『超・嫌韓流』はじめに・2

2014年6月25日

 前回の記事のタイトル、はじめにの「上」としましたが、とっても「上中下」の3回では終わらないと判断したので、このようにしました。

 政治的にも経済的にもできないことって何のことか。もう少し、詳しく書きましょう。

 経済的なことは、すごく簡単でした。国内外から出されている補償の求めに全部応えるとすると、すごい金額になることが予想されていましたが、それでいいのかということです。

 何しろ、当時盛り上がっていた補償要求のなかでは、慰安婦のことはごく一部にすぎません。国内的にいえば、原爆被爆者が国家補償を求めて闘っていましたし、空襲の被害者も同様です。シベリア抑留者や治安維持法の犠牲者などもいました。国外では、中国人や韓国人の強制連行、強制労働の問題があり、台湾の元日本兵への補償とか、日本で原爆に被爆し、韓国に戻った方々の問題も存在していました。

 もちろん、被害者の方々の要求を第一に考えれば、それらすべてで満足する補償をということになるのでしょう。しかし、日本が大戦中に犯した罪が大規模だっただけに、要求される補償額も巨大なものでした。そして、それだけのものを補償しようとすれば、国民全体のために社会保障や暮らしを充実させる政府予算を組もうと思っても、それが難しくなるのではないかというのが、宮本さんの指示の核心でした。じつは当時の政府も、個人補償に応じない理由のひとつとして、いったん補償に応じれば他の問題にも波及し、補償規模が数十兆円にもなって国の財政が破綻することをあげていました。これは、補償に応じない口実という要素が大きかったと思いますが、同時に、お金をばらまくことで国民多数の支持を集め、政権を維持してきたという「実績」がなせる技でもあったと思います。予算の少なくない部分を補償に充ててしまえば財源が不足し、政権維持に必要な国民の支持が得られないと踏んだのでしょう。

 結局、発表された共産党の「提言」(「侵略戦争の反省のうえにたち、戦後補償問題のすみやかな解決を」九月六日付)は、以下のような考え方を採用ました。

 国内の補償問題では、被爆者の要求にのみ特別の位置づけを与えました。政府は、一般の被災者とのバランス上、被爆者だけに補償をすることはできないという立場でしたが、「提言」は、核兵器は特別の残虐性をもった兵器であって、一般被災者と同列においてはいけないという立場を表明しました。これは逆の面からとらえると、一般被災者への補償については、被爆者のように重視はしないということでもありました。

 国外からの補償要求については、「あらゆる補償要求にたいして、すべて無制限でこたえよともとめているのでなく、それぞれのケースごとに、その性格、国際法上の問題等を慎重に検討すべきことはいうまでもない」と明確にしました。そして、従軍慰安婦の事例をあげて、「国家による人道的な犯罪にかかわる問題は、すみやかに必要な賠償をすべき」だと主張しました。これは、人道上の問題では補償をするが、経済的な損害等の問題では補償しないという意味合いをもっていました。もちろん、両者を画然と区別することは簡単ではないでしょうが、そういう考え方をしたということです。

 「提言」が公表されたあと、補償問題に取り組んでいたある団体から、「なぜわれわれの補償要求について触れられていないのか」という抗議が寄せられました。「提言」は、ただ基準となる考え方を示しただけであって、個別の案件について「これは補償するがこれはしない」と判断したものではなかったのですが、共産党はすべての要求に応えてくれると思っていた方々には、それなりの衝撃だったのだと思います。(続)

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