藤野発言の背景を考える

2016年6月28日

 昨日の続き。二度とこんな問題が起きないよう、もう少し論じておく。

 共産党が新安保法制反対で野党共闘路線に踏み切り、成立後もそれを基礎にして、法制廃止の国民連合政府構想を提唱した。その直後、日本防衛のために安保と自衛隊を使うのだと打ち出した。これは、野党共闘で連合政府をつくるうえで不可欠のことであって、香川で共産党候補を野党共同で推すにあたり、安保廃棄、自衛隊の段階的解消という共産の方針を持ち込まないと文書で約束したことも含め、その英断は賞賛されるべきものだ。この英断がなければ、32の1人区で野党統一候補が実現するなど、あり得なかっただろう。

 問題は、当面は自衛隊を解消しないという方針が、どういう根拠で打ちだされているのかということだ。解消という方針をもっていながら、それを現在は打ち出さないということの意味を、どう根拠づけているのかだ。そこが見えない(議論されていない)ため、人によって、現在の方針の受け止めが違っていて、藤野発言のようなことになるのだと思う。

 この問題をめぐっては、二つの立場があるのだろう。もちろん、そのあいだには、いろいろなバリエーションがあるだろうけれど。

 一つは、日本防衛というか日本国民の命を助けるために、いまは自衛隊が必要だという立場だ。将来は自衛隊が不要になる時代が来ることは確信しているが、いまはまだそこまでにはなっていないという立場。

 もう一つ。日本防衛のために、いまでも自衛隊は不要で、憲法九条にもとづく平和外交で十分だと考えているが、そういう考え方が国民(他の野党)の理解することにならないので、理解が進むまでは自衛隊をなくすとは言えないという立場。

 この二つの立場は、現在は自衛隊が不要だと言わないという点では共通しているが、根本的には相容れない。いま現在(将来は別にして)、国民の命のために自衛隊が必要だと考えるのか、不要だと考えるのかでは、まったく違うからだ。

 この問題が、まったく議論されていない(議論されているのかもしれないけれど、外には見えない)。そのため、後者に近い立場の人は、本当は防衛予算は不要だと考えているために、防衛予算自体を否定的なものとして描きたがっていて、その本音が藤野発言のようになっていく。
 
 根本的に違うため、議論しはじめると、分裂の様相を呈するのかな。だから議論できないという現実が横たわっているのだろう。

 でもでもでも。

 参議院選挙は、政権をめざす選挙でないため、この問題が議論されなくても(投票まで時間もないし)、乗り越えられる可能性はある。だけど、本当に政権をめざす総選挙までに、この問題が真剣に議論されないと、政権獲得なんて問題外ということになってしまうのではないだろうか。

 政権より理念、というなら、それでも構わないんだ。けれど、理念重視ということだと、野党共闘は成立せず、安倍政権が継続するということになるので、難しいわけである。

 

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