70年前の戦争の評価をできない人が…

2015年5月22日

 昨日、関空を出て、クラクフに到着。いま朝で、本日、アウシュビッツを訪問する。その後に何か書けるかどうか分からないので、今のうちに日本のことを少し。

 NPT再検討会議で、中国が各国首脳の広島、長崎訪問を勧める内容に反対し、それが削除された問題。あまりにも非常識で、日本からニューヨークを訪れている人たちには是非、中国代表のオルグをやってほしいと思っていた。そうしたら、共産党の緒方副委員長が中国大使館の参事官と会い、削除要求の撤回を求めたとのことだった。

 当然のことである。これでよしとせず、NPTに行っている人にも、やはり中国代表と会い、要請するなり抗議するなりしてほしい。そういうレベルが日本の国民レベルで通用せず、「反中感情」にもつながるのだということを、少しでも多くの中国政府・党幹部に伝わるようにすることが、今後の日中関係にとっても大事だと思うので。

 その翌日だったか、国会で久しぶりに党首討論があり、共産党の志位さんが戦後70年談話の問題を取り上げていた。これ、聞いていた人の関心は、安倍さんがポツダム宣言の内容を知っていたか知らなかったかに集中しているようだが、大事なのはそこではない。

 安倍さんは、「侵略」の事実を認めた細川首相以来の首相とは異なり、それ以前に首相に逆戻りして、「後世の歴史家が判断する」と逃げたわけである。日本が引き起こした戦争の評価についてね。後になって新しい資料が発掘されて、歴史の評価が変わることもあるのだとのべて。

 そういうことって、歴史学の領域ではよくあることだ。日本の近現代史をどう評価するかということでも、成田龍一さんなんかは、その歴史が何回も書き換えられたことを強調しておられる。

 だけど、政治の世界では、そういうことは許されないのだ。なぜなら、目の前で戦争が起こり、それに対応することが求められるからだ。支持するとかしないとか、参加するとかしないとか。

 とりわけ安倍さんは、いまの国会に新安保法制を提出している。今後、アメリカの戦争を後方支援するのか、あるいは集団的自衛権を発動して日本も参戦するのかいろいろな判断が求められる。

 その際、アメリカの戦争が正当なものだ、これは侵略ではないのだと判断できないと、支持することも参加することもできないだろう。それは「後世の歴史家が判断する」ことで、もしかしたら「侵略」だと判断されるだろうが、日本は参加するというような態度はとれないことは明白だ。その戦争が正当なものだと何らかの判断をして参加するのである。

 つまり、安倍さんは、70年前の戦争の正否を判断できないのに、目の前の戦争の成否は判断できると言っているに等しい。なぜ、70年前のものは判断できないのに、目の前のものは判断できるのか。その根拠を安倍さんに問いただしていくことは、今国会の大きな仕事になるであろう。なってほしい。

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