2018年2月19日
いやあ、びっくりしました。公明党の太田昭宏さんが、私の『改憲的護憲論』の書評をご自分のブログに書いておられます。短いので、まず全文を。
「専守防衛の自衛隊を認める圧倒的多数の国民が、同時に憲法9条を守りたいと考えている」――。つまり「9条と専守防衛の自衛隊の共存」だ。そして「すべての政党が、侵略の際には自衛隊に頑張ってもらうという立場に立っているということは、護憲派の多くも『9条と専守防衛の自衛隊の共存』を受けて入れているということです」という。
護憲派できた著者が「護憲による矛盾は護憲派で引き受ける」「自衛隊の違憲・合憲論を乗り越える」と提起する。
太田さんって、大臣をされたこともありますが、山口那津男さんの前まで公明党の代表をされていた方です。ブログを見た時、目を疑い、思わず「えっ!」て声が出ちゃいました。だって、ちょっと調べれば私の政治的立場は分かるし、いやいや、本のなかにだって私の氏素性は包み隠さずに書いているんですから、分かってて書評をしてくださっているわけです。
びっくりしたまま、本の帯で推薦文を書いてくださった池田香代子さんにメールでお知らせしたら、「興奮しました」として、次のような返信が出張?先の徳島から。
「松竹さんの議論こそが、公明党(創価学会?)が求めていたものだったのか?!」
そうか。そういうことかもしれません。
どこかで書いたことがありますが、この本を書く最初のきっかけになったのは、十数年前、愛読していた「公明新聞」で「加憲論」が大々的に打ち出されたことでした。この加憲論は国民の心に届くかもしれない、護憲派は負けるかもしれないと、当時思ったのです。
その後の十数年は、私にとって、どうやったら加憲論を克服できるかという葛藤と模索の日々でした。その集大成が『改憲的護憲論』なんです。
安倍首相は現在、その公明党の加憲論を利用して、「これなら公明党も反対できないだろう」と攻勢を強めているわけです。公明党は自分が言いだしたことを逆手に取られて、困っているんでしょうね。
でも、私の本は、公明党の加憲論に共鳴しつつ、どうやったらそれを克服できるかという、十数年間のそれなりの努力が反映したものになっているはずだから、公明党が安倍さんの加憲論に異議を唱えるとすると、役に立つ素材はあるのだと思います。それで太田さんが、公明党や創価学会の方々に推薦してくれたのかもしれません。
うれしいなあ。もし公明党や創価学会の集まりに呼んでいただけるなら、どこにでも参上します。交通費と宿泊費と夜の懇親会費用を持ってもらえるならですけどね。
2018年2月16日
共産党にとっても支持者にとっても、他の問題では譲れても、「これは譲れない」という一線があるとすると、野党連合政権が核抑止力に依存するものとなるかどうかではないか。いざという時には周辺諸国に対して核兵器を投下してもいいのだという核抑止力まで支持するとは、共産党としては絶対に言えないだろう。
民主党も民進党も、公式に核抑止力依存を掲げていた。立憲民主党はできたばかりで、そこをはっきりとさせていないし、核兵器禁止条約についても、政府のように「反対」とまでは言っていない。しかし、北朝鮮の核の脅威があるから核抑止を否定できないこと、その点から核兵器禁止条約に賛成とは言えない状態であることは、時として言明している。
そこをクリアーするために、政権のための政策協議にいおいては、そこを曖昧にしたまま何らかの合意をするという考え方もあるようだ。例えば、「核兵器廃絶をめざす」というような合意である。それに意味がないとは言わない。
しかし、政策協議でそれで合意しても、政権を手にしたあとのことを考えれば、それは容易に崩壊する。例えば、年に1回の「防衛白書」では核抑止力依存が公然とうたわれているが(民主党政権のときもそうだった)、その文言を残すのか削除するのかが問われる。曖昧な合意の生命力もそこで尽きることになる。
それよりも何よりも、唯一の戦争被爆国の日本で、ずっと原水爆禁止運動とともにあった共産党が、他の国に核兵器を使用する政策を維持するかどうかで、曖昧な態度をとることは許されないのではないか。トランプ政権のNPRが出され、再び日本への核持ち込みの可否が一つの焦点となろうとしているが、この問題の一番のポイントは、やはり核使用である。日本への核持ち込みがなければ、日本防衛のために核兵器を使うという核抑止はOKなのか、そこが問われているのだ。
ここは、「核抑止なき日米安保」「核抑止なき専守防衛」を打ち出し、本格的にみずからの防衛政策を鍛えるべき時期ではないか。それを掲げて野党との政策協議に積極的な提案をしていくべきではないか。
これを論じると思い出すのは、ニュージーランドの非核政策である。核持ち込みを拒否するところからはじまって、「核なきアメリカとの同盟」という考え方を打ち出すことになり、次第に同盟そのものが機能しなくなった。ニュージーランドは南太平洋非核地帯条約に入っており、オーストラリアも含めたアメリカとの軍事同盟の名前は残っているが、ニュージーランドの加盟は有名無実になっている。
もちろん、目の前に中国があり、北朝鮮があり、ニュージーランドと何もかも同じで行くことには、世論の動きは微妙であろう。しかし、挑戦しがいのある課題であることは確かだ。こうして自前の防衛戦略を持つことができれば、アメリカとの関係で卑屈になることもなくなり、地位協定の改定や思いやり予算の抜本的な見直しなども視野に入ってくるだろう。
1998年、この連載で何回もふれたけど、政策が真逆な政党間の連合政権構想論が不破さんによって出され、2000年に自衛隊活用論が提唱されることにより、安全保障分野でもそういう野党間の政策協議の土台が共産党の側から生まれることになった。政策協議を積み重ねて政権協議につなげるという可能性があった。
しかし、その共産党が自衛隊活用論をすぐに封印することにより、その後、十数年にわたって足踏みが続いたわけだ。十数年前にちゃんと対応できていれば、現在、野党間の政権問題がこれほどこじれることはなかっただろう。現在、政権政党をめざすなら、最後のチャンスとでも言うべき時だ。これに失敗したら、共産党は、国会にも代表議席を持つ平和主義の市民運動団体のような存在として、今後は生きながらえることになるだろう。支持者の多くは、共産党が現実的になるより、その道を選びたいのかもしれないけれど。
ということで、明日、この連載のタイトルで、人前で講演してくる。共産党関係者も何十名も来るみたいで、緊張しちゃうな。よく議論してこなくちゃ。(了)
2018年2月15日
日米安保は日本と世界の平和を乱す根元的な要因であるという現在の共産党の認識のまま、日米安保が平和のために必要だという他の野党と政権共闘ができるのか。これは相当に難しいという自覚がまず必要である。自衛隊問題のように、将来は真逆だがいまは一致できるというのではなく、いまも将来も真逆なのだから。
前原さんが安全保障政策での違いを理由に共産党との共闘を拒否し、希望との連携に走ったが、おそらく前原さんの記憶に残っているのは、民主党政権の外務大臣をやっていた際、思いやり予算特別協定の延長案件を国会に出したのに対して、共産党が猛烈にくってかかったことだろう。そんな共産党と政権をともにするなんて、とても考えられなかったに違いない。その気持ちは理解できる。
ではどうしたらいいのか。100点満点の回答は見つからないし、存在もしないだろう。私としても選択肢を提示できる程度だ。
一つは、新安保法制を廃止する以外は、それ以前の自民党政権の安全保障政策を受け継ぐという選択肢だ。細川政権が発足に際して「国の基本政策を引き継ぐ」としたり、村山自社さ政権も自民党と同じ安全保障政策だったが、それと同じやり方である。立憲民主党も現在、新安保法制廃止以外は自民党と同じなので、これなら一致できる。
この場合、思いやり予算だって、細かい問題は別にして賛成することになるだろう。もともと共産党が野党との共闘で政権を取りに行くことを決めた際、新安保法制以外の法律と条約の枠内で対応することを打ち出したわけだから、織り込み済みということになるのではないか。
問題は、それに共産党員や支持者が納得できるかだ。でもそれは、共産党が覚悟を決めて説得する以外にない。
安全保障分野で現実的な政策をとる際、共産党が覚悟を決めて内部を説得できるかどうかは、かなり難しい問題だ。自衛隊の活用を最初に決めた2000年の党大会の際も、はげしい批判が共産党には寄せられた。それに対して正面から応えて説得するのではなく、自衛隊活用は将来の段階だと棚上げし、自衛隊活用論という言葉も使わなくなり、自衛隊解消論と名前を変え、活用はそのなかの一コマみたいな位置づけになって、10年余にわたって封印されることになった。そのため、党員や支持者からの批判は寄せられなくなり、余計な努力はせずに済んだ。今回も、選挙の時だけ連合政権では自衛隊や安保を認めるとのべたが、そこだけにとどまって本気を見せないなら、2000年のあとと同様、みんな「一時の気の迷いで終わった」と安心してしまって、何も変わらないだろう。
しかし、野党連合を本気でめざすならら、そういうワケにはいかない。今回こそ、軍事力の必要性という問題を本気で議論し、定着させていく好機なのだと感じる。
ただ、それにしても、安保は平和を乱す元凶だが政権取りのために認めるというのでは、党員や支持者が納得しないだけでなく、他の野党だっていっしょになろうと思わないだろう。国民からの理解も広がらない。
少なくとも、共産党も含む野党政権のもとでは、日米安保を日本の平和のために運用できる可能性があるくらいの考え方は不可欠だろう。自分が政権をとっても安保が侵略の道具として機能するのは変えられないというのでは、新安保法制が廃止されるという利点はあっても、政権入りの意味はほとんどないことにならないか。その上で、この段階においては、日米安保を国際法を遵守したものにしようとする野党政権側と、これを侵略のために使おうともするアメリカとの緊張は避けられないとして、将来は廃止するという態度を明確にするのはどうだろうか。これなら、野党間で態度が真逆でも、なんとか連立は維持できると思う。
だけど同時に、自分が態度を変えるというだけでなく、いのちをかけて他の野党に政策変更を求めることが必要な分野もある。それが受け入れられないと政権はいっしょにできないというくらい大きな問題だ。明日はそれを論じたい。(続)
2018年2月14日
自衛隊の問題はわりと簡単である。自衛隊違憲論のままでは無理だっただろうが、そこを共産党が転換したので、あとは政策問題だけになる。
しかも、共産党は、選挙の最中の目立たない形ではあるが、自衛隊が国民のいのちを守るために必要だと言明した。まあ、それ以前もそれ以降も、「自衛隊をなくすのが基本であるが、国民世論が合意するまではなくせない」と、自分の判断でなくさないのではなくて国民に判断を委ねるというのが大きな筋であって、どこまでそれを他の野党が真剣味をもって受けとめられるかは分からないが、とにもかくにも一度は自衛隊は必要だという自分の判断を示したのであって、野党の政策協議ではそう主張できるわけだ。
あと克服すべきは二つに限られる。細かい問題を除くとだけど。
一つは、国民のいのちを守るために自衛隊は使うという立場を、「基本政策」と言えるかどうかだ。例外的に認めるというのでなく、それを「基本だ」と言えるかということだ。
これは難しくないと思われる。だって、国民のいのちを守ることを基本政策だと言えないなんて、政党としては失格だろうから。政党としての基本のキであるから、覚悟を決めてそう言えばいいだけだ。
もう一つは、国民のいのちを守るため、自衛隊の人員や装備を維持、整備していくという立場をとれるかどうかだ。これはそう簡単ではない。
共産党は以前、自衛隊を活用するのは民主連合政府になってからという立場をとってきて、それ以前の段階でも(共産党用語の三段階論でいうと第一段階)使うと主張しだしたのは大事なのであるが、その第一段階の政府の任務は、大会決定によると「軍縮に取り組む」ことだとされている。それを機械的に当てはめると、野党との連合政権においては、自衛隊を縮小せよと主張することになるわけだ。ましてや、新しい装備の導入など言語道断、ということになってしまうだろう。実際、共産党の歴史において、自衛隊が新しい装備を入れるという際に、一度も賛成したことはない。それを野党との連合政権でも続け、自分の態度に同調しなければ下野するという立場をとることになると、他の野党はどれも付いて来られない。政策協議にも入れない。
しかしこれも、国民のいのちを守るために自衛隊は必要だという態度を堅持できるなら、その応用問題に過ぎない。すべて反対してきた過去の歴史との整合性は問われるだろうけれど、党内に矛盾や反対があっても説得する以外にないように思う。
それと比べると、日米安保にかかわる問題はやっかいである。自衛隊の問題は、それを将来廃止するかどうかで、他の野党と決定的に違いがあるけれども、当面は活用するという点で一致しているので、克服はできるのである。でも、日米安保の問題は、それが現在、日本と世界の平和にとって必要なものなのか、逆に平和を乱すものなのかというところで決定的に違いがあるので、非常に難しいのである。(続)
2018年2月13日
さて、共産党は新安保法制に反対した野党との間で連合政府をめざしているわけだが、安全保障政策での一致点はそこしかないのに果たして連立できるのかという問題に入っていく。あるいは、どういう条件のもとでなら可能かという問題になるかもしれない。
一般論としては、小異(あるいは大異)を捨てて大同につく、ということが語られる。第二次大戦中にファシズムに反対した論理としての「神を信じる者も信じない者も」という言葉もある。だが、安全保障政策が真逆だということは、そういうおおざっぱな(失礼!)考え方のもとでは克服できないように思う。
この連載で取り上げてきた98年の不破さんの論考では、真逆でも可能だということを証明する事例として、将来の税制像は異なるが、当面の消費税引き上げに反対では一致したことをあげていた。それはそうだと思うが、それはその課題だからできることだ。政権をとって、消費税の引き上げをしなければ、公約が守られている状態が続くことになる。共産党は国会に提出される法案の8割ぐらいには賛成しているはずだが、生活関連の法案というのは、保守か革新かを超えて一致するものが多いのが現実だ。国家予算だって、経済に限って言うと、「ここを削ってここに回せ」というものはあるだろうが、「ここをゼロにしないと予算そのものをとおさない」という態度をとることはなかろう。意見の違いを保留して話し合っていくことが可能だと思う。
しかし、安全保障はそういうものとは性質が異なるのではないだろうか。連合政権が新安保法制を廃止するのは貴重なことだが、廃止するにしても徹底した国会審議が必要だから、短くても一年はかかる。しかも共産党は、それを達成したら野党になるという立場ではなさそうなので、長きにわたって政権として安全保障にかかわることになりそうである。
そして、安全保障にかかわる問題は、われわれが日々体験しているように、毎日何かしらの判断が必要になってくるわけだ。それは北朝鮮の核・ミサイル実験かもしれないし、中国の船舶による領海侵犯かもしれない。それに政府として必ず対処しなければならない時に、北朝鮮や中国の行為こそが問題だという野党と、それは問題だが根源にあるのは日米安保だという認識の共産党と、どうやったら信頼関係のなかで対処していけるのかということなのだ。
あるいは、予算の問題にしてもそうだ。5年に一度はめぐってくる思いやり予算の特別協定の延長案件に賛成してきた野党と反対してきた共産党は、どこかで一致することが可能なのか。イージスアショアなども同じである。
共産党はこの間、新安保法制以前の法律、条約の枠内で対処すると言明している。それは、思いやり予算にも賛成するということを意味しているのだろうか。
政策が真逆な政党の間で連合政権をめざすには政策協議の積み重ねが大事というのが、不破さんの論考の眼目であった。その通りだと思う。それならば、思いやり予算に賛成するかどうかということも含め、共産党の側から問題を提起していかないと、政策協議に入ろうということにはなっていかないだろう。
では、どういう提起をすべきだろうか。(続)