2018年4月11日

 このテーマで書き始めると、書くことがいっぱいありすぎて終わらなくなります。とりあえず今回で終わっておきます。

 「明日への選択」の論者は、日本が集団的自衛権を行使する国にならないと、日本防衛がちゃんとできないという立場です。それを憲法で明記しようということです。

 私は専守防衛の立場ですが、国民の揺れる気持ちは分かっているつもりです。でも、国民が揺れているのは、専守防衛か集団的自衛権も行使できる国かの間ではなくて、専守防衛とアメリカの抑止力依存との間でどうかだと感じます。

 専守防衛というのは、武力攻撃があって初めてこちらも防衛力を発動し、その発動のありようも、相手の攻撃に相当する、均衡するものに止めるというものです。そこに特徴があります。

 これって、軍事常識的にはおかしい。いわば相手が逃げ帰ればよしとする立場ですから、相手が体制を立て直して再び攻めてくるかもしれません。

 抑止力というのは、そこが違うのです。核兵器を使って、相手に対して壊滅的な打撃を与えるのが抑止力です。再び立ち直れないほどの打撃を与えるのです。

 軍事的にはそれが常識です。そこへの安心感があるから、抑止力の一言で、みんな思考停止になるわけです。

 しかし、いまの説明で分かるとおり、専守防衛と抑止力は両立しません。一方は逃げ帰ればいいという思想で、他方は逃げても立ち直れない打撃を与えるという思想ですから、両立しようがないのです。

 それなのに、多くの人は、専守防衛といわれれば納得し(安倍政権だって、まだ自分の政策を専守防衛と言っています)、同時に、抑止力にも納得している。そこを突き詰めて考えないことで、両立させてしまっているのです。

 この曖昧さを抜け出すには、日本の安全保障政策をどうするのか、自分の頭で考えることが不可欠になっています。その結果、専守防衛では不十分だから抑止力に依存しようということになるのか、他国を核兵器で壊滅するようなことは被爆国としては許されないとして専守防衛の範囲でやろうということになるのか、そこを決着させるような議論が必要だと思います。

 私の「改憲的護憲論」は、護憲論議のなかでそういうことが必要だと強調したつもりです。ところが「明日への選択」の論者は、そこは回避しているのです。

 護憲か改憲かだけを議論していては、結論が真逆なわけで、敵か味方かの議論になってしまいがちです。不毛な議論であり、結果として対立と分断しかもたらしません。

 そうではなくて安全保障のあり方と絡めて議論すれば、どこまでが一致し、どこからが違うのか明確になると思います。そういう議論をお互いにしたいねということが、この論者に私が一番いいたいことです。(了)

2018年4月10日

 昨日は月曜日ですから、いつもならブログを書く日でした。ところが「あれ、まだ書いていないぞ」と思ったのが夜、会社を出たところで、戻るだけの気力がなかったのです。

 経過は省きますけれど、実はこの一か月ほど、背中の痛みに襲われていまして、土曜日にそこから回復するための対策をしたのですが、日曜日はそのぶり返しがあったのが、最悪の状態で一日ベッドに伏せっておりました。月曜日に回復して出勤したのですが、やはりまだ普通じゃなかったのですね。ボヤッとしていたのでしょう。

 やはり仕事は65歳までと思いました。65歳を過ぎて現役で頑張る人のことは尊敬しますが、こんな激務を続けることは私には到底できないと自覚しました。

 ということで、本日は新しいことを書く気力はあるのですが、その気力を「3人の幹部自衛官は加憲をどう考えているか」のインタビュー原稿の整理に注ぎ込んだので(先ほど終了)、先週、「全国商工新聞」に「公文書改ざん問題の底流」と題して寄稿したものをアップしますね。お手軽で申し訳ありませんが。
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 これまでも「安倍首相はこれで終わりだ」と言われた事態は多々あった。当時、私にはそこまで思えなかったのだが、今回だけは違う。

 これまでは「忖度」にせよ「隠ぺい」にせよ、法令上問題がなかったとは言わないが、あくまで政治責任の問題だった。しかし今回は、公文書改ざんという誰もが法令違反だと認める行為が存在し(だから検察が乗り出している)、安倍首相もそこから逃れられない。関与していれば当然だが、関与がないことを証明しようとすればするほど、法令に平然と違反する官僚機構の存在が証明され、首相をトップに戴く行政に対する国民の不信は増幅していくのだ。将棋で言えば「詰み」の状態である。 

 日本政治が「官僚主導」から「政治主導」になったことを、今回の事態の底流にあると指摘する人がいる。しかし、官僚と政権との関係で言えば、政治主導は正しい姿である。国民に約束したことを官僚が妨害するなら、政治の力で克服する必要がある。

 今回の事態の問題は、それとは性格が異なる。国民の前では申し開きができないことを行政が行うため、隠ぺいを重ねた上に、隠ぺいの事実を覆い隠すため法令違反に手を染めたという問題だ。行政は法令を適正に実行するために存在するのであって、行政が法令に違反するとなれば、そういう国家は崩壊しているのと同じである。国民が望まないことを国民に隠れてやろうとすることの結末がここにある。それこそが底流であろう。

2018年4月6日

 さて、「明日への選択」の論者と私で決定的に異なるのは、日本の平和と安全をどうやって守っていくのかの考え方だろう。どっちつかずの護憲論の私だが、そこだけは断言していい。

 一言で言えば、私は「専守防衛」を貫くべきだと考えている。一方、この論者は、「専守防衛を……時代遅れの愚策」と述べている。「今日の国際環境において全く時代遅れの危険な政策」というのである。そうして、集団的自衛権の行使の必要性を説き、日米同盟が破綻したら中国に対抗するのに「どれだけの軍備増強が必要になるか、(松竹氏は)果たして考えているのだろうか」と、批判をエスカレートさせるのだ。それを防ぐためにも憲法改正が必要なのだそうだ。

 よく耳にする批判である。憲法を変えなければ日本は侵略されるということになれば大変なことだから、「ああ、そうか」と改憲にまわる人もいるのだと思う。

 だけれど、「こうしなければ必ずこうなる」という論理って、とっても強いが故に、陥穽もあわせもつ論理だと思う。だって、それを認めてしまうと、憲法が変わらない限り、日本はかならず侵略されることになってしまうからだ。そして、加憲論議の行方がどうなるか読めないが、いまのところ、憲法が変わる可能性は半分くらいというところだろう。常識的に言えば、9割の国民が支持する自衛隊が憲法に書き込まれることにもっと多くの国民が賛成するのが普通のように思えるが、実際の世論調査では半々程度にとどまっている。それほど国民にとっての9条は特殊な存在なのである。

 じゃあ、その結果、9条が変わらないということになると、「変えない限り必ず侵略される」と言ってきた人は、どうするのだろうか。侵略を甘んじて受けとめるのか。そういうことではないだろう。

 だから、本当に日本の平和と安全を願っているなら、別に改憲を主張してもいいのだけれど、現行憲法のもとでどうするのかということもあわせて考えなければならないと思うのだ。「現行憲法でここまでできる」と言ってしまうと改憲の論理が弱まると感じて言えないのだろうけれど、それでは日本の平和と安全に責任を持つということにならない。

 改憲論って、日本の平和と安全が売りのはずなのだけれど、そこの弱さはあると思うのだ。そして、「現行憲法でここまでできる」という立場で議論してくれるなら、護憲派との破壊的な議論ではなく、建設的な議論が可能になるように思える。私だって改憲にも意味があると認めているのだから、改憲派が護憲に何らかの意味を認めることだって、あっていいのではないだろうか。(続)

2018年4月5日

 「ありがとう日本会議」の記事はまだ続きますが、本日は政治の焦点を取り上げます。自衛隊のイラク日報隠ぺいをめぐって、「シビリアンコントロールが利いていない」などの批判がありますが、この問題の深刻さは別のところにあるのではないかということです。

 確かにシビリアンコントロールは利いていないでしょう。現場は存在を知っているのに、長きにわたって大臣にさえ隠していたわけですから。

 しかし、なぜ自衛隊が日報を隠していたのかを考えると、深刻さの度合いが違って見えてきます。南スーダンにせよイラクにせよ、同じです。

 この日報には、派遣された自衛官が日々体験する現地の実情が書かれているわけです。PKO五原則を満たしていて、だから戦闘地域ではないという建前で政府は自衛隊を送っているわけですが、実際にそんなものではないことが、日報から伝わってくるのです。

 そういう実情って、本当は、自衛隊にとって、政府にも国民にも知ってほしい情報でしょう。だって、そんな危険な中で自衛隊が任務を遂行しているのだと知ってもらわなければ、いざというときに「自衛隊は何をしていたんだ」ということになるわけですから。

 それに、危険だということが政府や国民に伝わることは、撤収するという判断をするにせよ、あるいは危険度に応じて武器使用のレベルを上げるにせよ(こちらは法改正を伴うでしょう)、絶対に不可欠なのです。政府から与えられた任務は遂行しなければならないという使命感と、同時に自分のいのちは守り抜きたいという当然の気持ちと、その両方を貫こうとすれば、現場の実情を隠すなどはあってはなりません。自衛隊の幹部も隊員も、そのように思っているはずなのです。

 ところが、それを自衛隊が隠していた。なぜなのか。

 それは日報に書かれていることが、政府の建前を崩すものだからでしょう。安全だという建前が崩れる。安倍政権を窮地に追いやることになる。

 そういうことになるくらいなら、現地の実情を隠してしまおうということでしょう。その結果、隊員の生命が危険にさらされるのを放置することになるわけですが、それよりも安倍政権の延命を望むというところでしょうか。守るべきは隊員のいのちではなく安倍政権になっている。刑事訴追されても安倍政権を守ろうとする佐川さんと同じですが、その結果が隊員のいのちにかかわることだけに、より重大です。

 そこに私は深刻さを感じます。そんなことで任務を遂行できるんですかと問いかけたいと思います。

2018年4月4日

 この論評を読んでいると、この論者もまた、改憲か護憲かの二項対立の枠内で思考しているように思える。それこそ私がもっとも避けたいと思っている思考方法である。例えば、以下のような記述がある。

 「ちなみに、松竹氏は現在の自衛隊に対する「国民的な支持」を「憲法に明記されていない」ことの賜のように評しているが、自衛隊はその正統性に疑念をもたれてきたが故に、国民的な支持を得たと言っているようにも聞こえる。現状維持のための倒錯したレトリックと言うほかない」

 いや、批判していただいていいのである。私が改憲、加憲を批判するように、その立場から私を批判するのは当然であろう。

 しかし、大事だと思うのは、この問題の複雑さへの自覚である。そう簡単に割り切れる問題ではないからこそ、圧倒的多数の中間層は迷っているわけである。

 憲法に自衛隊が明記されたとして、多くの自衛官が歓迎するのは当然のことである。この号の別の場所に元陸上幕僚長の火箱さんが「なぜ憲法に自衛隊を明記すべきなのか」というインタビューに答えておられて、そこにも共感する部分が多い。私は自衛隊に対する国民の支持、敬意が増すことを心から喜ぶ立場だ。

 けれども、自衛官のなかでさえ、ことはそう単純ではない。私は現在、元自衛隊幹部にインタビューをしてまわっていて、もちろん加憲に賛成で、安倍さんへの感謝を表明する元陸将の方もいる。しかし、その同じ方が、加憲をめぐって国民が分断されることになれば、せっかく国民的な支持を獲得した自衛隊に関して世論が分断されることになり、歓迎できるようなものではないと表明するのである。そんなことになるなら現行憲法のまま法整備をするというやり方が望ましいと言うのである。

 私の論理は、確かに「倒錯」しているかもしれない。私はよく「どっちつかずだね」とか「すっぱりした論理がない」と言われる。その通りだ。だがそれは、倒錯した現実というか、倒錯した自衛官、国民の感情の反映なのである。本のなかでも改憲が45点で護憲が55点と書いているけれど、それが現実の国民意識なのだと思う。

 それを切って捨てるようでは、論者は気持ちがいいかもしれないし、加憲の支持者からは拍手喝采を浴びるだろうが、「明日への選択」がねらう中間層はどうなのだろうか。「一方的でコワい人たち」と思われてしまわないだろうか。

 論争相手の心配をしても仕方がないかもしれないけれど、結論を先行させて違う考え方には悪罵を投げかけるというのは、決して生産的な結果を生み出さない(どちら側にもそういう人はいるのだが)。私は、この雑誌の関係者とも誠実に議論し、生産的な結論を得たいが故に、こういう手法はとってほしくないと考える。(続)