2018年3月27日

 先週金曜日(23日)に朝日新聞に掲載された私のインタビューです。本日と明日、内田樹さんと石川康宏さんのマルクス対談を京都のお寺でやるので、新しい記事を書いているヒマがありません。ご容赦を。
────────
 改憲と護憲は紙一重。私は護憲派ですが、改憲が0点で護憲が100点とは思っていません。45点と55点ぐらい。実は、どちらも目指していることは似ています。日本の安全は確保したい、けれども、海外派兵までして殺したり殺されたりはよくないよね、と。
 これまでの世論調査でも、いわゆる伝統的護憲派、非武装中立がいいと考える人は少ないです。1960年代から(非武装中立を唱えていた)社会党支持層でさえ自衛隊は必要と考える人の方が多くいました。護憲派が改憲派を「戦争する国にするのか」と批判し、改憲派は「非武装中立のお花畑」となじる。そんな両極の声が目立ちますが、どちら側も圧倒的多数はそうではありません。

 改憲論の主張にも共感できるところはあります。憲法学界には、自衛権さえ否定するような考えが昔からありますが、それはまずいと思います。

 結局、安全保障をだれもまじめに考えてこなかったことが問題なのです。護憲派は考えないことが誇りで、改憲派も米国の抑止力に頼っていればよいという立場で無思考でした。

 日本にとって一番よい安全保障を実現するのに、9条を維持した方がいいか、変えた方がいいか。まず、そこから考えるべきです。私は、専守防衛をどう確立するか、護憲派こそ考えて、日本の安全保障を作り上げなければならないと思います。安倍首相の加憲論が支持を得そうで焦ったのか、護憲派の中で安全保障を議論する機運が後退しました。護憲論が原理主義化してはいけません。

 この加憲案は、自衛権を個別的にも集団的にも認めることにつながります。現行の9条は自衛権を明記していないから、認めたいときには、そのつど議論が必要でした。安全保障についても考える。そこに護憲の意味があるのです。

 9条は目標としては立派です。例えばフランス革命で生まれた人権宣言。その後も殺し合いは続きましたが、歴史的な意味がありました。そういう面が日本の憲法にもあります。9条があるのに世界の平和と安全に役割を果たしていないことが問題で、それができれば、この憲法を作った意味があります。

 最近、自衛官に話を聞くと、自分は加憲派と思っていたが、よく考えると護憲派だったという人がいました。なぜなら今のところ不都合はない、それに自衛隊が大手を振って歩けるのがいいことなのか、軍隊には節度が必要と。別の幹部は、加憲論はうれしいけれど、国民投票で世論を分断するなら、法改正の方がいいと話していました。

 必要なのは、紋切り型の護憲論と改憲論の間の豊かなグラデーションを反映した議論です。(了)

2018年3月26日

 前回の記事の続きと言えるかな。まだ12年前までの仕事に縛られていて、現在の私とは関係がないのだけれど、ついつい考えてしまうので。

 共産党が自衛隊の憲法問題について、前回の選挙の際に踏み込んだことはよく知られている。政党としては自衛隊違憲論を貫くが、政権入りした場合、政権としては合憲という立場をとると表明したことである。

 まあ、選挙の忙しい最中のことだったし、みずから表明したものではなく、相手の質問に答えて志位さんが答えたというだけのものだったので、印象に残っていない人も多かろう。聞かれなければいまでもそういう立場であることは誰も知らなかっただろうしね。

 まわりからはいろいろな意見が出たようだ。自衛隊合憲論で社会党が変質したのと同じ道を歩むのかという批判もあった。ただ、共産党としては、社会党と違って政党としては違憲論を貫くのだから大丈夫、ということの表明だったように思う。

 私として感じるのは別のことだ。政権と政党の使い分けが果たして可能なのかということである。

 そう思ったのは、共産党が目指しているのは、野党共闘を進めて、その上に政権をつくるというなのだが、その困難さを思ったからである。自分がまだ共産党本部にいて、代表の一員として野党との政権協議の場に出席したなら何を発言するのだろうかと考えた時、思考が停止してしまったからである。

 政党としては違憲というなら、共産党を代表して協議に出る場合、自衛隊は違憲だという立場を貫くことになる。自衛隊をどう活かすかという議論になった際、専守防衛の範囲内のことだといっても、違憲論のままだと議論をぶちこわしにするしかないだろう。協議から戻ってきて、「違憲論を主張したのか」と問われることになるのだから。

 それとも、政権協議の場合は別扱いということになるのだろうか。政権をとった際の自衛隊の扱いが主題なのだから、政党代表として協議する場合であっても、政権としては合憲という範囲で対処できるとか。

 しかし、野党間の協議といっても、すべてが政権協議ではなく、いろいろなレベルがあるのだ。国会共闘のための協議もあるし(現在の森友問題のように)、政策協議にとどまるものもある(労働法制問題で法案要綱を出した時のようなものだ)。その場合は自衛隊違憲論を貫き、政権協議になった段階で自衛隊合憲論に転換するのだろうか。

 それは難しいよね。だって、国会共闘、政策共闘が進んだとして、その上に政権共闘へと進むことが可能になるのだから、どこかで違憲論から合憲論へと転換するなんて至難の業である。

 野党共闘を重視している共産党のなかでは、きっと真剣な検討が行われているのだろうね。その一部でも知りたいものである。

2018年3月23日

 このところ右派メディアにばかり出ていましたが、ようやく本日、最近元気な「朝日新聞」が取り上げてくれました。

松竹伸幸氏

 これからは左派として認知してもらえますかね。いや、朝日のことを左派だと認定しているわけではありませんけれど。

 それにしても、右にも左にも気を配ってものを考えるというのは、いつから身についた習慣でしょうか。新聞だって、ずっと長い間、出勤途上のiPhoneで朝日新聞と産経新聞を読んで、会社に着いたら赤旗、読売等に目を通すというのが日常です。昨年、それまで全文を無料で配信していた産経が有料化されて、困ってはいるんですが。

 共産党の本部で仕事していた頃、たぶん「国旗・国歌」問題でかなり批判が寄せられた時だと思いますが、不破さんが、「政党としては右からも左からも批判がくるようなスタンスが望ましい」とおっしゃったことがあります。なるほどなと思いました。

 だって、政党というのは国民の多数を獲得することをめざしているわけで、左の人だけが満足するようなことを主張していては、仲間内では気持ちがいいかもしれないけれど、圧倒的多数の人の声には耳を傾けないということです。

 市民運動はそれでいいんです。特定の理念があって、それをめざすために全力をあげるのが目的ですから。

 でも、政党というのは、理念はあるからそれをめざすのだけれど、同時に政権を取りにいくことが使命なんです。自分の考え方が国民多数に浸透するまでは政権のことは考えませんというのでは、政党とは言えない。

 それならば、そのときそのときで、右側の人とどこで一致できるのかを考えなくてはいけません。自分の本来の考え方とは違うところがあるけれど、ここまでは容認しても意味があるという一致点です。

 そういうことを言おうとすると、左派から批判が寄せられることになります。右派からの批判というのは、「いっしょに働く必要のない人からの批判だ」として無視することは可能ですが(無視したら政権は取れませんが)、身内からの批判というのはいっしょに働いている人からの批判なので、なるべく批判されないようにしようという思考がどうしても働くんですね。その結果、身内だけに通用する考え方の範囲内で日々を過ごすことになってしまう。

 それではダメだよということだったと思います。いえ、不破さんがそういうことまでおっしゃったわけではありませんけれど、私はそのように受けとめました。

 退職して12年です。いいかげん、そういう思考方法から抜け出してもいいと思うんですけど、三つ子の魂百まで、というところでしょうか。

2018年3月22日

 必要があって、高坂正堯さん(故人)の「現実主義者の平和論」を再読した。『海洋国家日本の構想』(中公クラシック)に収録されている。

 高坂さんと言えば、保守派の国際政治学者ということで、左派には嫌われている。テレビにもよく登場し、左派に対する批判を展開していたので、私も何も読まないまま嫌っていた時期が長かった。

 しかし、いつだったか、氏の『国際政治』(中公新書)を読む機会があり、認識を改めることになる。自分で「現実主義者」を名乗るわけだから、もちろん現実主義的に国際政治を分析しているのだが、ただの現実追随でないものを感じたのである。

 そこで何年か前、「現実主義者の平和論」を初めて読んだのだ。いや感激した。どういうことが書かれていたか。引用をしてしまう。

 「中立論が日本の外交論議にもっとも寄与しうる点は、外交における理念の重要性を強調し、それによって、価値の問題を国際政治に導入したことにある」
 「国家が追求すべき価値の問題を考慮しないならば、現実主義は現実追随主義に陥るか、もしくはシニシズムに堕する危険がある」
 「こう考えてきた場合、日本が追求すべき価値が憲法第九条に規定された絶対平和のそれであることは疑いない。私は、憲法第九条の非武装条項を、このような価値の次元で受けとめる」
 「憲法第九条は、国際社会において日本の追求すべき基本的価値を定めたものと解釈されるべきものと思う」
 「問題は、いかにわれわれが軍備なき絶対平和を欲しようとも、そこにすぐに到達することはできないということである」
 「重要なことは、この権力政治的な平和から、より安定し日本の価値がより生かされるような平和に、いかにスムースに移行していくかということなのである」

 この思考過程って、いまの私とほとんど同じだ。高坂さんは、そういう考え方の上に、自衛隊と日米安保のもとで、どうやって平和に近づいていくかという議論を展開するわけである。

 そこで展開される議論には賛同できないものも多くて、だから左派、護憲派はカチンとくる部分があったのだろう。けれども、その思考過程は大事なものだと感じる。

 こうして高坂さん自身は、非武装中立論を唱える著名な研究者にも議論を呼びかけたそうだが、相手にされなかった。それでも、この論文が書かれた60年代初めから90年頃まで、護憲派であることを隠さなかった。

 その高坂さんが改憲を公言したのは、湾岸戦争に際して、侵略したイラクをクウェートから排除する軍事行動を護憲派の多くが批判したからだという。60年代、アメリカに侵略されたベトナムの人びとが武力で抵抗していた時、護憲派はベトナム側の武力を支持していたのだ。それなのに月日が経って、侵略されても武力で排除してはならないというのが護憲派ということになってしまっていた。高坂さんは忸怩たる思いだったんだろうね。

 改憲が日本政治の日程にのぼる現在(政局的には不透明さが増すけれど)、これをどう捉えるか。高坂さんの話に耳を貸さなかった誤りを再び繰り返すようでは、護憲から脱落する人があらたに生まれてしまうだろう。
 

2018年3月20日

 「政治主導」という政治と官僚の関係のあり方は正しいのだと思う。「忖度」もあっていい。

 だって、例えばだけど、消費税の引き上げに反対する野党の政権ができたとして、政権は、引き上げをしつこく求める財務官僚がいるとすれば、行政の主流から外そうとするだろう。引き上げでまとまっていた財務官僚の中に、政権を忖度して、引き上げ反対で態度を変える人が出てきてもおかしくない。そういう人を政権が優遇することになるのも当然のような気がする。

 現在の事態は、しかし、そういうものとは異質なところに問題があるのではないか。政治主導や忖度一般というものではないということだ。

 それは何かというと、前もどこかで書いたが、法令違反が平気でやられていることである。いくら政府が主導するといっても、官僚が忖度するといっても、許されるのは法令の範囲内のことなのに、そこに止める慎みを失ったのが現在の政治と官僚の姿だと思える。

 前川さんの授業に対する対応もそうだ。教育の中立性という教育法規の大原則に違反してでも、政治の側は政治主導を貫くのは当然だと考えている。法律を熟知しているはずの官僚の側は、法律違反だと承知しながら政治の要請に応え、自分たちの独自の判断でやったとして政治を守ろうとする。

 森友問題の現在の局面も同じこと。個別の国有地の売却などで、政治の側の働きかけなんて、ずっと存在していたことだ。道義的には問題だが、たとえ昭恵さんが「前に進めてほしい」と発言したところで(それが文書に残っていたところで)、それが売却を決めるいろいろな要因の一つであるなら、「法令の範囲内」「最後は法令にもとづいて決めた」で済ませられてきたはずの問題だった。

 ところが、「私も妻もまったく関係ない」という安倍さんの発言をきっかけにして、昭恵さんの関与が痕跡も残しておけないということになったのだろう。その結果、法律に違反してでも文書を改ざんすることが求められることになる。安倍さんが指示したとは思わないけれど、政治家からの求めというのは法律違反でもやらねばならぬこととという雰囲気が、役所に蔓延しているのではないか。その結果、国家に対して嘘を浮くことになる。

 これは議会制民主主義を裏切るものであるが、同時に、もう法治国家の体をなしていないことを意味する。現在の政治のありようを見ていると、そんな感じがする。大げさかもしれないけれどね。