11年前の懐かしい論文・4

2016年7月28日

 いまではどうか知りませんが、当時、共産党のなかでは、自己批判とか相互批判という言葉がよく使われていました。間違いを犯した場合、周りからの批判に率直に耳を傾け、お互いが真剣に討論を行い、みずからの間違いの根源について思索を深め、成長の糧にするためのものと言ったらいいでしょうか。

 普通、そういうことを言うと、上級の人が下部を批判するというように捉えられがちです。しかし、そうでもないんだとびっくりしたのが、1983年の8月号の「前衛」でした。

 そうなんです。なんと不破哲三委員長と上田耕一郎副委員長が、そろって自己批判書をこの号に出したのです。不破さんのは、「民主集中制の原則問題をめぐって―党史の教訓と私の反省―」というものでした。上田さんのは、「『戦後革命論争史』についての反省―「六十年史」に照らして―」です。

 簡単に言うと、1960年以前、共産党は革命の基本方針をめぐって大きく意見が分裂した状態にあって、そこをなんとかしようと共産党の内部でいろいろ議論していたわけです。不破さんや上田さんは、その内部での議論にも参加していたわけですが、同時に、『戦後革命論争史』という本を出し(1956年〜57年)、外部からその議論に影響を与えようとした。それを「自由主義、分散主義、分派主義の誤り」だったとしたのが、この自己批判書だったのです。

 内容より以前に、26年も前に出した本のことについて、83年になって自己批判した、しかも共産党の最高幹部みずからが自己批判したということで、すごい組織だなあとびっくりした記憶があります。おそらく共産党が綱領を確定した60年以来、83年まで、自己批判という言葉は頻繁に使われていても、こういうことは初めてのできごとだったと思います。83年以降いままで33年経ちますが、その間にもなかったことです。ただ一件を除いて。

 その一件というのが、私のことでした(幹部ではありませんでしたが)。昨日まで連載していた『議会と自治体』に掲載した論文について、常任幹部会からきびしい批判が寄せられ、翌月号(2005年5月号)に、「前号「九条改憲反対を国民的規模でたたかうために」に関連して」と題して、私の自己批判書が掲載されたのです。いや、不破さんたちと並んでのことですから、何と言ったらいいか、自己批判の価値が落ちたかもしれませんが。

 ところで、ブログでこんなことを書いていると、それこそ不破さんではないですが、オマエが「自由主義、分散主義、分派主義の誤り」を冒しているのではないかとおしかりを受けそうです。意見の違いを外に出して影響を与えようとしているとか。

 でも違うんです。2005年からこれまでずっと、この問題は活字にしてきませんでした。11年経って、いまなぜこんなことを書いているかというと、時間が経って過去の問題になったからというようなものではなく、意見の違いがなくなったからなんです。だから、外部から影響を与えようにも、与える対象(意見の違い)そのものが存在していないんです。

 共産党の方針について多少でも知っておられる方なら、昨日までの3回の連載が方針に違反しているなんて、どなたも思われませんでしたよね。でも、当時はそう思われたんですね。(続)

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