イスラム問題の論じ方

2015年11月26日

 先日、東京で、子ども向けにイスラム問題をどう本にするかということを議論してきた。研究者とか編集者とか、イスラム教徒もいた。

 まあ、これを取り上げようとすると、当然これは不可欠、というものがあるよね。歴史はどうだとか、どんな教えなのかとか、政治社会はどうなっているかとか、等々。

 それを議論している最中、私にとっては衝撃的な発言が、ある研究者から出された。そういう論じ方が正しいのだろうかという問題提起だった。

 どういうことかというと、我々は何のちゅうちょもなく、何の前提もつけずに、「イスラム社会」と言うけれど、そんな社会があるのかということだった。それはこんな社会だと、あなたは言えるのかということだった。

 たとえば、欧州やアメリカや南米は、キリスト教が主流でキリスト教徒が多くて、歴史的にもキリスト教が歴史の形成と関わってきた。だからといって、そういう社会のことを「キリスト社会」とは言わない。それなのにイスラムだけを「イスラム社会」と呼んでしまうのは、それだけで正しい理解を妨げるのではないだろうかということだった。

 なんだか、深く考えさせられた。もちろん、その先生だって、イスラムの名を冠する研究機構に属していて、イスラムという言葉自体を全否定しているわけではない。57カ国13億人が参加する「イスラム協力機構」が存在するように、政治社会のなかでイスラムはキリスト教とは異なる位置づけを持つ。

 しかし、その「イスラム協力機構」だって、ムスリムがマイノリティである国でも参加しているというし、逆に1億5千万のムスリムのいるインドは加盟していない。何がイスラムかという定義は、そう簡単なことではないのだ。

 また、その日も議論になったのが、食事制限としてのハラールだが、世界的な統一基準があるわけでもなく、国その他でバラバラなのだそうだ。そして、ムスリムが少ない社会では、食べてはいけないものを明確にするため、ハラールが問題になるわけだが、ムスリムの多い中東では、その言葉さえ聞くことはあまりないという。ハラールを強調した本があるとして、ムスリムの多い社会では理解されないということになるのだろうか。

 ということで、その研究者の問題提起のなかには、イスラムをまっとうに理解するための要素があるように思えたのである。イスラムとは何かを定義する4冊セットの本の最後の巻は、「イスラムをどう定義してはならないか」というようなテーマが望ましいのかもしれない。

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