、上記に書いたものです。一度話し合ったからといって、福島で子育て中の家族が理解し合えるとは思えません。いま、個人の線量を計る方式へと政府が転換しようとしていますから、それが新しい問題を引き起こすでしょうし。
でも、同じ被害者なのだから、どこかで理解し合えるようになりたい。生き方を尊重し合えるようになりたい。そうでないと、原発事故を起こし、再稼働を企み、被害者を置き去りにしようとする勢力に対して、力強く立ち向かえないと思うのです。
今回の企画が、そのための第一歩になればいいと願っています。いえ半歩でもいいんです。
ということで、上記に書いたこと等について、福島で暮らしている方々をはじめいろいろな方にご意見をいただければと思います。それも含めて実行委員会で紹介し、議論してきたいと思います。よろしくお願いします。
2013年11月12日
先日、教研集会なるもので講演した。領土問題である。2年ほど前に領土問題の本を出して以降、学校の先生が主体になった会に呼ばれたことはあるけれど、教研集会というのは生まれて初めてで、ちょっと緊張。
でもやはり、これだけ尖閣や竹島の議論がさかんになっているわけで、先生たちも大変だよねと感じた。少しでもお役に立てたならうれしい。
そこでお話ししたのだけれど、この問題、ナショナリスティックな議論が優勢を占めているように見えるけれども、そういう議論って、問題の解決に役立たないどころか、解決を妨害するところに本質がある。その点をおさえることが大事だと思う。
たとえば、そういう議論は、植民地支配や従軍慰安婦などの事実を否定する議論と結びつく場合が多い。「お前ら勝手なことを言うな!」「日本は悪いことをしていない!」という議論である。そして、領土問題でも、相手の主張が間違っていることを声高に叫ぶわけだ。
そんなことを主張して、少しでも領土問題の解決に向かうのなら、どんなに大声で叫んでもらってもいいのだ。だけど、そうはならない。竹島にしても、植民地支配の過去を認めないような議論をすれば、相手はますますかたくなになって、解決は遠のいていくばかりだ。
結局、そういう議論をする人は、竹島問題を実際に解決することには関心がないのである。大声で叫ぶことでスッキリしたいとか、そんな程度のことが望みなんだろうと思う。
竹島問題を少しでも動かそうとすれば、韓国の人びとの多数の気持ちが変わることが不可欠だ。「日本人の言うことには道理があるな。竹島の領有権についても再考しなければならないな。そのために韓国政府の考え方を変えないとダメだな」と感じる状況をつくる必要がある。
そして、そのためには、植民地支配の認識と竹島問題について、ちゃんと語る必要があるわけだ。植民地支配それ自体については、本質的な反省を明確にし、同時に、竹島といういのは、植民地支配とは無縁ではないにしても、それとは別の論理と手段で獲得した島だということを、どう説得できるかが、この問題を動かす唯一の方法である。
だから、この問題では、ナショナリズムというのは、まったく国益に反するものだ。国益を守れるのは、植民地支配についての深く、正確な理解があり、表明できる勢力だけだということに自信を持つ必要があると思う。